志貴御縣坐神社

奈良県桜井市金屋

祭 神
大己貴神


延喜式神名帳に記載される大社です。御縣(みあがた)とは古い時代の皇室の御料地(食糧を賄う直轄地)で、大和国に「高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布」の六御縣があり、そのうち磯城縣に祀られた神社が当社志貴御縣坐神社です。磯城縣は奈良時代の城上郡・城下郡を合わせた地域と考えられており、本稿でいう磯城の地もそれに重なるものと想定します。

当社祭神に関してはオトシキもしくは物部の祖ニギハヤヒだという説もあり、両者に共通する要素として、神武東征時神武側に寝返った事が指摘できます。まず本稿筆者は、オトシキは物部系の人物ではないと考えており、当社も物部系の神社という判断はしません。祭神もオオナムジ神であると見ます。

当社の発祥は、他の5カ所の御縣にある神社とはいささか違った由緒を持つのではないかと考えています。六御縣にある神社群のうち、当社のみ神武東征以前の先住勢力に繋がる可能性があると考えられるのがその理由です。つまり、欠史八代と呼ばれる神武以降の王権の中で磯城縣主として続く系は、神武東征時に生き残ったオトシキ(磯城彦兄弟の弟)をその祖とすると伝わるからです。ここに当社と先住勢力の接点が生まれます。



当社および当社のある磯城の地には、神武と崇神、世代を超える2人のハツクニシラススメラミコトが深く関わったことが考えられます。まず神武との関わりについて見ていきましょう。

現在の史学では、初代帝神武の実在の可能性は低いと考えられています。また、仮に神武が実在していたとしても、記紀に記述される神武伝承はあくまで8世紀の記紀成立時点での初代天皇に関する認識であるということに注意が必要です。

とはいえ、記紀の神武伝承には何らかの史実の核が含まれているかと考えることは可能でしょう。記紀の神武東征伝承をあらすじとして見ます。

九州を発した神武軍が瀬戸内海を東進し、大阪湾(河内湖)から生駒山を越えようとした時、その神武軍を押し返したのが先住勢力の内でも軍事的な指揮官であっただろうトミノナガスネヒコ(トミビコ)です。神武軍は撤退を余儀なくされ、紀伊半島南端部までを大きく南下、その後、紀伊半島中央部の山岳地帯の北上を企てます。

紀伊半島南端からヤタガラスの先導により、現在の奈良県宇陀市域、日本書紀にいう穿邑(うがちのむら)に侵入した神武軍は、その地の先住勢力の首長であるエウカシを討ち、副首長であるオトウカシは帰順します。その後、穿邑近辺に本陣を置いたと見られます。

神武軍は、奈良盆地へ東南から侵入する直前に男坂・女坂や墨坂、そして当社のある地域に大きく関わります。その関わりとは、一帯において神武軍と先住勢力の間に大規模な戦闘が行われ先住勢力側が排斥された、そういう関わりと読み取ることができます。
●エウカシを討ったと伝わる場所に残る「血原」の名●
●穿邑伝承地●

宇陀にいる神武が高倉山から眺めたという先住勢力の位置関係を見てみると、それは神武軍に対抗するため八十梟師(ヤソタケル:戦士集団のこと)を配置するなど、神武軍迎撃のための布陣であったと考えられます。記紀からその布陣を読み取ってみましょう。

 ■国見丘(くにみのたけ)に八十梟師を配置
 ■男坂(おさか)に男軍(おのいくさ)を配置
 ■女坂(めさか)に女軍(めのいくさ)を配置
 ■墨坂に「おこし炭」を置く
 ■忍坂に国見丘の残党を置く
  (古事記では忍坂大室屋に八十健がいる)
 ■磐余邑(いわれのむら)に兄磯城の軍を配置
 ■磯城邑(しきのむら)に磯城の八十梟師を置く
 ■葛城邑に赤銅の八十梟師を置く



これらの布陣は神武伝承に記述される戦闘場面のうちでも特に重厚でしかも具体的です。日本史の中の戦闘データや時代・地域背景などを基にすれば、動員された人員数を推測することも可能かと思いますが、それは専門家にお任せすることにします。

神武軍が宇陀を越え次に目指す地が奈良盆地の先住勢力の中でも非常に重要な場所であったことが推測され、その地を守るがため上記の布陣が必要だったと考えられます。目指す地とは布陣から見てエシキがいたであろう磯城邑および磐余邑。それが磯城の地のことで、奈良盆地南東部、古代史上重要な存在である神体山三輪山を中心に広がる地域です。
●忍坂道伝承地●

神武軍が三輪山麓磯城の地へ至る行程に従って見ていきます。

宇陀地域から磯城の地へと通じる、ヤソタケルたちが布陣したとされる男坂・女坂や墨坂は街道の峠部であり要衝です。宇陀地域の勢力と磯城の勢力は共に兄(首領)弟(副首領)の身分制度を用いたり、相互に交流のある様子が伺えるなど友好関係にあったと見え、おそらくは部族連合的な関係にあったのかも知れません。となるとこれらの街道は、平時にあっては重要な交通路・交易路として機能していたでしょう。が、神武軍が外敵として侵入し宇陀地域を陥落させた後となっては、先住勢力側として奈良盆地への侵入を阻むため街道の要所に防衛拠点を構築する必要があったのでしょう。

男坂・女坂の布陣はそこに人的戦力が配置されたことを表しているわけです。一方、墨坂においた「おこし炭」とはその言葉によって表される何らかの火計と考えられます。火計の内容はともかく、それによって神武軍への進路妨害がなされたということでしょう。墨坂以外の防衛拠点へ神武軍を誘導したようにも考えられます。

エウカシ・オトウカシらのように山間部を生活の拠点とする「山の民」などから見れば、宇陀地域から墨坂を経由して三輪へ至る場合、現在の桜井市へ向かう初瀬街道(R165)を通ることなく山中を伝っての移動が可能です。ことに三輪山上や巻向山・龍王山近辺の山間部にて活動しようとする場合、三輪山の東側に広がる山中を伝う道は山の民にとって無理なく通行可能なルートであったことでしょう。ということは、先住勢力側から見れば神武軍は喉元にまで迫ってきたことになります。ために、これらの地の利を活かす形で神武軍へ対抗しようとしたことが読み取れます。



磯城の地の先住勢力の中に首長がいたとすれば、磯城彦兄弟のうちエシキこそがそうでしょう。そこに基盤を持つ豪族であるからこそ兄磯城・弟磯城(古事記では兄師木・弟師木)と呼ばれていたのでしょう。

日本書紀でエシキは梟雄兄磯城(タケルエシキ)と呼ばれており、特に強い者がタケルと呼ばれるのは記紀の中に多くの例を見ることができます。また、古事記神武条では、エシキ・オトシキを討った時、神武軍はしばらく疲れ果てたと記述されており、上記の布陣から考えても相当の激戦が繰り広げられたと見て良いのではないでしょうか。その激戦があった場所が磯城彦兄弟の本拠だったのでしょう。それが後に磯城縣を構成する磯城邑から磐余邑だったのでしょう。

磯城邑伝承地の碑は当社志貴御縣坐神社の南東数百メートルに残り、オトシキを祭祀するかもしれない当社のある位置は、想定される磯城邑の範疇です。近くには仏教伝来の地があり海石榴市がありといった初瀬川の水運などを考えれば、当社近辺が磯城邑の中心だった可能性があります。

磐余邑は地名からすれば磯城邑の南西部になり、桜井市阿部の近辺と考えられます。実はナガスネヒコにはアビヒコまたは「安日王」という兄がいたとの伝承があります。エシキとアビヒコを結びつけたく思うのは、本稿筆者による根拠のない希望的想像にしか過ぎませんが。

【Link:函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ デジタル資料館:秋田家系図】

磯城邑から磐余邑の一帯、つまり奈良盆地南東部が盆地内の首都的な機能を持つ場所だったと考えても良いはずです。当社近辺の位置には、磯城彦兄弟にとっての重要な施設があった可能性もあります。

三輪山の神が神武以降の王権に祟りをなす伝承は記紀に複数回記述されており、それは神武以前から祭祀されてきた神だからだと考えられるのが史家によく見られる意見です。三輪山の神を祭祀してきた奈良盆地の先住勢力とは、磯城の地の首長であったと考えるのは自然なことです。本稿筆者の想像として、エシキこそが磯城の地の首長であり、神武以前の奈良盆地の旧ヤマト先住勢力全体の盟主的存在だったのではないだろうかと考えています。
●「磯城邑伝称地」の碑●
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●境内に立つ崇神天皇磯城磯城瑞籬宮跡の碑●

ここまでは当社志貴御縣坐神社と初代帝神武との関わりを見てきました。それは当社が建つ地域と神武との関わりの中で先住勢力が滅ぼされ磯城縣主が表われるまでの出来事でした。ここからは神武以降の王権の中の磯城縣主の動向を見ることとなります。それは10代崇神が大王として登場するまでのことであり、当社境内地が10代崇神の宮とされた事情を推測することでもあります。

このことは「磯城縣主の系譜」の項で后妃関係図などを参照しながらやや詳しく考えています。そのページもご参照くだされば幸いです。

当社の社名から分かる通り、当社は磯城縣主に関係の深い神社です。日本書紀では、神武東征の騒乱の中でオトシキが生き残り磯城縣主の祖となったとされています。当社は磯城縣主にとっての祭祀施設または重要施設だったことでしょう。

そしてオトシキの系の磯城縣主は、神武以降の欠史八代と呼ばれる大王に后妃を出す外戚的な氏族になります。ところが欠史八代の后妃関係を見ていくと、8代考元のあたりから物部系(穂積氏)の后妃が出るようになります。

本稿筆者は、8代考元の前後で磯城縣主の職掌がオトシキ系から物部系にとって代わられたのではないかと考えています。このことが、エシキ・オトシキが物部系であるかのように考えられる要因になったのではないでしょうか。

また、后妃関係で見る限り9代開化と10代崇神の間に王朝交代説のような断絶があったとは考えにくいものの、後の大伴氏により27代継体が擁立されたように、8代考元のあたりから頭角を現し始めた物部によって10代崇神が擁立されたのではないかとも考えられます。

以上をまとめると、磯城縣主にとっての重要施設だったであろう当社に崇神の磯城瑞籬宮が置かれた理由が推測できます。つまり、物部がオトシキ系磯城縣主から磯城縣主の職掌を、その重要施設(当社志貴御縣坐神社)をもふくめて簒奪し、当社境内地を宮として崇神を擁立し傀儡の大王とした、そのような図式になるでしょう。

【Lilk:磯城縣主の系譜】



古事記ではエシキ・オトシキが滅ぼされた直後にニギハヤヒの神武への帰順があり、日本書紀でニギハヤヒは、ナガスネヒコを討ってから神武へ帰順したと記されます。ニギハヤヒは先住勢力側から見れば外来の人物であり、先住勢力の首長を裏切る態度を示しています。ニギハヤヒを二重スパイと評した研究者がいたのも頷けるところです。

また記紀の神武歌謡では、敵愾心からなのか何なのかこれら先住勢力のことを「エミシ」と呼んでいます。後の東北地方のまつろわぬ先住者たちのことを蝦夷と呼ぶ史実、その心情と同じものがあったことの表れでしょう。

神武東征は、出雲の国譲りに次いで何世代か後に起こった旧ヤマト先住勢力の国譲りと見ることができ、そこに最初のハツクニシラススメラミコトが立ちました。ここでは当社のある地域、磯城の地を重要な舞台として争乱が繰り広げられます。

2人目のハツクニシラススメラミコト(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)が立つにあたり、先住勢力の系譜に繋がる者はさらに勢力を削られました。欠史八代の后妃関係記事を見る限りそこに物部の暗躍があったように思えます。

外来の者たちにとって先住勢力とは、征服し利用するためだけの存在だったのでしょうか。

出雲においては大国主神の鎮魂の社として出雲大社が建てられました。大和国ではそのような伝承はありませんが、当社志貴御縣坐神社の祭神はオオナムジ神であり大国主神あるいは大物主神と同神です。当社を見るとき、二人のハツクニシラススメラミコトと先住勢力との関わりや、国譲りをさせられた側の者への鎮魂の意味はなかったかという想像、それらを思い浮かべることしばしばです。
●境内の磐座●





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