飽波神社

奈良県生駒郡安堵町

祭 神

素盞鳴命


現社地付近は、聖徳太子が膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)とともに晩年を過ごしたという飽波宮があったと伝わります。また、神社の前の道は太子道と呼ばれる法隆寺と飛鳥宮を結ぶ道で、聖徳太子が斑鳩から飛鳥の宮廷に通った道といわれています。

「大和名所図絵」には次のような伝承が記述されます。聖徳太子は、東の空に五色の雲がたなびき霊剣が現れる夢を見ます。この霊剣は三種の神宝の霊剣であり、スサノオが牛頭天王として現れたと考えた太子は牛頭天王を祀る神祠を建て、物部守屋を亡ぼした後崇敬した、というものです。この伝承を受けたものか当社の創建は一般的に聖徳太子に絡めて語られています。もっとも、「大和名所図絵」は1791年(寛政3年)の刊行になるものなので、江戸期に伝わっていた古伝承ということになりますが。



上記伝承からすれば、物部守屋が没した587年(用明天皇2年)からそれほど時間の経っていない7世紀の飛鳥時代に牛頭天王への祭祀があったということになりますが、残念ながら本稿筆者はそれが正確なのかどうかを把握してはいません。

牛頭天王の伝承が記述される備後国風土記の成立が717年前後とされ、牛頭天王を祭祀する一方の総本宮である広峰神社(兵庫県姫路市)の創建が734年(天平6年)であると伝わることを考えると、聖徳太子の活動時期とは100年ほどの開きがあることになります。
●陶芸家 富本憲吉の筆になる扁額●
●国史現在社の碑●

聖徳太子が牛頭天王を祀ったことが史実であると仮定するなら、当社飽波神社は最古の牛頭天王社であることになりますが如何なものでしょうか。

牛頭天王は仏教で祭祀される尊格であるといわれていますが、神仏習合色や陰陽道色の強い神であり純粋に仏教の尊格とはいい難いものがあります。いかに聖徳太子が仏教に通じていたとしても、この件はやはり、当社が牛頭天王を祭祀するようになってから後、すなわち聖徳太子が没してからはるか後年、この地にゆかりの深い聖徳太子に仮託して作り出された伝承ではないかと推測します。



牛頭天王信仰にはいくつかの系統が知られています。兵庫県姫路市の広峰神社を中心にした広峰信仰、愛知県津島市の津島神社を中心にした津島信仰、そして京都の祇園御霊会=祇園祭=祇園信仰など。これらは同じ牛頭天王への信仰でありながらその内実は微妙に違うものと考えられています。ちなみに、当社の近くには広峰神社があり当社の旧社地であるともいわれているので、そこに何らかの示唆があるかもしれません。

7世紀の大和朝廷で牛頭天王は知られていたのでしょうか。もし知られていたなら、聖徳太子は牛頭天王を祭祀したのでしょうか。その祭祀は、後のいわゆる祇園祭と同じでしょうか。仮定ばかりの話では埒があきませんが、スサノオや牛頭天王に興味を持つ本稿筆者にとってはなかなかに興味深い由緒を持つ神社です。

さて、「奈良県史5神社」には次の記述があります。

宝暦六年(1756)のナモデ踊の扁額や衣装・用具など保存していて、江戸のころ当社に雨乞いの祈願のナモデ踊が行われていたことを示している。天誅組の伴林光平が、文久元年(1861)六月十二日夜当社に参詣ナモデ踊を見た時の様子を、その神椙帳に記している(「奈良県の地名」)。



ナモデ踊りは、奈良県内なら何カ所かに伝わる雨乞成就の謝意の踊りです。牛頭天王は水神の属性を持つと考えられることがあり、あるいはその関係から当社においてナモデ踊りが執り行われたのでしょうか。

当社はその踊りに使われた関係資料を多数保存しているとのことで、「ナモデ踊り関係資料」として115点が奈良県指定の民俗有形文化財に登録されています。

【Link:奈良県指定有形民俗文化財】

また、長らく執り行われていなかったその踊りは、当社においては1995年(平成7年)に復活させられました。

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