ナムジ・神武・トンデモ本

いたって本気な記述姿勢ながらトンデモないことを平気でいうように読者から見えてしまう本がトンデモ本(説ならばトンデモ説)と呼ばれます。「と学会」という著作者集団がトンデモ本を批判的に楽しんでしまおうという趣旨の活動を行っていて、トンデモ本に関連する著書も多く発行されています。このあたりがトンデモ本やトンデモ説という名が広がった要因でしょう。と学会はアカデミシャンではありませんが、トンデモ本の批判解釈をするその姿勢や思考形態にはなかなかアカデミックなものがあります。

【Link:と学会】
【Link:トンデモ本】

対象として扱われるトンデモ本のジャンルは、小説・疑似科学やオカルトその他多岐にわたっており、トンデモ本に含まれる歴史・古代史本ももちろんあるわけです。

アカデミズムから在野まで玉石入り乱れて意見を述べることが多い歴史研究の世界のこと、1冊の本の評価が読者によって正反対になることは珍しくありません。ある本で述べられた論考が秀逸で貴重と評価されることがあるかと思えば、同じ本を別な人が見れば単なる駄作あるいはトンデモ本であると評価されることも多々あります。



古代史でいうなら、スサノオやアマテラスを歴史上の人物として扱ってしまえばそれはそれで非常に興味深い古代史研究書となり、本稿筆者も大変に面白く感じることでしょう。ですが、古事記・日本書紀の神話自体がトンデモ説の集合体のようなものなので、それらを基にした研究書を世に問う場合、その本がトンデモ本にならないよう資料批判や他資料による援用を行うなど慎重な研究姿勢が重要となることはいうまでもありません。

原田常治の著書「古代日本正史」という本があります。良く知られる、三輪山のオオモノヌシ神と物部氏の祖神二ギハヤヒを同一神とする考え方や、スサノオ系統の神々をフツ族と呼ぶなどの考え方は同書が発端となります。同書はと学会による「トンデモ本の世界」や原田実氏による「トンデモ日本史の真相」でも取り上げられています。下記のLinkをご参照下さい。

「古代日本正史」の論考は在野の研究者から支持されることが多くあります。が、同書が論の拠り所とする根拠や証拠の多くは神社に伝わる祭神名や伝承という非常に不安定なもので、伝承の背後関係に至る考察や他資料による援用はほとんどなく、その論に慎重さは見られません。そこに「古代日本正史」がトンデモ本たる所以があるのだと思います。私的にも、「古代日本正史」はトンデモ古代史本の最たるものと思っています。

安彦良和氏による漫画「ナムジ」全4巻および「ナムジ」に続く「神武」全4巻をあげてみましょう。「ナムジ」と「神武」は一続きのストーリーを構成しています。

「ナムジ」の主役を知られた名でいい変えるとオオナムジ=出雲神話の大国主神です。「神武」の主役はツノミで、これを神話的な名でいい変えるとカモタケツノミとなります。漫画の設定でツノミはナムジの子とされていますが、日本神話でタケツノミは大国主神の子ではありません。「神武」のツノミの位置にいるのはアジスキタカヒコネ神で、「神武」ではタケツノミ=アジスキタカヒコネ説を採っているわけです。

これらのことから分かるように、同2書の一続きのストーリーとは、スサノオの活躍から大国主神の国譲り、神武東征伝承までを扱ったものとなっています。



実は「ナムジ」・「神武」の2書は、その論に慎重さが見られないとお伝えした「古代日本正史」をベースにした内容で、「古代日本正史」を漫画化したと考えても良いでしょう。「ナムジ」1巻の後書きに、安彦良和氏による「古代日本正史」を支持する旨の記述があります。

「ナムジ」序章において安彦良和氏は「ナムジ」の物語を「一つの仮説」と位置づけられていますが、「古代日本正史」をトンデモ本と見る場合、同系の「ナムジ」・「神武」に描かれた内容を古代史上の「一つの仮説」と見ることは残念ながら全くできません。

とはいえそこは安彦良和氏の力量によるものでしょう、「ナムジ」・「神武」を長編漫画として読むと実に面白く引き込まれる内容となっており、その面白さから知人に勧めたこともあるくらいです。本稿筆者が「ナムジ」・「神武」に感じることは以上のように“ストーリーとしては非常に面白い。漫画として、フィクションとして楽しむ作品。”ということになります。
著者 : と学会
洋泉社
発売日 : 2006-05


さて、以前に和歌山県のある大きな神社を訪れたとき、「古代日本正史」および同系の内容の「消された覇王」の2冊を大事そうに抱えて参拝している人を見たことがあります。「古代日本正史」には古事記・日本書紀に記載のある神々、つまり神社の祭神が数多く登場するので、「古代日本正史」にある程度の史実性を見たり、祭神の研究書として評価している人がいることの表れでしょう。この場合、記紀神話を基にして神事や参拝を行う、いわゆる“神道”とは少し違った宗教意識を持つことになるのではないでしょうか。

そういう人が「ナムジ」や「神武」を読めば、やはり史実あるいはそれに近いものを漫画化したものと見るかもしれません。「一つの仮説」以上の史実性があると評価する可能性があるかもしれません。



ある本に記述される祭神の解釈に従って神社を参拝する人がいたとしても、それはあくまでその人の宗教観によるものと考えるべきなのでしょう。例えば、ケツミミコ神をニギハヤヒと見て参拝する(上記和歌山の神社のケース)のはその人の自由なのでしょう。アマテラス=卑弥呼と考える場合、伊勢の皇大神宮は卑弥呼の霊を祀ると見ることも自由なのでしょう。それが、神社という宗教施設を運営する神道者に受け入れられるかどうかはまた別問題として。

「ナムジ」・「神武」、あるいは「古代日本正史」が古代史上の重要な仮説を提示するものと見られるケースがあり、または仮説以下のトンデモ説・トンデモ本と見られるケースがあり・・・

私的には、上記したように、「ナムジ」・「神武」はあくまで漫画としてストーリーを楽しむものと考えますが、読み手が元々持っているものによって、その本の評価は様々に変わるものなのだとつくづく思った次第です。





INDEX