御祓筋・熊野街道起点

平安期に始まった熊野三山参詣は、鎌倉期から室町期にピークを迎えました。
京都から紀伊半島南部へ向かうその参詣道は「熊野街道」と呼ばれ、
その陸路の起点は、現在の大阪市中央区の八軒家浜にあります。
また、起点からの一部区間を「御祓筋(おはらいすじ)」と呼びます。
本稿ではその「御祓筋」を訪ねてみることにしましょう。

上記画像のレリーフは、
大阪市によって熊野街道起点付近の歩道上に建てられたもので、
以下のような記述があります。
【MAP】

 熊 野 か い ど う

熊野街道は、このあたり(渡辺津 窪津)を起点にし
て熊野三山に至る道である
京から淀川を船でくだり この地で上陸 上町台地の
西側 脊梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられ
平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」
といわれる情景がつづいた
また 江戸時代には 京 大阪間を結ぶ三十石船で賑
い八軒の船宿があったことから「八軒家」の地名が生
れたという

     平成二年         大阪市

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現在の大阪市中央区天満橋、淀川の支流大川(旧淀川本流)に面した船着場が江戸期に八軒家浜と呼ばれた船着場です。当地は、熊野三山参詣いわゆる熊野詣が始まった時期には窪津(くぼつ)または渡辺津とも呼ばれましたが、江戸期に8軒の宿があったことから「八軒家」の名で呼ばれるようになったとのことです。現在の当地は水上バスの船着場として整備されています。
  ■八軒家浜船着場【MAP】
  ■八軒家船着場の跡の碑(昆布処永田屋本店さんの前です)
【MAP】




当地から南へ向かって熊野街道が始まるわけですが、上記で陸路の起点としたように、熊野三山参詣の本来の出発点は京都平安京となります。京を発した大宮人はまず船で水路淀川を下り、そしてこの船着場から陸路を熊野へ向かいました。

上皇や法皇によって始められた熊野詣は、鎌倉期を経て室町期には武士や庶民の参詣が盛んになり、その様子は「蟻の熊野詣」といわれるほどでした。

この地は江戸時代には八軒家と
称し淀川を上り下りの三十石船
の発着場として さらに古くは
渡辺といい紀州熊野詣での旅人
の上陸地として栄えた また大
江山の鬼を退治したといわれる
渡辺綱はこの地を支配した摂津
源氏一族の出身であり[地獄門]
で知られる遠藤盛遠が袈裟御前
を見初めたのもここに架けられ
た渡辺橋の渡りぞめの時のこと
と伝える 楠正行がこの橋から
なだれ落ちる敵兵を救いあげ衣
料を与えて国へ帰してやったと
いう美談は明治初年わが国が万
国赤十字に加盟のとき伝えられ
て感銘を与えた。

 昭和四十年五月 牧村史陽識

●坐摩神社行宮●
大阪市中央区石町
【MAP】

祭 神

豊磐間戸神
奇磐間戸神




八軒家浜のすぐ西には坐摩神社行宮(いかすりじんじゃあんぐう)があり、当社が熊野九十九王子の1番目である窪津王子の跡と考えられています。当社は、神功皇后による三韓征伐の帰路、 当地に坐摩神を祭祀したことが始まりとされています。境内には神功皇后の「鎮座石」なるものが置かれています。




神功皇后の実在性はかなりの確度で疑問視されており、当社の創建伝承も神功皇后に仮託されているだけでしょうが、それでも窪津王子に先行して当社が存在していたことが推測できます。京都から淀川を下って最初の上陸地点にある当社を上手く利用する形で、窪津王子の祭祀が始まったということなのでしょう。当地にあった坐摩神社は1583年(天正11年)の大坂城築城時、当地に行宮を残して大阪市中央区久太郎町へと移転され現在に至ります。


上記画像のレリーフは本稿トップに掲示したと同じ、八軒屋浜を発した熊野街道の陸路の起点の位置にあるレリーフです。その背後、画像左手方向が南になります。熊野街道はここからまず坂を上り、上町台地【Link:Wikipedia】と呼ばれる南北に長い台地を南下します。

現在の大阪平野は古代において河内湖と呼ばれる大きな湖になっていて、上町台地は大阪湾と河内湖を隔てて南北へ細長く伸びる地形を形成していました。八軒屋浜は上町台地の北端、旧淀川本流が大阪湾に流れ込む位置にあったことになります。




上町台地北端部はそれなりの広がりがあり、古代には難波宮、近世には大坂城が築かれ、それらはいずれも八軒家浜から離れはていません。八軒家浜一帯は、複数の陸路と水路の交差する交通・流通の要衝だったといえるでしょう。平安後期に当地を支配した嵯峨源氏源綱(みなもとのつな)が渡辺綱を名乗り、その後、渡辺氏・渡辺党として勢力を伸ばすのも、当地の立地の重要性に要因があったと思われます。

八軒家浜から坂を上った熊野街道は上町台地の脊梁部を通り、その途中の中大江公園沿いの歩道上に上記画像の碑があります。


上記画像は現在の熊野街道を北から南に見た光景で、画像の外側で地形的には西向き(画像では右)に緩やかな下り坂となっていきます。中・近世にあっても大阪湾の水際は上町台地・熊野街道の近くまで迫っていました。八軒家浜から南に2kmほどの間の熊野街道に沿って北大江公園・中大江公園・南大江公園や大江神社などがあり、そこに“江”という文字が目立つのは熊野街道が大阪湾の水際を通っていたことを表しています。




同じ碑を南から北へ見た光景です。舗装されクルマの行き交う道となっています。ここがかつての熊野街道であったことに気づくのは興味を持って見る人だけでしょうが、人や物の行き交う「道」としての意味や機能は今も昔も変わらないのかもしれません。


●狸坂大明神●

大阪市中央区神崎町
【MAP】


狸坂大明神・・・読みにくい名前です。長らく本稿筆者は狸坂大明神を「まいさかだいみょうじん」と読むと思っていたのですがこれは大きな勘違いで、「たぬきざかだいみょうじん」と読むのが正しいとのこと、地元の人がお教え下さいました。稲荷神社のような雰囲気の祠で、近隣の人たちが大切に守っているようです。




狸坂大明神は、熊野街道西側に隣接する南大江公園の一角にあります。かつて狸坂(たぬきざか)と呼ばれていた坂道が南大江公園の100mほど西にあり、狸坂大明神はもともと狸坂にあったとのことです。南大江公園から狸坂を下った所を南北に通る道が人形店が並ぶことで知られる松屋街筋で、かつてはそのあたりが大阪湾の水際でした。狸坂の存在は上町台地の地形を知る手掛かりになり、さらに熊野街道が上町台地の脊梁部を通っていることが良く分かります。


この南大江公園近辺に、熊野九十九王子の2番目である坂口王子があったとされ、今の狸坂大明神がその名残である可能性が高いと考えられています。また狸坂大明神は、天慶年間(938〜947年)に平貞盛が創建したと伝わる朝日神明社であったとも考えられ、そのことを示す碑および説明板が狸坂大明神の傍に建てられています。




上記画像の右手奥にわずかに見える緑が南大江公園で、そのさらに奥に狸坂大明神があります。このレリーフは狸坂大明神と次の榎木大明神の中間にあります。


●榎木大明神●

大阪市中央区安堂寺町

【MAP】


この祠は大正時代に「正一位稲荷大明神」とされていました。

八軒家浜から上町台地を南下してきた熊野街道は、狸坂大明神を越えてこの榎木大明神に至り、社前で東へ折れ、その先でさらに南へ向かいます。往時には狸坂大明神や榎木大明神の近くまで入り江が来ていて、その入り江を迂回するため、このような街道の通り方になったとのことです。上記画像は背後から見た榎木大明神で、北向きの祠の南側が急坂になって下っていることが分かります。




榎木大明神の背後には樹齢670年の大樹が神木としてそびえます。緑の少ない大阪市内にあってひときわ目立つ樹です。1988年(昭和63年)に、枯れそうだったこの木が樹医師によって治療され、そのときにこの木が榎木ではなく槐(えんじゅ)であることが分かったそうです。夏場はその葉が青々と繁り、熊野街道の目印になる木だったそうです。

1945年(昭和20年)の大阪大空襲の時、この祠の東側は類焼を逃れたとか、道路計画上、この木を伐採しようとした時、不慮の事故が起こったとか、榎木大明神の神威を示す言い伝えがいくつも残っているとのことです。榎木大明神もまた、近隣の人たちによって大切に守られています。


上記は榎木大明神を奥に見て、熊野街道の東西に伸びる部分を東から西に見たところです。現在の、クルマが行き交いビルが並ぶ市街地の様子からは想像し難いのですが、狸坂大明神の西側の狸坂、榎木大明神の南側の坂、さらに熊野街道の東西に伸びる部分は、上町台地の水際の地形を表す1つの大きな特徴となっています。




上記の碑のあるところが、東西に伸びる熊野街道が南へ向きを変える部分で【MAP】 八件家浜から大雑把にこのあたりまでが「御祓筋」と呼ばれます。熊野街道は、「御祓筋」に続いて「五十軒筋」「上汐町筋」と名前も変え四天王寺へと続きます。四天王寺境内南門そばには「熊野権現礼拝石」が今も残されています。


八軒家浜から榎木大明神を過ぎるあたりまでの熊野街道、これを王子でいうならば1番目の窪津王子から2番目の坂口王子を過ぎるあたりまでに、本稿タイトルの通り「御祓筋」という別名があります。この名の由来は、平安貴族が四天王寺を詣でる際に村人が道を祓いキヨメたとか、熊野詣の際の窪津王子でのお祓いから来ているとか何通りかの話が伝わっているものの確証はありません。とはいえいずれも可能性のある話です。

四天王寺を詣でるにせよ熊野を詣でるにせよ、窪津王子と坂口王子を通ることが参詣者の禊祓いになるような重要な意味があったものかと推測することができます。



現在の熊野街道に往時の面影は、寺社を除きほとんど残っていません。大阪市を含む大阪府内を通る部分はすべてが舗装されその多くが車の行きかう道となっています。

八軒家浜から住吉区のあたりまでには、大阪市によって道のそこここに「熊野かいどう」のレリーフや碑が建てられており、当該道が熊野街道であることが分かる措置が取られています。道の様相が時代によって変わるのはやむを得ないことなのでしょうが、人の記憶から消え去ることに比べればこの措置はよほどマシというべきなのでしょう。

熊野街道を始めとする、古い時代のものの姿は資料から思い描くしかありませんが、かろうじて今に残っているものを、今以上に消してしまうことだけは止めたいものです。

現在の八件屋浜船着場は、
水上バスの発着場になっています。
画像は同所の桜の時期の夜景です。

【Link:水上バスで大阪観光・八件屋浜船着場】





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