須賀神社

奈良県田原本町味間

祭 神

須佐之男命


本稿は、谷川健一の編になる「日本の神々4大和」の多神社【MAP】の項を一部参照しての話となります。

小川光三氏による「太陽の道」の発見以来、日の出や日の入りとの位置関係において、山(神体山)や神社などが幾何学図形を描いて配置されているという研究を見ることがあります。それらの話題の中心になる三輪山(奈良県桜井市)の周囲には、意図的にその位置に置かれたであろうと思われる神社が何社かあるように、地図上では見えることがあります。「日本の神々4大和」に記載される多神社もその一社で、これは多神社が三輪山の山頂から真西にあることから、あたかも幾何学図形を描くネットワークが存在するかのように見えることがその理由です。



ちなみに春分・秋分には太陽は真東から上ります。「太陽の道」のことを良く咀嚼しない研究書などでは、多神社からは、春分・秋分に三輪山頂からの日の出が望めるように勘違いして記述している場合がありますが、実はそうではありません。太陽の上る角度と山の標高のせいで、春分・秋分には三輪山の向かって右の中腹から太陽が上り、三輪山頂からの日の出を望むためには多神社の位置では不適切です。

ここで本稿の須賀神社のことが上がります。「日本の神々4大和」(P196)での大和岩雄氏の論では、田原本町味間の当社からは春分・秋分に三輪山頂からの日の出が見られると書かれています。

当社は三輪山頂からの東西線よりやや北側に位置し、三輪山を中心にした幾何学図形を描く場所にあるわけではありません。さらに、実際に当社から春分・秋分の日の出を見ても、完全に三輪山頂から上るわけではありません。三輪山頂よりやや左手から日が上り(下記にカシミール3DによるCGにて再現しています)、そこにどうやら1日程度のズレがあります。「日本の神々4」における大和岩雄氏の論は正確とはいえませんが、判断に迷うもののこれは許容範囲と考えても良いかもしれません。



多神社は三輪山や「太陽の道」に関連付けて研究される場合が多いのですが、当社須賀神社はそれらとは全く関係無く、至極単純に春分・秋分の三輪山頂からの日の出を見るために位置決めがなされたという推測が的を得ているかと考えます。なぜなら、山頂からの日の出を望む位置を見出すことは、古代人であっても現代人であっても何も難しいことではありませんから。

当社本殿は西向きであり、三輪山に背を向ける方向に建てられています。このため、本殿に向かうことはそのまま本殿越しに三輪山を望むことになります。境内の木のせいで境内から三輪山を望むことはできませんが、境外に出て三輪方向を望むと三輪山がよく見えることが分かります。「太陽の道」の話とは関係無く、当社はやはり三輪山を意識して建てられた神社なのかも知れないと考えるのはなかなか楽しいことです。
●須賀神社そばから見た三輪山●
●須賀神社からの春分の日の出(再現CG)●

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