新城神社

奈良県大和郡山市新木町

当神社の 創設年代は不祥でありますが、我国最古の歴史
書日本書紀の天武天皇紀には五年十一月天皇此の地に都
を移そうと考え行幸遊ばされ十一年三月にも再び行幸遊
ばされています。又続日本書紀によりますと人皇五十代
光仁天皇は宝亀五年八月[新城宮に幸給ふ]とありまして
いにしえより当神社境内地は新城宮跡に比定されている
由緒ある土地柄であります。祭神素盞鳴命は天照大御神
の弟神であり八俣遠呂智退治で有名な武神で神佛融合時
は牛頭天皇と称し国土の総べてを支配される神として昔
から天皇さんと称讃されていました。又大日霊貴命は天
照大御神のことであり、大己貴命は大国主命のことで共
に天地をつかさどる最高神であります。社暦によります
と江戸時代の初め萬治三年神輿渡御が初められ、文化十
三当時の郡山城主柳沢保光堯山公より自筆の扁額を奉納
されたとあります。明治三年廃佛稀釈の令により社号牛
頭天皇社を新城神社に改め今日に到っています。

以上 当神社は昔より土地の守護神として土地の繁栄
と地域住民の疫病退散の御神徳顕著であります。戦後
昭和三十四年には 地場産業金魚養殖の発展を祈願
して金魚祭を執行され業界今日の盛況を得られた事は
耳新しいことであります。
                    新城神社
祭 神

素盞鳴命
大己貴命
大日霊貴命


上記は拝殿内に掲示される案内板の記述で、これにより当社が天武天皇や光仁天皇に関係する古い由緒を持つ神社であることが分かります。また、江戸期までは牛頭天王社であり、「牛頭天王」の編額が掲げられています。牛頭天王は「テンノウ」の音を生かして牛頭天皇と表記される場合もあります。

当社は「ニキ神社」と読まれるわけですが、「ニキ」の名を持って記紀に書かれる人物としては、日本書紀神武条に新城戸畔(ニイキトベ)という女性首長が登場します。神武東征時、神武勢が磯城彦エシキやトミノナガスネヒコなどの奈良盆地の主要な旧勢力を滅ぼした後、「層富県の波多の丘岬(ソウのあがたのハタのオカザキ)に新城戸畔という女賊」があるとして、新城戸畔を討ったとされています。戸畔とは一般に女性の首長のこととされています。



「添県」とは現在の奈良盆地北西部とされ、奈良市三碓および奈良市歌姫町にそれぞれ添御縣坐神社があります。また、添県に含まれる「波多の丘岬」は、赤膚焼きで有名な現在の赤膚町のこととされています。これらによって古代の添県の広がりや、新城戸畔の本拠がある程度推測できます。下記の地図をご参照下さい。

当社新城神社と赤膚町周辺は大きく離れてはおらず、「層富県の波多の丘岬に新城戸畔」が居たとすれば、当社と新城戸畔の関係が伺えます。岩波文庫日本書紀でも当社と神武伝承を関連させて解説しています。

地図右上の[ ]をクリックすると「新城神社と添県」が大きく開きます

以上を神武伝承に関連付けて考えれば、新城戸畔は、生駒市域を本拠としであろうトミノナガスネヒコのおそらくは配下で、この地域の反神武勢力残党をまとめていた女性首長だったのかもしれません。エシキやトミビコなどの主流派が破れた後も、なお果敢に神武勢に立ち向かった勇者の一人だったのでしょう。



国譲りの後の出雲大社が大国主神の鎮魂の社であるように、この新城神社もひそかに新城戸畔を祭神とし新城戸畔の鎮魂の社であってほしいと考えます。

「奈良県史5神社」では当社の飛地境外摂社の祭神が「新城大神」とされています。本稿筆者はこの境外摂社を未参詣ですが、祭神「新城大神」の正体が気になるところです。地名を神名とする場合は、その土地の古い地主神であることが考えられるので、あるいは新城戸畔を祭祀したものと考えることも可能かもしれません。

地図右上の[ ]をクリックすると「杵築神社・スサノオ系神社:奈良」が大きく開きます





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