三輪神社

奈良県香芝市田尻

祭 神

大己貴命

*******引用始め*******
大己貴命を祭神とする旧村社で、三輪明神を勧請創祀したと伝える。本殿は明治二十年ごろはじめて新築したもので、もとは三輪明神と同じく、背後の山を御神体とした古代の祭祀形態の山であったという。

奈良県史5神社 P579

*******引用終り*******

奈良県桜井市の大神神社からの勧請と伝わる神社は、多くの場合その祭神をオオナムジ神とします。当社三輪神社も同様です。

当社の現社地は小山の山頂部になります。上記引用文のように明治期に初めて本殿が建てられたとされており、それまでは同山を神体とする古態を示す神社であったと考えられます。ただし、創建時期については明らかではありません。

現社地から見て、当社の存在からは2つの想像が浮かびます。あくまで想像ではありますが。

まず1つ目は三輪との位置関係から。



当社の勧請元である大神神社について見ると、大神神社および三輪山は奈良盆地の東南部にあり、すぐ南を現在の国道165号線(伊勢街道)が通ります。伊勢街道は三輪近辺から東側の山地帯へ進んでいきます。

対して、当社が位置するのは現在の奈良県香芝市の西端、よく目立つ二上山のやや北側になります。当社のすぐ南を通るのが同じく国道165号線(同じく伊勢街道)で、当社はその田尻峠付近にあります。

以下、奈良盆地をまたぐ距離を隔てて考えてますが、先述のように想像であることを重ねて強調します。

奈良盆地を東西に貫く伊勢街道の、奈良盆地東南側出入口・三輪山麓に大神神社があり、当社は奈良盆地西側出入口・二上山麓に、大神神社と対を成して置かれているように見えます。

対を成す要素としては、当社の祭神が記紀に記載される様々な神格ではなく、三輪のオオモノヌシ神と同一神とされるオオナムジ神であること(つまり、同じ出雲神族の筆頭神を祭祀していること)、共に奈良盆地の出入口に位置すること、1本の街道でつながること、三輪山や二上山のように目立つ山のそばであることなど、いくつかが見え隠れします。

対を成すとはいっても、当社はその発祥時点から大神神社に比肩できる神域を持っていたとは思えません。しかしながら、三輪山麓から奈良盆地をまたぐほどの距離を隔てて見れば、仮に大規模な構築物があったとしても視認することはできないため、神域の規模の大小は問題になりません。三輪山麓から見て二上山の近くに当社が意識できれば充分だといえます。

三輪山西側一帯を歴史上のある時期のまつりごと(祭事・政事)の最重要拠点と見た場合、三輪山は奈良盆地東南部出入口の抑えと見ることができます。

対して当社の現社地は、伊勢街道の奈良盆地西側の出入口を抑える位置になります。奈良盆地や重要拠点を守るがための塞の神のように当社を祭祀する意図があったのかも知れません。

当社が意図的に現在置に置かれたとしたら、それを画策した者(宗教者や陰陽師のような)に何らかの思惑があったかと想像することも楽しいものです。

●西名阪自動車道から●


2つ目の想像です。

現在は、当社の背後の小山部分は大きく削られ、削られた斜面の直下を西名販自動車道が通っています。つまり、元の神体山であっただろう小山を大きく削って西名阪自動車道を通したわけです。これを西名阪自動車道側から見れば、崩落防止処理のなされた防護壁の上に当社があることになります。

上記画像は本稿筆者のクルマのドライブレコーダーの画像をキャプチャしたもので、○の位置に当社があります。道路より高所に当社が位置していること、神社を見上げていることがせめて安堵する点です。

道路を神体としてしているわけではないでしょうが、道路を守護してくれているのか何なのか、なかなか奇妙な気分になるものです。もっとも地元の人以外で、西名阪自動車道を通るドライバーが当社の存在に気付くことはほとんど無いでしょう。

当社が意図的に現在置に置かれたかどうか、伊勢街道の奈良盆地西側の出入口を抑えることにあったかどうか、それは分からないにしても、結果として当社は“道”に対し神霊的に関わっているのではないか、そう考えるのは想像でしかありませんが。
●本殿●
●本殿とその背後●
●本殿背後から●
●西名阪自動車道を見下ろす●





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