御霊神社
:2社

御霊神社
滋賀県大津市鳥居川町
●御霊神社(鳥居川)●
祭 神

弘文天皇(大友皇子)

●御霊神社(鳥居川)●

鳥居川の御霊神社では、境内に大友宮という扁額のかかった鳥居があります。また、境内案内版によれば祭神として弘文天皇の名がまず記載されているのは、後述する大友皇子が即位したという説を受けたものでしょう。



同じく案内版によれば、本来の社名は「大友宮」であり明治8年以降「御霊神社」と呼ばれていること、大友皇子の弟興多王(大友与多王のことか?【Link:Wikipedia】)により白鳳4年(674年)に創建されたことが記載されているので、大友皇子が没してから2年後にこの神社が建てられたことになります。
●御霊神社(鳥居川)●
●御霊神社(鳥居川)●

古代には、政治的に敗死させられた人は怨霊と化し生者に祟りをもたらすと考えられました。その人霊を鎮め祀る信仰が御霊信仰、その施設が御霊神社です。最も有名なのが菅原道実を祀る天満宮です。出雲大社もこのケースに当てはまると考えられる場合があります。

奈良や京都に御霊神社は多く、その祭神には平安期の政治的敗者としてある程度の一貫性があるわけですが、さて、天智天皇の近江朝廷があった滋賀県大津市で御霊神社ということは? その祭神が大友皇子であることがすぐに推測されるでしょう。本稿の2つの御霊神社は、壬申の乱において最後の激戦地となった瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町:現在の瀬田の唐橋)の近くに位置しています。



近江朝廷を主宰していた天智天皇が近江宮において46歳で病没し(672年1月)、その後を子の大友皇子が継ぎました。天智天皇の弟であり大友皇子の叔父である大海人皇子は、当時、吉野宮(奈良県吉野)に隠遁していましたが、天智病没後の同年7月、吉野から美濃へ逃れました。そして大海人皇子は美濃を拠点に東国の豪族を組織し、近江朝廷に対し反旗を翻しました。

後に天武天皇元年となるこの672年は壬申(じんしん:みずのえさる)の年であり、皇位継承争いに端を発し、叔父VS甥・地方VS中央・中小豪族VS大豪族などの様々な側面を持つこの騒乱を「壬申の乱」と呼びます。

大海人皇子側の勢力は大和・近江など各地で近江朝廷の軍を圧倒し、最終局面において瀬田橋の戦いで近江朝廷側が大敗(同年8月23日)すると、翌8月24日に大友皇子が自決し、騒乱は収束しました。

天智天皇が没してから近江朝廷を継いだ大友皇子は即位したとの記録はありません。そのためか、日本書紀には天智天皇と天武天皇の間に天皇の名が置かれることはありませんでしたが、後の研究により大友皇子は即位したと同じ状態だったと考えられ、1870年(明治3年)に弘文天皇の諡号を贈られて歴代天皇の中に数えられることとなりました。

御霊神社
滋賀県大津市北大路

●御霊神社(北大路)●
祭 神

大友皇子

●御霊神社(北大路)●

北大路の御霊神社の本殿脇にある祭神名を記載した札には、大友皇子の名の他に「天応元年辛酉 (かのととり)築社殿」とあります。天応元年は、西暦に直すと781年になり、大友皇子が没してから100年あまり過ぎた後この神社が建てられたことになります。天応元年といえば、怨霊に怯えたとも伝わる桓武天皇の即位した年です。



2つの神社の創建時期には100年ほどの開きがあるわけですが、そのことからみると大友皇子は、没する前から没した後の長い期間も地元では親しまれていたことの表れか、逆に見れば、怨霊として恐れられていたことの表れか、どちらの想像も可能となります。

また、皮肉な見方をすれば、壬申の乱の勝者が近江朝廷側であった場合、御霊神社に祀られたのはあるいは大海人皇子であったかも知れないと想像するのは、歴史のIFでしかありませんが。
●御霊神社(北大路)●
●御霊神社(北大路)●
●御霊神社(北大路)●





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