佐久奈度神社

滋賀県大津市大石中

祭 神

瀬織津姫命
速秋津姫命
気吹戸主命
速佐須良姫命

延喜式神名帳に記載される名神大社です。祭神の4神は祓戸大神(また祓戸四柱神とも)と総称される神々ですが、この4神は記紀の神統譜には載らず、延喜式の大祓詞(おおはらえことば)にのみ記述があります。各地の神社の祓戸社に祀られることが多く、そのため良く知られた神々でありながら、神社の本殿に主祭神として祀られるケースは多くありません。



祓戸大神の働きは、人の諸々の罪を消し去る力を持つ神であるといえるでしょう。すなわち、瀬織津姫命は川に居て人の罪を海へと流し、速秋津姫命は海に居てその罪を呑み込み、気吹戸主命は大気の中に居てその罪を吹き飛ばし、速佐須良姫命は根の国底の国に居てその罪を消し去り、そして人の罪は祓い清められるとされています。大祓詞のうち、該当する部分を書き出せば下記のようになります。
遺留罪波在良自登
(のこるつみはあらじと)

祓給比清給布事乎
(はらへたまひきよめたまふことを)


高山乃末短山乃末与里
(たかやまのすえはやまのすえより)

佐久那太理爾 落多岐都
(さくなだりに おちたぎつ)

速川乃瀬爾坐須
(はやかわのせにいます)

瀬織津比売登云布神
(せおりつひめ といふかみ)

大海原爾 持出伝奈牟
(おおうなばらに もちいでなむ)


此久 持出往奈婆
(かく もちいでいなば)

荒潮乃潮乃八百道乃
(あらしおのしおのやおじの)

八潮道乃潮乃 八百會爾坐須
(やしおじの やおあいにいます)

速開都比賣登云布神
(はやあきつひめというかみ)

持加加呑美弖牟
(もちかかのみてむ)


此久 加加呑美弖婆
(かく かかのみてば)

気吹戸爾坐須
(いぶきどにいます)

気吹戸主登云布神
(いぶきどぬしといふかみ)

根国底国爾 気吹放知弖牟
(ねのくにそこのくにに いぶきはなちてむ)


此久 気吹伎放知弖婆
(かく いぶきはなちてば)

根国底国爾坐須
(ねのくにそこのくににいます)

速佐須良比売登云布神
(はやさすらひめといふかみ)

持佐須良比失比弖牟
(もちさすらひうしなひてむ)


此久 佐須良比失比弖婆
(かく さすらひうしなひてば)

罪登云布罪波 在良自登
(つみといふつみは あらじと)

祓給比清給布事乎
(はらへたまひきよめたまふことを)

天都神国都神 八百萬神等
(あまつかみくにつかみ やおよろずのかみたち)

共爾聞食世登 白須
(ともにきこしめせと まおす)

当社佐久奈度神社の現社地は琵琶湖を発する勢田川沿いとなります。当地は下流の天瀬ダムの建造(1964年)のため移転させられた場所で、旧社地は程近い川沿いであったとのことです。旧社地にはそれを示す碑があるそうですが、残念ながら本稿筆者は確認していません。

現社地・旧社地、いずれにせよ当社の立地は琵琶湖から流れ出る瀬田川が南行から大きく西へ曲がっていく地点の南側であり、川の力が最も顕現する場所であると考えられるでしょう。つまり、速川の瀬に坐す瀬織津姫神を中心に祭祀する意味を持つ場所ということが、ひとまずはいえるでしょう。



当社の創始は669年(天智天皇8年)、勅願により中臣金(なかとみのかね)が祓戸の神を祀ったことであると伝わります。中臣金は、天智天皇・大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷の2代に仕え、壬申の乱で大海人皇子に敗れて処刑されました。

大祓詞はその成立に中臣氏がかかわったことから中臣祓とも呼ばれ、真偽のほどは確認していませんが、大祓詞が中臣金により作られたという説もあります。中臣氏は神祇祭祀を司どる氏族であり、その中で中臣金は、中臣鎌足没後の中臣氏の重要人物でした。

近江朝廷では水運その他の理由により琵琶湖を非常に重要視したであろうことは想像に難くありません。また当社は、近江朝廷の大津宮【推定位置のMAP】から直線で約10qの距離にあり、琵琶湖や勢田川の水運を利用すれば大津宮との行き来は難しくないでしょう。天智天皇勅願という創建伝承をも考えれば、当社が近江朝廷に関係が深いことは充分考えられることです。

政治的な中心地である朝廷の罪や穢れを、琵琶湖から出ていく川の流れにて浄化するため当社を置いたとも考えられ、風水とはまた違った神祇祭祀の系統の、大げさにいえば王城鎮護の意味が背後にあると推測できるかもしれません。
●神社から琵琶湖方向を臨む●

さて、祓戸大神の筆頭に来るセオリツヒメ神ですが、この女神を単なる祓いの神と考えるだけではなく、縄文期にその原型を見る根源的な水の女神であるとする考え方が昨今広く支持を集めています。「遠野物語」に「大昔に女神あり」記述される、その「女神」こそがセオリツヒメであるとのことです。

この説は、2000年10月の初版発行になる次の本およびサイトが参考になるでしょう。

【Link:風琳堂 エミシの国の女神】
【Link:東北伝説 風琳堂WebSite】

参照サイトのご主人であられる風琳堂氏がライフワークとして長年研究をなされていたことで、セオリツヒメの名は広く知られるようになってきました。

セオリツヒメが風琳堂氏ご研究の様相を持つ神ならば、祓戸大神の1神として罪を大海原に流すという働きは、根源的な水の女神の持つ働きのほんの一部であるということになります。となると、祓戸大神の1神として祀られた時点で、本来のセオリツヒメから矮小化されたと見ることも可能であり、当社佐久奈度神社や大祓詞に中臣氏が関わるなら、あるいは中臣氏が祓戸大神成立の事情を把握していたかとも推測するべきでしょうか。



一方で、セオリツヒメの名が知れ渡ることを「封じられていた女神が復活した」と捉える向きもあります。これまでその素性が知られていなかった女神が根源的な水の姫神であったとなると、そこにロマンを感じるのでしょうが、現在では姫神セオリツヒメの名のみが一人歩きしている雰囲気があります。

上記書籍の発行年を見れば分かるように風琳堂氏にこそセオリツヒメの名を広めた功績があり、その後に発行された書籍その他は二番煎じといえるのですが、例えば音楽の奉納をはじめとするスピリチュアルなイベントに利用されたり、やれ「復活」だの「降臨」だの「感得した」だの、「シリウス」や「〇〇のマリア」などのキーワードをセオリツヒメに関連付けるなど意味不明な行為が多く見られるような状況が現出しています。

風琳堂氏ご研究のような資料や古伝承を分析すること無く、感覚だけでセオリツヒメを語る・・・これはスピリチュアルな系統の研究者にその傾向が強いような印象があります。本稿筆者としてはスピリチュアルな系統の研究は少々理解し難いものがあり、風琳堂氏のご研究を支持するところです。
●中央の繁みが佐久奈度神社●





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