仏教伝来の地
奈良県桜井市金屋

●「仏教伝来の地」碑●

仏教が伝来してきたことを表す言葉で「仏教公伝」とは、仏教が国から国へと正式に伝えられたことを表します。公伝以前からも、仏教への私的な信仰があったと見られています。

日本においての仏教公伝は538年(宣化4年)と、552年(欽明13年)の2説が考えられており未だ決着はついていませんが、碑の案内版では552年説を採っている様子です。

仏教公伝に宣化4年説を採るとすると、宣化帝の宮は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)として高市郡明日香村檜前に伝わるため、この碑が桜井市の当地に建てられることは無かったでしょう。



碑のある場所は泊瀬川沿いになり、碑から少し南東に欽明帝の磯城嶋金刺宮跡が伝わります。さらに、碑の少し北には、古代の市であった海柘榴市や、崇神帝の磯城瑞垣宮跡が伝わります【以上のMAP】。当地は交易や物資の流通に関して、今の大阪湾から遡ってきた大和川の終点であり(泊瀬川は大和川の支流)、交通の要衝としてその水運が重要視されていただろうことは想像に難くありません。

当地に「仏教伝来の地」碑が建てられたのは頷けるところですが、さらに関連して付け加えるなら、当地は国津神の大御所大物主神の鎮まる神体山三輪山や大神神社に非常に近い場所であり、当地が仏教受容の表舞台になったということは、古代的な祭祀の面から見ても特徴的なことでしょう。
仏教伝来の地

 ここ泊瀬川畔一帯は、磯城瑞籬宮、磯城嶋金刺宮を
はじめ最古の交易の市・海柘榴市などの史跡を残し、
「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地
でもありました。

 そしてこの付近は、難波津から大和川を遡行してき
た舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節
が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきま
した。

 「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫
氏達率怒利斯致契等を遣して釋迦仏金銅像一躯、幡蓋
若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教
伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城
嶋金刺宮に向かったとされています。

 この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念
すべき地であります。

 また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世
清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五
頭を遣して海柘榴市の路上で阿倍比羅夫に迎えさせた」
と記されているのもこの地でありました。

 私たちはこの地の歴史的由緒と、優れた日本文化を
生み出す源流となった仏教伝来の文化史的意義を、広
く永く後世にとどめるため、ここに顕彰碑を建立しま
した。


   平成九年七月吉日
          日本文化の源流桜井を展く会

仏教公伝が538年・552年のいずれにせよ、欽明朝以降は仏教が広がっていくことになります。この時期の朝廷内部における仏教の擁護者は蘇我稲目大臣で、神祇祭祀を担当する物部尾輿大連・中臣鎌子連(後の中臣鎌足とは別人)とは反目しあう、すなわち崇仏派蘇我氏と排仏派物部氏・中臣氏との確執が広がっていく時期でもありました。ただし物部氏は、その本拠である河内国渋川(現在の大阪府東大阪市)に氏寺(渋川廃寺)を持つことから、単純な排仏派では無かったとも見られています。

崇仏派と排仏派の確執は、欽明帝に続く敏達帝(538〜585)の朝廷の蘇我馬子(稲目の子)と、物部守屋(尾輿の子)・中臣勝海(鎌子の子)の代に、穴穂部皇子まで巻き込んでの紛争に発展します。後述の三輪氏も、紛争当初は排仏派としての行動をとります。



蘇我馬子と物部守屋の紛争においては、敏達帝の信任厚い三輪逆(みわのさこう)を、穴穂部皇子と物部守屋が攻めています。物部守屋に追われた三輪逆は、碑のある当地に近い三輪山や炊屋姫(後の推古天皇)の海石榴市宮に逃げ込んだ後、物部守屋に攻められ殺されます。

三輪逆は三輪山を祭祀する氏族の筆頭ですが、三輪氏は出雲神族であり姓氏録にいう大和国神別地祇の系統、物部氏はニギハヤヒ系氏族です。同じ神祇祭祀の氏族といってもそこには相容れぬ何かがあったように思えます。

仏教伝来の地は、その受容時に小規模とはいえ宗教紛争の様相を持つ争い、古代豪族たちの消長や皇位継承の問題も絡む争いが起こった場所でもありました。





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