宝山寺
奈良県生駒市門前町

●宝山寺本堂●
宗派 真言律宗大本山

山号 生駒山

本尊
本堂本尊 不動明王
聖天堂本尊 大聖歓喜自在天尊


一般に「生駒聖天」というように呼びならわされており「生駒不動」とは呼ばれていませんが、実は当寺宝山寺で最も重要な本堂本尊は不動明王であり、聖天(歓喜天)は鎮守神です。当寺は近畿三十六不動霊場の第二十九番札所ともなっています。

当寺は、江戸期の1678年(延宝6年)、湛海律師の再興とされます。が、これは再興とするより事実上の開山であったと考えられています。湛海律師はこの時すでに歓喜天信仰や弥勒信仰を持っており、不動明王霊場の鎮守神として、当寺再興後の早い時期から歓喜天や弥勒菩薩が祭祀されたと見られています。また湛海律師は優れた仏師でもあり、本尊不動明王その他何体もの尊像が湛海作と伝わります。



再興当初は都史陀山大聖無動寺(としださんだいしょうむどうじ)と呼ばれましたが、大聖無動寺の名は湛海存命中に宝山寺へと改められ今に至ります。

都史陀山という山号の由来になったであろう「としだ」については、未来仏弥勒菩薩が修業中の兜率天(とそつてん)を別名都史陀天と呼ぶところから来ており、般若窟そのものが弥勒浄土の顕在化した象徴と見られていた様子です。そのことを示すかのように、境内から見上げる般若窟の中腹の位置に弥勒像が鎮座させられます。

なお、当寺の主尊と勘違いされるほどに重要な歓喜天(大聖歓喜自在天尊)は本稿筆者も非常に興味を持っている神格で、その前身であるインドの象頭人身の神ガネーシャや鬼王ビナヤカとも絡めて項を改めてお話することにいたします。

「生駒聖天」と呼ばれる当寺は、不動明王を主尊に歓喜天・弥勒菩薩が重要な柱になっていることが分かります。
●宝山寺聖天堂●

伝承によれば、西暦600年代半ばに生駒山を修業道場として開いたのは役行者とされています。当寺の背後の般若窟は生駒山の中腹に大きくそびえたつことが特徴で、役行者がこの岩窟に般若経を収めたため般若窟と呼ばれるようになったと伝わります。役行者の後およそ200年、弘法大師空海も当地で修業したとのことです。



役行者から1000年を経て湛海が入山した当地に、役行者や空海の修業道場の直接の痕跡があったとは思えません。ただ、当寺の背後の般若窟は遠目にもよく見える岩山であり、古代には麓の往馬大社(生駒大社)が般若窟を神体としていたとされています。この地を聖地とする思想が受け継がれてきたとしてもおかしくはないでしょう。
●観音堂越しに見た般若窟●

さて、「大和名所図会」には湛海律師による当寺の再興についての記述があり、同じ内容が次のサイトで分かりやすく解説されています。

【Link:奈良のむかしばなし】

般若窟はかつて役小角の霊窟でした。宝山和尚(湛海)が般若窟に入り樹下に修業の座をしつらえたところ、ある夕暮れに黒色の大夜叉が表れ「何故我が山に入るか!」と襲い来ました。が、宝山和尚が不動明王を念じ名号を唱えるとその力は十倍し、「かく言うは何者ぞ!」と夜叉を退けることができ夜叉は逃げ去りました。その後、宝山和尚が磐船神社を訪れたところ、神社の岩船の表面が夜叉の肌にそっくりであったことから、岩船の明神が夜叉となって宝山和尚の前に現れ自分を試したのだと知りました。

以上が伝承であり、この話に繋がるものか、当寺境内(一般には立ち入り不可の場所)には岩船大明神が祀られています。その名に岩船があり、湛海の伝承を考えに入れると、境内の岩船大明神は磐船神社と関係が深いものといえましょう。



湛海が訪れた磐船神社とは、生駒市域から北へ抜ける岩船街道(現在の国道168号線旧道)が北河内に入る位置にある磐船神社(大阪府交野市)であろうと考えられています。磐船神社は巨大な船型の岩を神体としてニギハヤヒを祭祀しており、その岩船は物部の祖ニギハヤヒが地上に降臨したときに用いた「天の磐船」であるとされています。また、磐船神社は物部支族の肩野物部氏との関係が指摘されています。

夜叉が湛海の前に現れたことをして湛海を導いたかのように好意的に解釈されていますが、夜叉と表現されるそのモノはどう見ても湛海の修業を邪魔する者であったとしか思えません。その夜叉とは磐船神社の祭神の零落した姿、つまりは物部の落ちぶれた姿なのでしょうか。

当寺から少し下ったあたりが、記紀の神武東征伝承にいう神武とナガスネヒコの激戦地だったとの伝承もあります。神武伝承においてニギハヤヒは、ナガスネヒコ勢力(ヤマト旧勢力)を裏切って神武勢力に寝返ったことが記述されます。神武伝承や磐船神社の存在からも伺えるように、生駒市域をはじめとする生駒山麓一帯は古代の物部の勢力範囲でした。
●岩船大明神(画像中央)●

役行者が生駒山を開いたと伝承されるのは西暦655年です。この時期は、物部本宗家守屋大連が滅ぼされてから(587年)石上氏が物部本宗家となるまで(684年:天武13年に朝臣の姓を下賜され、この時期に石上氏を名乗る)の間の期間で、物部の一族は力を失っていた時期です。一方で、役行者は葛木鴨氏をその出自とし、鴨氏は三輪氏と同族とされています。役行者の活躍した時期は、鴨氏・三輪氏ともに安定した勢力を保っていた時期でしょう。

役行者の背後に鴨氏などのバックアップがあったとは考えられませんが、役行者の活動は、結果として物部の勢力範囲にクサビを打ち込む形になったのではないかとも推測します。



同地において、役行者から約1000年を経た江戸期、湛海律師を襲った黒色の夜叉の行為は湛海の仏道修業を妨げたことになります。そして夜叉は磐船神社に関係があるとの伝承・・・

宝山寺が建立された地にある般若窟が役行者の霊窟として伝わっていたのならば、夜叉の側には物部本宗の廃仏の記憶が伝わっていたのかもしれません。湛海律師による宝山寺の再興の伝承は、その背後に零落した物部の残滓が見えるような気がしてならない話でもありました。
●般若窟遠景●





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