墨坂神社

奈良県宇陀市榛原区萩原

祭 神

墨坂大神

御祭神 墨坂大神

神武天皇御遷都の砌(みぎり)大合戦の墨坂
の地に祭祀せられていた大神でそ
の地名を称号し墨坂大神と申して
いる。崇神天皇の御代(西暦380年)
国中に疫病が蔓延したため赤盾、
赤矛を幣帛として御勅祭せられ又
天武天皇白鳳元年(西暦673年)に大來
皇女を使者として奉幣されたとも
伝えられている。

文安六年(西暦1450年)に墨坂から現在
の地に遷座された。

本殿は元治元年(西暦1864年)御造営に
際し南都春日大社の旧本殿を拝領
し建造したものである。

新抄勅格符抄によれば天應元年(西暦781年)
「墨坂神一戸信乃」とあり長野県須坂
市に御分社が二社ある。

例祭は十一月三日で古式により、
渡行式が執り行われる。
              墨坂神社
●墨坂伝承地●

もともと当社墨坂神社は「墨坂伝承地」のある西峠に近い「天ノ森」という場所に祀られていましたが、室町期に現社地への移転がなされました。正面

鳥居および社殿は北北西を向いて建ちます。また、「春日大社の旧本殿を拝領し」とあるのは、江戸期に奈良の多くの寺社が興福寺・春日大社の支配下

にあったことによる「春日移し」という手法です。



墨坂大神(大は美称であるため墨坂神でも同じ)は、その名で記紀の神統譜には登場せず素性がハッキリしない神格です。

当社の側の由緒を参照すると、初代天皇神武の東征時に既に当地で祀られていた天御中主神・高御産霊神・神産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・大物主神の6神を総称して墨坂大神という、とあります。

墨坂神の輪郭を考えるにあたって、記紀の中にある関連伝承を見ていくものですが、実は、当社の由緒に書かれるような初代天皇神武に関わる記述は記紀にありません。記紀両書の神武伝承は近似した内容を伝えており、さらに日本書紀の方がより詳細な記述となっていますが、記紀における墨坂神の初出は10代崇神条となります。

まず古事記からその記述を参照します。10代崇神帝の治世、国中に疫病が蔓延した時、崇神の夢にオオモノヌシ神が現われて「疫病は自らの意思によるもの」と伝え、さらにオオタタネコをもって自らを祀れば疫病は治まると告げました。そして崇神は、三輪山のオオモノヌシ神を祭祀すると同時に、宇陀の墨坂神に赤の楯と矛を奉じて祭り、また大坂神に黒色の楯と矛を奉じて祭り、坂の尾にいる神や河の瀬にいる神に至るまで残すことなく祭祀し、これらにより疫病は治まり国家は平安になった、とあります。

日本書紀では上記古事記と同様の説話がやや詳しく崇神7年のこととして述べられていますが、そこに墨坂神への言及はありません。2年後の崇神9年、崇神の夢に神人(かみ)が現れて「赤の盾8枚、赤の矛8本をもって墨坂の神を祭れ、黒の盾8枚、黒の矛8本をもって大阪の神を祭れ」と告げたとあります。



日本書紀雄略天皇条7年7月、雄略は少子部連スガルに命じ、三諸岳の神を捕らえさせました。この時の書紀の記述として三諸岳の神とは「この山の神は大物代主神という。あるいは菟田の墨坂神という。」とされています。

これらの説話から、墨坂神はオオモノヌシ神との関係を抜きにして考えることはできない神格であることが分かります。

そのオオモノヌシ神は、記紀の随所でそのタタリが語られています。神武や崇神との関わりが多く見られますが、神功皇后の朝鮮出兵をタタリによって妨げたという説話もが知られます(神功皇后紀・筑前国風土記逸文)。いずれも祭祀によってタタリは回避されているものの、これほど多数回、王権に祟る神はオオモノヌシ神以外の例はあまり見られず、王権側からは非常に警戒されていた神格であろうと読み取れます。

崇神帝の治世から時系列をさかのぼる形で見れば、書紀第2の一書で、神武東征に先立つ天孫降臨に当たりオオモノヌシ神およびコトシロヌシ神を首渠(ひとごのかみ)と呼んでおり、古事記神武条で、奈良盆地平定戦の後にオオモノヌシ神の娘が神武に差し出されたとあることなどから、神武軍が奈良盆地を平定しようとした時、奈良盆地における先住勢力が祭祀する神の筆頭がオオモノヌシ神であったと読み取れます。

より大きな地図で 墨坂を表示

オオモノヌシ神の祭祀を伝える三輪と、墨坂神社があったとされる墨坂の位置関係を確認します。

私たちが墨坂や三輪をイメージする場合、両者を結ぶルートとして初瀬街道(R165)を意識しますが、記紀の神武条に登場するエウカシ・オトウカシらのように山間部を生活の拠点とする「山の民」の行動を想像すれば、初瀬街道利用は里の民の発想だということができます。三輪山が入山禁止であるという現在の考え方など持たなければ、ことに三輪山上や巻向山・龍王山近辺の山間部にて活動しようとする場合、三輪山の東側に広がる山中を伝う道は山の民にとって無理無く通行可能なルートであったことでしょう。

とすれば、意識の上での墨坂と三輪の距離は、私達が物理的な距離を想像するより小さいものとなります。

また、墨坂神社の発祥当初より上記の6神をすべて祭祀していたとは考え難いものがあります。となると、神産霊神を含む天津神系の5神は、大和朝廷の力が強い時期にダミーとして祀られたのではないでしょうか。6神のうちオオモノヌシ神が墨坂神の本体であるとの推測が研究者からなされており、そのように見てまず間違いないでしょう。



これらのことから墨坂に、神武東征以前から三輪山と同じくオオモノヌシ神が祭祀されたという当社の由緒も、大きな問題無く理解できそうです。同神は本来、大和王権に抵抗する勢力によって祭祀されていた神だと推測されます。そして、宇陀地域の先住勢力と三輪山麓平野部の先住勢力は、共にオオモノヌシ神の名で表される同じ神を祀っていたと考えても何ら問題は無いでしょう

タタリや疫病、これは超越者による超自然的な所業でしょうか? それとも先住勢力残党による反乱のようなまつろわぬ所業の比喩でしょうか? 記紀成立の8世紀から数百年を遡る過去である大和王権成立期に、当地における先住勢力が、神武に象徴される原大和王権勢力に対抗したとの記憶が残ってたのかも知れません。先住勢力が祭祀した神であるがゆえに、王権側が疫病封じのための楯や誇を奉じる必要があったのかも知れません。

記紀の成立時に、そのような記憶も神武伝承に取り込まれたかと推測することは可能です。墨坂や墨坂神には、そのような王権側が封じたい記憶が凝縮されいるように感じられてなりません。
●龍王宮●
●祓戸社●





INDEX