宗像神社

奈良県桜井市外山

祭 神

多紀理毘売命
市寸嶋比売命
田寸津比売命


延喜式神名帳に記載される名神大社です。当神社を解説しているサイトでは、創建者を高市皇子であるとしていました。真偽は分かりませんが高市皇子に関係の深い神社であることは間違い無さそうです。高市皇子は天武天皇の長子で、壬申の乱(672年)での活躍の後、朝廷において太政大臣にまで上った人物です。



天武天皇の妃となり高市皇子を生んだのが尼子娘(あまこのいらつめ)で、彼女は胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘です。これにより、筑前(現在の福岡県宗像地方)の海洋豪族宗像氏(胸肩・宗形・宗像など複数の表記があります)と天武天皇・高市皇子との繋がりが確認できます。つまり、本稿の宗像神社が天武天皇の時代の創建ならば、高市皇子の外戚の氏神として祭祀された経緯が推測されます。

高市皇子の後裔は、高市皇子の子の長屋王が藤原氏の陰謀により自害せしめられた後(長屋王の変)、生き残った親族が臣籍降下し高階真人氏を名乗ります。当社はこの地において高階氏の氏神として祭祀されることとなります。



南北朝期に高階氏および同系の玉井氏は南朝方に組し、当社は兵火に見舞われて衰微します。その後は藤原氏系の興福寺の支配を受けることとなり春日四神を勧請、宗像神社ではなく長らく春日神社を称することとなります。このことの名残として、境内本殿横には、現在も春日神社(祭神・春日四神)と若宮神社(祭神・天押雲根命)が祀られています。長屋王が藤原氏との政争に敗れたことを考えると、皮肉以上の何かを感じさせられます。
●中央が宗像神社●

1859年(安政6年)に筑前宗像大社より改めて神霊を勧請し、1875年(明治8年)に春日神社の社号を廃して宗像神社となります。2009年(平成21年)、社殿が全面的に建て替えられ見違えるようになりました。



社地は鳥見山の北麓、三輪山の南にあり、神社のそばからは三輪山が望めます。出雲神と三輪神の関係が深いのは良く知られたこと。出雲神と宗像神の関係もまたしかり。ならば当社が三輪山の程近くにあるのも、出雲大社や大神神社とおなじく左本右末(縄の始まりが左に来る)の注連縄を掲げられているのも理由があるのかもしれません。





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