祭りの中の神霊力

●マトウチ(八坂神社 ケイチン)●
●ノガミ(シャカシャカ祭り)●

少し以前になりますが、奈良県立民俗博物館の「くらしの中の動物たち」(〜2016/6/26)という展示を見に行ってきました。くらしと動物たちとの関わりについてが様々に展示されていて大変興味深いものでした。必ずあるはずと思っていたノガミの展示がコーナー展としてやはりなされており、某野神祭りの藁細工が間近で見られたのは幸運でした。

【Link:奈良県立民俗博物館「くらしの中の動物たち」を開催】
【Link:G&L共生研究所 奈良県立民俗博物館「くらしの中の動物たち」を開催】

民俗学というものを正式に学んだことはありませんが、非常に興味を持っている学問ジャンルです。民俗学に対して「宗教民俗学」という言葉がありますが、「物」ならばともかく「祭り」や「民俗行事」となると多くに宗教要素があり、その違いは今一つ理解できていません。自分が興味を持っているのは一般の民俗学か、それとも宗教民俗学なのかとかねがね自問していました。



私的には奈良県内の民俗行事で「野神祭り:ノガミ」や「的射ち:マトウチ」などに興味を持っており、それらを見ていると、民俗行事の多くはある特徴を持っていることが分かります。つまり神霊的存在や神霊力のように、目に見えない存在が想定されていることです。神霊的存在とはいわゆるGOD(神)ではなく精霊や土俗的な神霊(カミ)といったモノをご想像ください、そういう要素を持つ民俗行事を扱うことが宗教民俗学ということになるのでしょうか?

「くらしの中の動物たち」では小さな扱いだったものの、ノガミもマトウチもまた御田植祭り(オンダ)も、あるいは源九郎狐伝承や三輪山伝承も人と動物が関わるものであり、そこには動物や人間の現実的な力ではなく神霊力が介在します。とすれば理解できていないながら、「宗教民俗学に興味を持っている」というのが私的にとるべき態度かも知れません。

このあたりはまだ正確な表現ができませんが、ともあれここでは「神霊力」に注目してみましょう。これは「霊力」や「呪力」と言いかえても差し支えないでしょう。

なお、本稿は同展の解説や感想ではなく、そこから少し離れる内容になります。また、帰結した稿ではないのと、私的な推測を基にした考え方感じ方の問題となるだろうことはご了承ください。
●ノガミ(野口神社 汁かけ祭り)●
●小泉神社 御田植祭り●

ここから少し視点を変えるつもり、というよりここからが「くらしの中の動物たち」から離れると同時に考えて行きたい内容になります。取っ掛かりとして同展のように動物関連の祭事をスタートにして、「祭神に対応しない祭事が執り行われる」場合が多いということと、その背後に神霊力の介在があるかも知れない、ということを考えてみたく思います。

動物関連で、まずオンダから。各地のオンダで必ずしも牛が登場するわけではありませんが、現在の奈良のオンダはその多くに牛(被り物の牛の頭と黒い大きな布地などを利用したダミー牛)が登場し、農作業の所作を行います。過去のオンダで本物の牛を使ったのかどうかは不勉強で承知しません。

そして、かねがね感じていたことです。オンダにせよノガミにせよマトウチにせよ、それらだけではなく神社で執り行われている諸々の民俗行事は神事・祭事の類の宗教的な名称を持ちますが、執り行われる神社の祭神はバラバラです。

「祭神に対応しない祭事が執り行われる」場合が多いということが指摘できるのではないでしょうか。

民俗行事は無病息災や厄除祈願・五穀豊穣など諸々を祈願する祭事として執り行われることが多くありますが、オンダを例に取るなら八幡神社(主祭神ホムタワケ=応神天皇)や春日神社(主祭神アメノコヤネなど中臣藤原系の氏神)で執り行われるオンダ、山口神社や水分神社、三輪系神社・物部系神社や住吉神社、また穀霊神を祀る神社で執り行われるオンダなど、執り行われる神社の祭神は一定しません。

武神や氏族神、日神・水神・龍神・航海神・出雲神など本当に様々な祭神の元で、豊作祈願の予祝行事であるオンダが執り行われるわけです。奈良県内に限っていえば、「稲」の名を持つ稲荷神社でオンダは見られなかったと思います。



これは奈良のノガミの2つの系統(牛が登場するノガミ・蛇が登場するノガミ)にもマトウチ(的を矢で射る所作の中で厄除けや豊作を祈願する)にも同じことがいえます。いえ、ここに上げた祭事だけではなく、様々な神社で執り行われる様々な民俗行事は、それが神事・祭事の名称を持つ行事であっても、執り行われる神社の祭神の属性(性格)に対応せず行われるものが多々あります。

もちろん祭神に対応する祭事(祭神を称えたり慰撫するなどの)も数多くあります。例えば初午祭ならば稲荷神社で執り行われる、といった具合に。しかしながら、祭神に対応しない祭事が執り行われる場合も非常に多いということになります。

これらの話は次のサイトなどが参考になります。例えば「おんだ祭」「御田植祭」などの記載のある神社を見れば祭神の推測はつくでしょう。

【Link:奈良大和路の祭り】
【Link:京都近郊で行われる御田植祭・おんだ祭】

以上は主に神社における話で、寺院では本尊や主尊に対応しない祭事が執り行われたり、対応しないお教や真言が読まれることは少ないでしょう。日本人は寺社の本尊や祭神に無頓着といわれることがありますが、そのことを示しているかのようです。

が、見方を変えれば、祭神に対応しない祭事が執り行われることは大きな特徴であり、祀る側にどのような思惑があるかは非常に興味深いことでもあります。
●ノガミ(うしの宮)●
●茅の輪 大神神社●

祇園祭の祭神である牛頭天王についても似たことがいえるでしょう。牛頭天王は明王や天のような戦う神の姿で、人型で冠に牛の頭や角が載せられていたり、ズバリ牛頭の牛頭天王像もあります。

夏越祓えの時期に寺社(神社だけではありません)にて執り行われる茅の輪くぐりの行事は、多くの神社の説明でスサノオに由来するものとされます。これは備後国風土記に、茅の輪をもって蘇民将来を守り巨丹将来を滅ぼした牛頭天王(武塔神)と、スサノオが同一神であるとする説話が記載されるからです。

文献上の説としては、蘇民将来を守ったのはあくまで牛頭天王であり、スサノオが同一神であるというのは備後国風土記編集者の後付という考え方が有力です。スサノオに牛の冠を被せたり角を載せる、などの造形は見当たりませんから。

もっとも、牛頭天王にスサノオが後付けされる部分までは良しとしましょう。

現在に茅の輪くぐりを伝える寺社が、その本尊や祭神に対応せず牛頭天王=スサノオ由来の茅の輪くぐりを伝えているという状況が興味深く思えます。「どこにである」・「みんながやっている」というように、あまりに当たり前すぎて誰も疑問を挟まない状況になっているのかもしれませんが。



牛頭天王つながりで祇園祭りのケースはどうでしょう。各地で執り行われる祇園祭りは牛頭天王とスサノオが習合した神仏混淆の疫病封じの祭事であったはずですが、昨今、祇園祭りの名を知る人の中にその主役であった牛頭天王の名を知る人はどれほどいるでしょうか。

祇園祭りはスサノオ単神への信仰からは生まれにくい祭事です。が、明治の廃仏毀釈で祇園感神院が京都八坂神社と名を変え、各地の牛頭天王社から牛頭天王が消えスサノオのみが現出しても、その神社にてスサノオ由来の祭事、すなわち「ヤマタノオロチ退治」や「サセの葉をかざして踊るスサノオ」などにちなむ神事が行われるようになったケースは非常に少ないでしょう。

かといって、スサノオが祭祀されるようになったことが理由で祇園祭が廃れたという話も聞かれず、祇園祭りは牛頭天王に属する祭りではなくなったかのように見えてしまいます。これも祭神に対応しない祭事が執り行われる例とも考えることができます。
●ノガミ(今里の蛇巻き)●
●村屋坐弥冨都比売神社 御田植祭り●

さて、本稿の冒頭で、動物と関わる民俗行事のうち、動物たちの現実的な力ではなく、動物の存在を通じて想定される神霊力の介在に私的に興味を持っていることを述べました。次に、神事や祭事は執り行われる神社の祭神の属性に対応せず伝わる特徴が見られることも述べました。

推測ですが、祭事を執り行う側にとっては、場に発するだろう目に見えない力を希望する方向に発揮させる、平たくいえばコントロールすることこそがまず重要なのでしょう。農耕神事を例にとれば、豊作祈願の力を発揮する主体が源氏の武神であろうが中臣藤原祖神であろうが出雲神であろうが、祭神の違いは重要ではないのでしょう。

オンダでいうならば、上記した牛が田を耕す所作をし田植えの初苗を植えるまでがオンダの一連の流れとなり、この苗束を氏子さんが持ち帰ります。神域で農作業の所作を行うことで場に神霊力が発現し、苗束にその神霊力を宿らせ、それを各家に持ち帰るということなのでしょう。つまり、主役は牛でも神社祭神でもなく、場に発現し苗束に宿る神霊力が主役と推測できます。

牛が登場するノガミの時にも似たことを感じました。この祭事は元は野神の木に牛を連れていくという行事だったとのことで、これは野神の木を参拝する行為の中で牛に神霊力を授けてもらい、それを田に持ち帰ることが重要なのではないでしょうか。やはり神霊力が主役かと推測できます。

蛇が登場するノガミ、これは安珍清姫型説話に結び付く藁蛇までありながら三輪山の蛇神オオモノヌシには結びつかないなど、具体的な神格を示さない特徴があります。おそらく地や水のカミなど神霊力を持つモノを藁蛇という形で現出させたのでしょう。そして藁蛇は神社境内や田の近くにある木(野神の木)などに飾られます。あたかも田に向けて神霊力を放出する基地局のように。



マトウチも同様です。鬼や魔を射る祭事の中で、その場に発現するある種の“力”の宿った矢を氏子さんが持ち帰るものと推測します。

茅の輪くぐり、これも茅の輪に宿る“除疫神を呼ぶ力”が必要にして重要であり、寺社などの場に設置されることで倍力するものと推測します。

祇園祭りは牛頭天王=スサノオを祭神とする神社を中心に伝わりながら、牛頭天王とスサノオの習合や分離に関係なく、その場での祭事が発する“除疫の力”が重要視されたものと推測できるでしょう。

その他諸々の祭事も、神霊力の介在を中心に据えて考えれば、祭神の属性に対応せず祭事が執り行われる理由を考えるヒントが得られるのではないかと思います。




祭神に対応しない祭事が執り行われる、この特徴は一見、言い方はともかくですが祀る側の節操のなさを表しているかのように見えます。ですが実は、現実世界に適用されるだろう祭事の中に発現する「神霊力」に注目すれば、祭神の名やその祭祀の背景を重視せずとも、祀る側の筋が強く通っていると見受けられます。

このことは宗教をまたいで考えることもできるでしょう。ある個人が、神道の神に諸々を祈願し、同時に仏教の尊格にも諸々を祈願する、一般的に神仏習合の名の元に一括りにされるこれらの行為は、一括りにされる時点で矛盾を含んでいることが無意識的に意識されているのでしょう。ですが、このような矛盾しているように見える行為であっても、神霊力に注目すれば祀る側の筋が強く通っていると見受けられます。




最後に繰り返しますが、祭神に対応する祭事は数多くあります。それらをも含み、祀る側が神霊力に期待しているのならばそれは現世利益を期待することであり、本尊や祭神を崇めることにより神霊力をコントロールすることでもあるでしょう。そのような思惑が祭事の根底にあるのではないかと推測します。当たり前すぎて疑問を挟まない状況かも知れないと前述したように、誰もが暗に気付きながら意識に上らせていないだけではないかと、これも推測しています。
●小泉神社 御田植祭り●
●五位のノガミ(橿原市五位町)●
●田に飾られた御幣●





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