ナガスネヒコ本拠

長髄彦本拠:奈良県生駒市上町

●「長髄彦本拠」の碑●
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日本書紀の神武条に記述される、神武東征時の奈良盆地の先住勢力は、同条の神武歌謡により「エミシ」と表現されています。

『えみしをひたり ももなひと ひとはいえども たむかいもせず』

「エミシは1人で百人に対抗できる強さがあると人はいう。けれども大して抵抗もしなかった」、そのような意味の歌です。この歌が詠まれたとされるのは、神武勢が熊野から山中を北上して奈良盆地入りをしようと忍坂(現在の桜井市南東部)にさしかかったときのことです。

神武勢が忍坂の大室にて八十タケルと呼ばれる戦士集団を、酒宴に誘ったうえで騙し討ちにしたとの記述があり、歌はその時に詠まれました。騙し討ちという卑怯な戦法で討たれたうえこの歌のような侮蔑的な言葉を投げかけられた先住勢力とは、神武勢が正攻法で戦っても勝つことのできない、やはり1人で百人に対抗できるほどの戦士たちだったということをこの歌は示唆しているように思います。

本稿では、おそらくはこの戦士集団を率いたであろう武将の1人、ナガスネヒコ(記ではトミビコなので本稿ではトミビコにの表記に統一します)の本拠について記紀の記述を参考に考えてみようと思います。



トミビコが実在していたという確証はありませんが、たとえ実在しない人物であっても、その本拠地やゆかりの場所が伝承の中に伝えられるのは、記紀の中の初期の天皇家の系譜を見れば明らかです。

神武勢が最初に奈良盆地侵入を試みたとき、大阪側の生駒山麓においてその侵入者に立ち向かったのがトミビコです。この戦いは日下の戦いと呼ばれます。トミビコは神武勢の指揮官的な立場にあるイツセを倒した上で神武勢を押し返すことに成功します。

それはあたかも続日本紀に記述のある、西暦789年(延暦8年)、陸奥の国胆沢(現在の岩手県奥州市)においてエミシの首長アテルイが征東将軍紀古佐美の率いる朝廷軍を大敗させた史実「巣伏の戦い」を彷彿とさせる状況です。トミビコにこそ、「えみしをひたり ももなひと」という勇者の姿を見ることができます。
●「鳥見白庭山」の碑●
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「長髄彦本據(本拠)」の碑は、生駒市の中央部よりやや北よりの白庭台という地区にあり、すぐ近くにニギハヤヒに関係の深い「鳥見白庭山」の碑が、南にやや離れた場所に「ニギハヤヒの墳墓」があります。これらの碑については生駒市誌に、古伝に基づき大正期に「金鵄会」によって整備されたと記述されており、碑の近辺をがトミビコの本拠地と考えられていたことが分かります。また奈良市西部、生駒市に近い場所にある公園には神武天皇像までもが置かれています。

碑のある当地一帯は奈良盆地として考えれば北西部となり、トミビコは当地を中心に盆地北西部を勢力圏としていたのでしょう。



ところで、トミビコの本拠地は奈良盆地南東部(現在の桜井市域が中心)の三輪山麓だったと考えられるケースもあります。つまり奈良盆地北西部に本拠を置いたか、あるいは南東部に本拠を置いたかの2つの可能性が考えられるわけです。

この2つの地域には「トミ」に関して似た名称が残っています。

まず奈良盆地北西部では生駒市に「鵄山(トビヤマ)」、奈良市に「鳥見」「富雄」「登美ヶ丘」「式内登弥神社」など。

奈良盆地南東部では桜井市に「外山(トビ)」「鳥見山」「式内等弥神社」、榛原町に「長峰」などが現在に残っています。

ではトミビコの本拠地は、2つの地域のうちどちらがその可能性が高いと見るべきでしょうか。

まず奈良盆地北西部を考えてみましょう。

上記した日下の戦いで神武の東征軍を迎え撃ったのはトミビコ勢でした。日下の地域は現在の東大阪市の生駒山麓にあり、日下からいくつかのルート(清滝越え・竜間越え・暗越え)で生駒山を越えると奈良盆地北西部、想定されるトミビコの本拠地近くに到ります。碑のある地域にトミビコがいたとすれば、東征軍へは迅速な対応が可能でしょう。

また、トミビコの義理の兄であるニギハヤヒに関する伝承も奈良盆地北西部に多く残ります。生駒市域から磐船街道と呼ばれる国道168号線を北へ向かえば、「長髄彦本據」の碑から4kmほどの距離にニギハヤヒの降臨伝承を伝える磐船神社があります。ニギハヤヒの後裔氏族物部氏の勢力範囲が、生駒山の大阪側である八尾市域に広がるのも関係があることなのでしょう。

地勢については、大阪と奈良の府県境は生駒山地により隔てられています。さらに、生駒産地の東側(奈良盆地側)に、矢田丘陵と呼ばれる南北約13〜14km・東西約3kmの丘陵地帯があります。丘陵とはいっても実際は低いながらも山地帯で、北は生駒市域から南は現在の法隆寺あたりまで広がります。このように奈良盆地北西部は丘陵地が入り組んだ地形となっており、その中で碑のある一帯は矢田丘陵の北端部にあたります。

この矢田丘陵を「長背嶺(ナガソネ)」と見立ててナガスネの語源とする考え方が生駒市誌に紹介されています。語源の話に確証があるかは分からないにしてもさても、奈良盆地北西部は地名や地形、戦闘描写などの面からトミビコに縁の深い地域といえるでしょう。



一方、奈良盆地南東部はどのような状況だったのでしょう。古代の奈良盆地では中央部が湿地帯だったと考えられており、北西部に丘陵地が入り組んでいたとすれば、相対的には南東部に平野部が多かったことになります。

神武勢が熊野から北上して桜井市域三輪山麓に至るにあたっては、宇陀地方や忍坂・墨坂など三輪山に近づくにつれて戦いの記述が多くなり、奈良盆地南東部が他の地域より重要であったと読み取れます。

神武が最終的な目的地とし都を置いたのが奈良盆地南東部であり、人皇の時代、何人もの天皇が都を置いたと伝承されるのもこの範疇の一帯でした。可能性ということでなら神武東征以前・ニギハヤヒがヤマト入りする以前の三輪山信仰をも視野に入れる必要もあり、奈良盆地南東部が盆地内でも中心をなす地域だったと考えて良いでしょう。

そして重要なことは、その一帯の首長として記紀に記述されるのが、タケルと呼ばれたエシキ、その弟オトシキを筆頭とする磯城彦の一族だということです。

トミビコやニギハヤヒは、地縁という意味で奈良盆地南東部より北西部への関わりが多いと見受けられます。現代の研究者の中には「登美の長髄彦は三輪山の祭祀王かも知れない」という意見があり、また折口信夫はニギハヤヒを「倭の国魂」と考えましたが、本稿筆者としては、場所柄どちらの考えも成り立たないと思います。
●「長髄彦本拠」の碑の位置●
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記紀から考えると、奈良盆地の北西部と南東部、この2つの地域には上記に見てきたような地域的な差異や特徴が認められます。

神武東征時の奈良盆地の先住勢力が、クニとまではいえなくても部族連合的にまとっていたと仮定してみましょう。それは西からの侵入者があると見られる状況です。その状況に対応するには、南東部の三輪に近い地域に祭祀王的あるいは盟主的な存在を置き、北西部にはできるだけ強力な戦士集団を置くことで西へ、つまり瀬戸内海方向へ備えることができます。これは大和朝廷の敗戦に終わった「白村江の戦い」の後、天智天皇が有事に備え667年(天智6年)に高安城(たかやすのき)を整備した考え方に通じるともいえます。



このように考えてくると、イツセを倒し神武勢を押し返したトミビコは、奈良盆地全域を統べる盟主というより軍事的指揮官や総大将という武将であり、率いる戦士集団も精鋭ぞろいだったのではないかと思えます。

碑のある一帯は奈良盆地全域の北西端にもなります。この地域から生駒山方向への見通しは良く、西からの侵入者に備えるには格好の場所といえるでしょう。瀬戸内海方向から浸入してきた者が生駒山を越えて奈良盆地入りしようとしとき、そこにまた矢田丘陵が横たわっている、碑のある地域の位置関係はそのような地勢になります。

トミビコはこの丘陵地帯を山城的な砦として活用していたのかもしれないと考えるのは、地の利を活かす面から見ても的外れではないでしょう。ならばその本拠地は、奈良盆地北西部と考えることが蓋然性が高そうです。

奈良盆地北西部がトミの勇者の伝承を伝えるべき場所だったのでしょう。





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