瀧原宮・瀧原竝宮

三重県度会郡大宮町滝原

●瀧原宮●
祭 神

瀧原宮  天照大御神御魂
瀧原竝宮 天照大御神御魂

●瀧原竝宮●

1つの敷地内に同規模の2つの社殿があります。向かって右が瀧原宮(たきはらのみや)、左が瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)。両宮ともに内宮(皇大神宮)別宮で、大神の遙宮(とおのみや)と呼ばれることもあり、古い時代より伊勢神宮のうちでも正宮に次ぐ高い格式を誇ってきました。別宮としてはもう1社、三重県度会郡磯部町に伊雑宮(いざわのみや)が知られていますが、そちらよりも瀧原の2つの宮の方が格は上だとされています。多くの場合、2つの宮を代表するように「瀧原宮」という呼び方のみがなされます。

伊勢神宮の発祥は、続日本紀の文武2年(698年)の記事に書かれる「多気太神宮」がそれであると考えられていますが、この多気太神宮を瀧原宮と考える説もあるそうです。ただしこれには反証もあり一般的な考え方ではありません。多気太神宮の記事はやはり伊勢神宮の発祥として捉えるべき内容なのでしょう。



鎮座の次第として次のような、いわゆる「倭姫の巡幸」に関する伝承があります。

10代崇神帝の治世、皇女豊鋤入姫がアマテラスを奉じて大和国を発ちました。その後、アマテラスを祭祀する役は11代垂仁帝の皇女倭姫が受け継ぎ、2代合計約90年にわたりアマテラスの鎮座地を探すことになります。これが伊勢神宮の由緒を伝える倭姫の巡幸伝承です。が、倭姫の巡幸伝承と、続日本紀の文武2年の記事がどのように整合されるか、本稿筆者は残念ながら承知してはいません。

倭姫がアマテラスを奉じて当地に至り宮川の急流で難渋していた時、倭姫を迎えて手助けをしたのが真奈胡神(まなごのかみ)です。真奈胡神は引き続き倭姫を案内して進み、「大河の瀧原の国」という土地に至り宮を建てたのが当社瀧原宮の起源とされています。伝承ではその後、倭姫は現在の伊勢市方面へ向かいます。

アマテラスの祭祀を遷座していった場所を元伊勢と呼び、当社は元伊勢伝承を持つ1社となります。
●右奥は境内社 長由介神社●

本稿筆者としてはアマテラスの荒御魂(あらみたま)なる神格に興味を持っています。

当社祭神は、瀧原宮・瀧原竝宮ともに天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)。両宮ともに祭神が同じなのは不自然ですが、この点について一般的な研究では瀧原宮がアマテラスの和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮がアマテラスの荒御魂とされています。これは皇大神宮正宮にアマテラスを、正宮の背後にある荒祭宮にアマテラスの荒御魂を祀る状況に準じたものとされています。

祟り神を初め祭神の力が荒々しく発動する場合を荒御魂と呼びますが、アマテラスの荒御魂に限っていえば状況が少し違います。例えば、「倭姫命世記」では荒祭宮の祭神 皇太神宮荒魂を八十枉津日神もしくは瀬織津比v神としており、これを受けたものかどうなのか、大阪府大阪市西区の御霊神社ではその由緒書きにてアマテラスの荒御魂がセオリツヒメであると公言しています。

【Link:神話の森 倭姫命世記】

同ページ中の【倭姫命薨去】の項目に「荒祭宮一座」として解説されています。

本稿筆者の当社参詣の目的も、アマテラスの荒御魂とセオリツヒメが同一神ではないかといわれていることからでした。セオリツヒメの名は次にご紹介する風琳堂氏のご研究により広く知られるようになってきており、氏のご著書が参考になるのではないかと思います。

【Link:風琳堂 エミシの国の女神】



「倭姫命世記」は鎌倉期の成立であり、仮にこれを受けたとしても、アマテラスの荒御魂(を含む由来不明の女神)が即セオリツヒメと同一神であると結びつけることは短絡的です。スピリチュアル系の研究者の中には往々にしてこのような態度が見られますが、これは厳に慎むべきことであり、本稿筆者自身も注意を払わなければなりません。そこに必要なのは風琳堂氏のように詳細な論考です。

とはいうものの、伊勢神宮荒祭宮のアマテラスの荒御魂は謎の古代神アラハバキ神との関連が伺えることや(記紀解体:近江雅和著)、瀧原宮にほどちかい大宮町船木【MAP】には、神武に滅ぼされたイセツヒコの伝承がある(住吉大社神代記)など、当社の祭祀が表に現れない何事かを語っているかのように感じられるのも興味深いものです。封じられた神の痕跡は各地に見られ、当社ものその一つであると考えられるかもしれません。





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