竹敷のうへかた山は紅の八入の色になりにけるかも 新羅使(大蔵麿)
竹敷《たかしき》のうへかた山《やま》は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色《いろ》になりにけるかも 〔巻十五・三七〇三〕 新羅使(大蔵麿)
一行が竹敷《たかしき》浦(今の竹敷港)に碇泊した時の歌が十八首あるその一つで、小判官|大蔵忌寸麿《おおおくらのいみきまろ》の作である。「うへかた山」は上方《うえかた》山で今の城山であろう。「八入の色」は幾度も染めた真赤な色というのである。単純だが、「くれなゐの八入《やしほ》の色」で統一せしめたから、印象鮮明になって佳作となった。「くれなゐの八入《やしほ》の衣朝な朝な穢《な》るとはすれどいや珍しも」(巻十一・二六二三)がある。この時の十八首の中には、大使|阿倍継麿《あべのつぎまろ》が、「あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りの乱《まがひ》は今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)、副使大伴|三中《みなか》が、「竹敷《たかしき》の黄葉を見れば吾妹子《わぎもこ》が待たむといひし時ぞ来にける」(同・三七〇一)、大判官|壬生宇太麻呂《みぶのうだまろ》が、「竹敷の浦廻《うらみ》の黄葉《もみぢ》われ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ」(同・三七〇二)という歌を作って居り、対馬娘子《つしまのおとめ》、玉槻《たまつき》という者が、「もみぢ葉の散らふ山辺《やまべ》ゆ榜《こ》ぐ船のにほひに愛《め》でて出でて来にけり」(同・三七〇四)という歌を作ったりしている。天平八年夏六月、武庫浦《むこのうら》を出帆したのが、対馬《つしま》に来るともう黄葉が真赤に見える頃になっている。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じているのは、単に歌の上の詩的表現のみでなったことが分かる。対馬でこの玉槻という遊行女婦《うかれめ》などは唯一の慰めであったのかも知れない。この一行のある者は帰途に病み、大使継麿のごときは病歿している。また新羅との政治的関係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき一聯《いちれん》の歌である。帰途に、「天雲のたゆたひ来れば九月《ながつき》の黄葉《もみぢ》の山もうつろひにけり」(同・三七一六)、「大伴の御津《みつ》の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)などという歌を作って居る。