桃尾の滝
奈良県天理市滝本町


奈良盆地の周囲はお盆の縁(ふち)のように山々が取り巻き、そのうち東側に広がる山々の連なりは「大和青垣国定公園」に指定されています。東側の山々の比較的急な盆地側を「春日断層崖」といい、そこには高円山・城山・竜王山・巻向山・三輪山・初瀬山といった歴史書にも頻出する山々の名が並びます。



奈良県天理市にある石上神宮付近から、現在の国道25号線旧道を布留川上流に遡った天理ダム手前にある桃尾の滝は、春日断層崖にかかる滝として最も落差の大きい滝です。その落差約23m。干ばつにも水が涸れることはないと伝承される非常に美しい滝です。
桃尾の滝

 桃尾の滝は、布留川の上流桃尾山にあり、高さ
約二十三m、大和高原の西端を南北に走る春日断
層の中では最大の滝です。
 このあたりは、かつて桃尾山蓮華王院龍福寺の
境内地でした。和銅年間、義淵によって開かれた
龍福寺は、中世には寺領五百石を有する真言密教
の大道場として栄えましたが、明治にはいって廃
絶し、かつての阿弥陀堂跡には現在報親教大親寺
の本堂が建っています。
「布留の滝」として古い和歌集にも詠まれた桃尾
の滝は、古くから行場として知られ、7月第3日
曜日には、夏の安全を祈願して「滝開き」の神事
が行われます。

  今はまた 行きても見はや 石の上
     ふるの滝津瀬 跡をたづねて
            (後嵯峨天皇)
                  天理市

桃尾の滝が観光資源的な滝ではなく、今もって宗教的に守られているそれであることは、石仏が何体もありそれらが現在も丁寧に祭祀されていることにより理解できます。

滝中には、落ちる水を受けるあたりに1体の不動明王石像が置かれています。滝の周囲には、鎌倉期の麿崖不動三尊像・南北朝期の如意輪観音石像、その他数件の小堂が祀られるなど、寺院の境内ともいうべき様相を示しています。このことにつき上記案内板の記述を参照すれば、当地は桃尾山蓮華王院龍福寺という寺院の境内地であったことが分かります。

「和銅年間、義淵によって開かれた」とあるので、西暦でいえば708年〜715年の開基であろうことでしょうが、龍福寺は明治期の廃仏毀釈運動により一旦廃絶、その後の大正期、龍福寺の阿弥陀堂跡地に大和桃尾山大親寺が建てられ現在に至ります。大親寺は桃尾の滝から徒歩15分ほどの場所になります。

滝の周囲に現状で神道的な要素は見られず、仏教色の濃い場所である印象がありますが・・・



桃尾の滝は、その別名を「布留の滝」ともいいます。この滝から流れ下る布留川に関して、鎌倉期成立と考えられる「源平盛衰記:巻第四十四」に次のような記述があります。

「布留河の水上より一ふりの剣が流れ下った。この剣に触れるものは石木共に伐砕され流された。下女が布を洗うためにこの河にいた。剣は下女の布に留り流れなくなった。そのため神として祀に奉じた。故に布流大明神といった。」※源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)は次のサイトを参照させていただきました。御礼申し上げます。

【Link:J-TEXTS 源平盛衰記(国民文庫)全巻】

丹塗矢伝承のような感精型説話とはやや趣を異にし、「布留」の地名説話とも違いますが、布留川や桃尾の滝が「布留の社」とも呼ばれ剣を神体とする石上神宮に関係が深いことが推測されます。

周知のごとく、現在の石上神宮は古代において物部氏が祭祀を司る神社でした。が、上記布留川の伝承は物部氏のような特定の氏族に関係することのない、土地に根ざした信仰があったことを伺わせます。紀伊熊野の「那智の滝」ほどの規模ではないけれど、この地に見合ったスケールで。

桃尾の滝のある春日断層崖は、国中(くんなか:奈良盆地内を指す)と東山中(ひがしさんちゅう:奈良市都祁地区を最高所とする大和高原一帯)の境界となっています。大和高原には氷室跡が残るなど奈良盆地とは気候風土が違っており、となると春日断層崖は里の文化圏と山の文化圏の境界であり接点でもあったことでしょう。



2つの文化圏の接点にある滝に、祈雨止雨の祈願など水に関する何らかの古代的な自然信仰が生まれたのでしょう。そしてその地に石上や物部という存在が覆い被さり、さらに仏教的な信仰要素が重ねられたと考えて問題がないように本稿筆者には思えました。
●桃尾の滝●
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