舟戸神社

奈良県北葛城郡王寺町舟戸

祭 神

久那戸大神
天児屋根命


主祭神である久那戸大神(クナトノオオカミ)は、岐神(フナトノカミ)とも衝立船戸神(ツキタツフナトノカミ)とも呼ばれ、イザナギが黄泉の国から地上に戻った時投げ捨てた杖から化生した神といわれています。その属性は境界を守るというもので、そこから悪神・悪霊や悪疫などの悪しきモノの侵入を防ぐ塞の神とされています。

当社社地を含む現在の奈良県王寺町一帯は、奈良盆地と大阪平野を隔てる北の生駒山地と南の金剛山地の切れ目に近接し、奈良盆地から大阪平野への出口に当たる地域になります。この地域は、奈良盆地と大阪平野を行き来する風の通路であり、奈良盆地内のほとんどの河川が大和川に合流する水の通路でもあります。



このためかこの地域には古代史上著名なる二つの神社「龍田大社」と「広瀬大社」があり、古来、龍田においては風の祭祀(風鎮祭)、広瀬においては水の祭祀(大忌祭)が執り行われてきました。

当社舟戸神社は2つの大社のほぼ中間に位置し、さらに当地は広瀬大社の位置に続いて大和川の支流が合流しきる場所となります。当地が水運の要衝であっただろうことは想像に易く、そのことを表すかのように、「大和名所図会」には「舩戸渡(ふなとのわたし)・葛下郡王寺村にあり」と記載され、当社近くに大和川を使った水運の拠点があったことが分かります。当社社名に「船」の字が当てられているのも水運に関係して考えられそうです。

さて、当社は聖徳太子が建立したと伝わる「西安寺」の跡地に建つとされていますが、それは鎮守社や神宮寺のような関係であったようにも思えます。

上記した龍田大社や広瀬大社は共に崇神帝の時期の創建伝承を持ちますが、実質は奈良時代の創建と考えられています。そして聖徳太子の名が出るならば、上記2社の祭祀に並ぶ時期に、当地にて、神社か寺院かの形式はさておき何らかの祭祀が執り行われていたと推測することができます。

さらに聖徳太子に関連づけて考えてみると、当地から西へ大和川を下って大阪平野に入れば(現在の大阪府柏原市・藤井寺市・八尾市域)、そこは聖徳太子や蘇我氏に敵対した物部氏の本拠に程近い地域となります。となると、元あったとされる「西安寺」の名は西を意識する意味で何らかの示唆があるのかもしれません。西への鎮魂と同時に西からの怨念を遮るなど・・・



この地域は、風と水、物資や人員の流通の要衝であることになり、そのような当地において西安寺が廃され当社が残ったということは、悪しきモノの侵入を遮る意味でクナトノオオカミの存在が必要とされてきたことの表れでしょう。

一方で、クナトノオオカミをまつろわぬ神のように見る説があります。「謎の出雲帝国:吉田大洋著」という本では、クナトノオオカミがスサノオやオオクニヌシ以前の出雲神族の祖神であると見ています。内容としてはトンデモ説としての範疇に入る説ですが、口碑伝承としては捨て去ることができないを興味深さもあります。

また、当社の鳥居・社殿は、神社としては数少ない形式である北向きになっていることは1つの特徴です。クナトノオオカミを北向きに置くことで、「夷を以って夷を制する」意味を強調し、塞の神としての力を増幅させたのかもしれないなどと想像が膨らみます。





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