天満宮・恋志谷神社

京都府相楽郡南山城村

天満宮 祭神
菅原道真公

恋志谷神社 祭神
恋志谷姫神


本稿タイトルを「天満宮・恋志谷神社」としたように、天満宮を本社とし、その末社として恋志谷神社が位置づけられます。が、境内社である恋志谷神社の方が有名になってしまい、地図や資料の表記などでも「恋志谷神社」と書かれるケースが多いようです。

境内社の方が崇敬を集め認知度が高くなった例は、奈良県生駒市の宝山寺(本堂本尊を不動明王としますが、鎮守として聖天宮の歓喜天が有名になっています)などそれなりに例があります。



もともと天満宮近くに祀られていた恋志谷神社は、柳生氏にゆかりのある天満宮の境内に、明治期に末社として祀られました。天満宮・恋志谷神社のある南山城地域は、柳生氏の本拠地(今の奈良市柳生)や後醍醐天皇が挙兵した山城国笠置山に程近い場所です。

恋志谷神社の祭神である恋志谷姫は、96代後醍醐天皇の側女だったとされています。観光案内的には、境内案内板に書かれる以下のような恋志谷姫の伝説が解説されます。恋志谷神社は「こいしだにじんじゃ」と読みますが、伝説を基に「こいしやじんじゃ」と読むことが可能なら意味的にストレートで分かりやすいかもしれません。
戀志谷神社口碑傅説 大字南大河原

当社に祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったといわ
れています。

後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に笠置山で北条高時を打ち破りまし
たが、天皇の軍勢は旗色も悪く敗れてしまい、翌元弘2年3月に隠岐
へ配流されました。

一方その時、姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。そして病気
が治った後に後醍醐天皇がいた笠置へと向う途中で、ここ南大河原の
古森に着きました。姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であるこ
とを聞き、あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったの
でした。

姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、また自分の病
気を嘆きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けますとあった
と言い伝えられています。そのためその言葉を人々に伝え、これを永
遠に伝えます。

                      南山城村教育委員会

恋志谷姫について、後醍醐天皇の后妃にこの名の姫は見あたらないだけでなく、この姫に該当しそうな素性の女性の名もありません。架空の姫なのか、実在したにせよ史書に名を留めない立場の女性なのか定かではありません。最後まで「天皇が恋しい」と言っていたことからこの名で呼ばれることとなり、現在では女性の病気平癒や恋愛成就の祈願で訪れる人が多いそうです。



次からは天満宮と、天満宮にゆかりがあると先述した柳生氏について考えていきますが、それは後醍醐天皇にも繋がっていくことになるでしょう。

柳生氏といえば時代劇によく登場するあの柳生氏で、下記系譜の下から2番目、天満宮鳥居前の案内板にも登場する柳生宗矩が徳川家康・秀忠・光家らの剣術指南役を務めたことで有名です。案内板には下記のようなことが伝えられています。
天満宮 石鳥居 大字南大河原

柳生宗冬公が父宗矩や2人の兄(長兄十兵衛・二兄友矩)の愛したこ
の土地の神社(正保4年に合社。恋志谷神社・天満神社)改築に伴い
この鳥居を建立寄進したものである。

鳥居には銘文が刻まれている。

   正保四年
   奉建立天神御寶前石鳥居柳生主膳正宗冬敬白
   亥丁六月二十五日

父や兄が柳生の主人公として深いかかわりのしるしに寄進したもので
あり、歴代の藩主がこの地を重要視したあらわれである。奈良県柳生
の八坂神社の鳥居も同じく柳生宗冬が建てている。

                      南山城村教育委員会

柳生氏は菅原道実の出た菅原氏の出身であると自称しているので(参考 姓氏家系総覧:秋田書店)、現社地に柳生氏の誰かが氏神として天満宮を祀ったと考えても特に問題は無いでしょう。また、古くからこの地が柳生氏にとって重要な場所だったとの推測も成り立つでしょう。ただ、正保4年(1647年)に恋志谷神社と天満神社が合社されたという案内板の記述は、明治期に恋志谷神社が末社として祀られた経緯とはいささか矛盾があるかもしれません。



菅原姓から柳生姓への変遷は正確に分かっているわけではないようですが、下記系譜の上から2番目の人物、柳生氏の祖とされる播磨守永珍(はりまのかみながよし・別名宗珍)、その弟中坊源専(なかのぼうげんせん)が、歴史の舞台に登場する柳生氏の礎をつくった人物となります。その2人から有名な柳生十兵衞までの系譜は、簡略的に次のようになります。
大膳亮永家




播磨守永珍・中坊源専

備前守家重

三河守道永

家 宗

光 家

因幡守重永

美作守家巌

但馬守石舟斎宗巌

但馬守宗矩

十兵衞三巌・友矩・宗冬

一方、後醍醐天皇は、鎌倉北条氏による鎌倉幕府から政治権力を奪い天皇親政を実現することを目指した天皇です。野望は大きく行動力もあったものの、後の建武の新政による失政からも推測されるように、有能な人物ではなかったという評価がなされることもあります。

後醍醐天皇は1331年(元弘元年)に鎌倉幕府討幕運動を起こし、これを元弘の乱といいます。笠置山で挙兵した後醍醐天皇に呼応して護良親王や楠木正成も挙兵したわけですが、播磨守永珍・中坊源専も後醍醐天皇の側について参戦します。確認の取れない説ながら、楠木正成と後醍醐天皇を引き合わせたのが播磨守永珍であったともいわれています。この乱は後醍醐天皇の敗北に終わり、天皇は廃位の後、1332年隠岐島に配流となります。



元弘の乱の終息から3年後、勢いを盛り返した後醍醐天皇勢により幕府は倒され、建武の新政が開始されます。そして後醍醐天皇の側に立って戦った播磨守永珍・中坊源専は功を認められ柳生の地を所領とすることになり、その後、正式に柳生という土地の名を氏としてこの地に根を下ろし続いていくことになります。

こうしてみると後醍醐天皇を中心に、一方に恋志谷姫、もう一方に播磨守永珍・中坊源専という同時代の人間関係が浮かび上がります。恋志谷姫が実在であったかどうかは分かりません。また、後醍醐天皇の活動した時期に当社天満宮が存在したかどうかも分かりませんが、現社地付近で後醍醐天皇や柳生氏の祖が活動したことは間違い無いでしょう。
●天満宮本殿●
●恋志谷神社本殿●

さて、ここからは想像の歴史となります。

天満宮・恋志谷神社のすぐ近くには国津神社が2社あり(A-MapB-Map)、そのうちA社は式内社としての由緒と古さを持ちます。

この件に関し、奈良県北東部(東山中:ひがしさんちゅう)から三重県にかけての山地帯には、三重県名張市を中心として国津神社と呼ばれる神社が数多く分布していることが地域的な特徴になっています。

天満宮・恋志谷神社の位置は国津神社の分布圏に含まれており、恋志谷姫が後醍醐天皇を追って伊勢から笠置に来たということは、国津神社の分布圏を通過してきたことになります。

国津神社はまた九頭神社と表記されることも多く、元はその名が「クズ神社」であったことが示唆されます。それは、記紀の神武伝承に登場する吉野の国栖(クズ)や、壬申の乱で天武天皇に味方した吉野の国栖人たちに関係する神社である可能性も考えられています。そしてこの人たちが、神武伝承以降の時代にある程度のまとまりをもって国津神社を祭祀していた可能性すら考えられています。

もちろんそこに、クズ族という氏族や部族が居たと積極的に肯定する資料があるわけではありません。が、そこにおそらくは、クズ族という名で呼び表しても良さそうな「山の民」ともいうべき人たちがいて、天武天皇に味方したと同様に恋志谷姫をバックアップしていたかもしれません。恋志谷姫が実在で無いならなおさら、姫の説話を伝承した人たちの存在が気になるところです。



後醍醐天皇の側についた勢力で、有名どころの楠木正成は「悪党」と呼ばれた河内の在地勢力の長であって武家の本流ではありません。正成は山岳ゲリラ戦を得意とし修験者を連絡員として組織するなど、平地に住まう武士とは違った戦い方で鎌倉勢を苦しめました。ここにも修験者のように、楠木正成の背後の「山の民」の存在が暗示されます。

歴史家の説ではなく作家の説ですが、柳生氏は忍者または隠密を抱えていたといわれることもあります。忍者で有名な伊賀・甲賀は、特に伊賀は柳生から程近い地域です。そして忍者と言えば「山の民」の系譜に連なるものの生業とされています。

いわゆる「山の民」のネットワークが後醍醐天皇の背後で稼動していたように想像できます。笠置山はそのネットワークの重要な中継点であったかもしれません。天満宮・恋志谷神社のある地域は、そのネットワークが顕在化した1つのポイントのように、これもまた想像できてしまいます。

ただ、想像の最後として、建武の新政は「山の民」が支持できるもので無かったのではないか、そのように思えます。楠木正成の敗北、南朝勢力の減衰が「山の民」ネットワークの稼働停止を物語っているように思えます。

この神社が、柳生氏・恋志谷姫双方にかかわるため、そのバックアップ勢力の繋がりを考えてみましたが、柳生氏に関係するだけの神社であったなら、単なる悲恋物語を伝えるだけの神社であったなら、上記のような想像を含めた考え方はできませんでしたね。





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