室生龍穴神社

奈良県宇陀市室生区室生

祭 神

タカオカミ神


女人高野として知られる室生寺からおよそ1kmを隔てて、天を突くほどの杉の老樹の中に当社室生龍穴神社が鎮まります。創建時期は不明ですが8世紀ごろと考えられています。

当社は京都の貴船神社と並ぶ雨乞いの要になる神社で、8〜10世紀にかけての朝廷による祈願は29回にも及んだ祈雨の聖地とされていました。



明治期の神仏分離までは仏式の祭祀が行われていたとのことです。拝殿に「善女龍王社」の額が掲げられているのは神仏習合の名残りなのでしょう。ということであれば、現在の祭神タカオカミ神は明治期以降に祭祀されたものでしょうか。タカオカミ神はイザナギに連なる神道系の龍神であり、善女龍王は弘法大師空海が雨乞いの修法を納めたという伝えのある龍神です。

なお、余談ですが、“竜”は“龍”よりも古い文字となります。

当社から川を上流にさかのぼる所に「吉祥龍穴」があり、その場所も境内地であり聖地となっています。位置的には本殿そばから川を遡上する場所になりますが、直接上って行くことはできません。ルートとして当社を離れ、南へ大きく迂回する必要があります。

龍穴の一帯は、差し渡し数十メートル四方もある巨大な岩盤が水の流れで大きくえぐられ、ゆるやかな滝のような特徴的な流れを形作っています。この流れは「招雨瀑:しょううばく」と呼ばれます。



流れの対岸に龍穴がありますが、地形的には遊歩道から川向うとなり禁足地でもあるため近づくことはできません。龍穴は拝所から拝するのみとなります。

当社の発祥時点ですでに龍穴や招雨瀑を含むこの地形が造られていたのでしょう。龍穴とは、この地形を重要視するがためのランドマークだったようにも思えます。自然の力を大きく感じる水の流れであり地形です。
●吉祥龍穴●

吉祥龍穴について「古事談」に次のような説話が記述されています。国立国会図書館近代デジタルライブラリーからご参照下さい。

【Link:古事談 85/236】

『室生龍穴は善達龍王の居所なり。龍王は初め奈良の猿沢の池に住まいしていたが、采女が池に身を投じた時そこを避け、龍王は春日山の南の香山(こうぜん)に移ろうとした。が、そこは死人の捨て場だったためまた龍王は避け、室生の龍穴に住まいした。』

ここでは善女龍王ではなく「善達龍王」とされています。内容的には、平城京の時代に仮託して創られた説話であることが分かります。

古事談では上記に続き「賢憬僧都」の名を記載、また賢憬僧都は修円僧都の師であると記載したあと、さらに次の説話が続きます。



『日對上人(日対上人:對は旧字体)は、龍王の姿を拝することを志し、件の龍穴へ入った。3〜4町(1町は約108m)ばかり暗闇を進むと青空が開け、そこに1つの宮があった。殿上人が南の砌(みぎり)に立っていた。そこにある珠簾(たますだれ)が光り輝き、風が吹いて珠簾が動き、その隙間よりうかがい見れば机上に法華経が置かれていた。

龍王は「人の気配があるが何者が来たのか?」と問うた。上人は「お姿を拝し奉りたく参り入りました。」と答えて云った。龍王が云うには「此処での謁見はかなえられない。龍穴から3町ばかり離れた所でならば対面できよう。」と云った。上人が穴を出ると、約束の場所では、衣冠の者が腰から上を地上に出していた。上人が拝するとその姿を消した。上人はその場所に龍王を祭祀する社を造営した。』


古事談の文脈からすれば日對上人とは賢憬僧都のことかと思われます。賢憬は7世紀に室生寺を創建した僧です。

一般的に、当社室生龍穴神社の神宮寺として室生寺が始まったとされていますが、上記後者の説話から見れば、室生寺の僧によって当社が創建された可能性があります。また、龍王自身が法華経を所持していた記述があり、仏教と神道が由緒の古さを競ったかのような伝承の混交が見られます。
●招雨瀑上段●
●上段から見た招雨瀑下段および拝所●

いずれにしても寺社の成立より、まず吉祥龍穴や招雨瀑の存在が重要だったことが推測されます。寺院や神社の成立の古さは人の歴史の中では大事なことでしょうが、自然の力の前では瑣末なことに思えます。

寺社の成立は古く見積もっても現在から見て千数百年前の過去のことでしょうが、吉祥龍穴の一帯に広がる招雨瀑は、当該寺社の発祥時点ですでに何千年もの時間をかけて形作られたことが推測されるからです。巨大な岩盤を大きくえぐるほどの水の流れや時の流れはどれほどのものだったのでしょう。



当地に気付いた古代人が、当地の様子、つまり水の流れや自然の力に畏怖を覚え、その時代の知恵と知識により当地を水を司る者の聖地と見たのでしょう。龍の力の発現と考えたのかもしれませんが、現在の私たちから見れば、神仏などというモノが感得されるよりももっと古くから、水の流れ、自然の力があったことが分かります。

仏教や神道などという宗教の違いや人の思惑がどうであろうが、古代人ではない私たちは、超常的なモノの力をありがたがるのではなく自然の力に目を向けるべきかと思います。





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