穴石神社・都美恵神社

穴石神社
三重県伊賀市石川

●穴石神社●
祭 神

天香々背男命ほか計十三柱

 
穴石神社 祭神

 
木花佐久夜比売命
 
天津児屋根命
 
天長白羽命
 
天香香背男命 

市杵島比賣命
 
宇迦能御魂神
 
火産靈神 

彌都波能賣神 

大山祇命 

武甕槌命 

経津主命
 
建速須佐之男命 

仁徳天皇
●穴石神社祭神●

穴石神社(あないしじんじゃ)は延喜式神名帳に記載される由緒を誇り、当ページ掲載の2社はその論社となっています。現在は、当ページに掲示しているの各画像のように多数の祭神が祀られています。これは明治の神仏分離期、神社の統廃合が行われた結果廃絶した神社の祭神を合祀したためと考えられます。が、本来の祭神は伊勢津彦(イセツヒコ)であったかもしれません。

以下は、「風土記:平凡社ライブラリー」および「日本の神々6:白水社」を参照します。



伊勢国風土記逸文には、「伊勢というのは、伊賀の安志(アナシ)の社においでになる神は、出雲神の子出雲建子命、またの名は伊勢津彦神、またの名は天の櫛玉命である。」とあります。ここに書かれる「安志の社」が、現在の穴石神社または都美恵神社と考えられています。つまり、この2社は「安志の社」の論社であることになります。

穴石神社は、明治期までは天津社と呼ばれていたそうです。また、都美恵神社は大正期までは穴石神社と呼ばれていたとされ、「安志の社」であった可能性は都美恵神社の方が高いと考えられています。
●穴石神社●

伊勢国風土記逸文には、意訳として次のような話が記述されています。神武帝の治世、神武の命を受けた天御中主尊の十二世の孫天日別は、大和から東に数百里の場所にある、イセツヒコの治める国を平定に向かいました。「汝の国を天孫に献上せよ」という天日別の理不尽な申し入れに、イセツヒコは当然のごとく従えません。イセツヒコの拒否に対して天日別は武力を行使し、残念なことにイセツヒコは敗れてしまいます。

敗れたイセツヒコは、「八風を起して海の水を吹き波に乗りて」「大風四方に起りて波を打ち揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり遂に波に乗りて東に去りき。」とあり国を明け渡したことが記述されます。このことから、イセツヒコとは、台風のように雷をともなう大規模な気象現象を神格化した神であるかとも想像できます。



播磨国風土記には「伊和大神のみ子伊勢津比古命」とあります。播磨国風土記の伊和大神とはオオクニヌシ神のこととされており、伊勢国風土記逸文の「出雲神」もオオクニヌシ神である可能性が高いので、播磨国風土記と伊勢国風土記とが整合することになります。伊勢国風土記逸文には、イセツヒコは信濃に逃れたとの伝承も記述されており、ここにオオクニヌシ神の子タケミナカタの伝承との類似を見ることができます。イセツヒコという神は、出雲に関係の深い神であるといえるかもしれません。

なお、住吉大社神代記(参照:校訂訓解 住吉大社神代記)には、伊勢船木氏の遠祖大田田神の系譜として、「即ち大田田命の子、神田田命の子、神背都比古(かみせつひこ)命。此の神、天売移乃(あまのめやの)命の児、富止比女乃(ほとひめの)命を娶して生める児、先なるは伊瀬川比古(いせつひこ)乃命。此の神、伊瀬玉移比古女(いせたまやひこめ)乃命を娶し坐して此の伊西(いせ)国の船木に在す。又次の子に坐すは木西川比古(きせつひこ)命、此の神、葛城の阿佐川麻之伊刀比女(あさつまのいとひめ)命を娶し坐して生める児、田田根足尼(たたねのすくね)命。」とあります。

住吉大社神代記の伊瀬川比古(いせつひこ)は、その系譜記事から見て伊勢国風土記逸文や播磨国風土記と同じ世代のイセツヒコであるかは分かりません。ともあれここでは、伊西国の船木とは現在の三重県度会郡大紀町船木のあたりであることに注目します【MAP】

伊勢国風土記逸文の記述は、イセツヒコの名をもって「伊勢の国」と名付けたという地名説話にもなっており。これは当然伊勢神宮を含む地域を指すことになります。また、「日本の神々6」によれば、三重県四日市市の足見田神社【MAP】の主祭神がイセツヒコだとする説もあるようです。



さらに、八風峠【MAP】にイセツヒコが祭祀されていたという記事が、三重県菰野町の広報にあります。「八風峠」の名は伊勢国風土記逸文に載るイセツヒコの伝承から来ているのでしょう。

【Link:菰野町広報 歴史こばなし】

これらのことから考えると、現在の三重県中央部にイセツヒコへの信仰があったと推測することが可能となり、その範囲は決して小さいものでは無いと見ることもできます。その信仰を持つ人たちは出雲系の勢力だったのでしょうか。伊勢神宮発祥よりも、神武伝承成立よりも古い時代から出雲系もしくは親出雲的な性格を持つ勢力がこの地に居たのかもしれません。あるいはその名が、支配者が世代を超えて名乗る世襲名のようなものであり、その支配者を神格化した神と考えることができるかもしれません。

都美恵神社
三重県伊賀市柘植町

●都美恵神社●
祭 神

伊勢津彦命・スサノオほか計三十六柱

 
都美恵神社 祭神 


栲幡千々比賣命 

経津主命 
布都御魂命 

倭姫命 
應神天皇 

建速須佐之男命 
稲田比賣命
 
仁徳天皇 
天穗日命 
火産霊命 

大山祇命 
三筒男命 
安閑天皇 

大山咋神 
建御名方命 
大日靈貴命
 
埴山比賣命 
彌都波能賣命 
市杵嶋比賣命
 
伊弉册命 
菊理比v命 
天太玉命
 
宇氣母智命 
伊勢津彦命 
天手力男命 

武甕槌命 
宇迦能御魂命 
天津彦彦火瓊瓊杵命 

木花佐久夜比賣命 
八坂刀賣命 

玉依比賣命 
建角見命 
猿田彦大神 

天御柱命 
国御柱命 
火之迦具土命
●都美恵神社祭神●

余談的にいうなら、「アナシ」という地名は奈良盆地東部にもあり、三輪山のすぐ北側の穴師山や穴師坐大兵主神社の名に残ります。また、奈良盆地西部、二上山の北側には「穴虫:アナムシ」という地名があり、二上山にもオオクニヌシ神にかかわる伝承が残ります。「アナシ」とはオオナムジにも通じるので、ここでも出雲との関係を暗示しているように思えます。

また一方で、アナシの語源は「鉄穴師:カンナシ」や「痛足:アナシ」であるともいわれ、産鉄に関わる地名ではないかとされています。産鉄技術であるタタラ製鉄は片目や片足を痛めることが多いとのこと。またアナシとは風に関する言葉ともいわれています。タタラ製鉄ではフイゴを使うことから、風の神への信仰も生まれることになり、それは、イセツヒコが「八風を起し」た暴風神としての性格にも通じます。



1つ思い出しました。三重県の志摩半島突端の大王岬には波切(なきり)神社【Link:Wikipedia】があり、そこには一つ目一本足の神の伝承が残っていて、毎年、海に巨大なワラジを奉納する神事が今に伝わっています。普通、一つ目一本足の神は製鉄の神とされていますが、以前に波切神社を訪れた時神職さんに伺ったところ、一つ目一本足の神とは台風の神格化であるとお考えのようでした。イセツヒコが暴風を起こしたのは伊勢湾だったでしょうから、もしイセツヒコが一つ目一本足であったなら、それは製鉄神であり、暴風神でもあり、波を切るごとき伊勢の大王だったかもしれません。

出雲に連なる伊勢の王が、神武に代表される天孫系勢力に滅ぼされた伝承、それはスサノオやオオナムジ、オオモノヌシ・シキヒコ・トミビコなどにオーバーラップします。穴石神社・都美恵神社、この二つの神社参詣は、いろいろなことを重層的示唆的に感じてしまう、そんな参詣でした。
●都美恵神社●





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