撞賢木厳御魂天疎向津姫命神社

奈良県桜井市大福

祭 神

撞賢木厳魂
天疎向津姫命


撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(当社社名では“之”が省かれていますが同じです)は、日本書紀神功皇后条にアマテラスの荒魂として登場します。当社はこの名を社名とするわけですが、一般的には横内神社と呼ばれます。社地は古代の横大路に近接し、“横内:よこうち”とは“横大路:よこおおじ”が変化したものかもしれません。が、残念ながら創建については不詳です。

この神の初出は、神功皇后紀の仲哀9年3月、神がかりした皇后に対し審神者である武内宿禰がその神の名を問うたところ、自らは伊勢国の渡逢県の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)に座する「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命」と答えたとあります。その後の記述によりこの神はアマテラスの荒魂であることが分かります。



撞賢木厳之御魂天疎向津姫命・・・

近年、この長く特徴的な姫神の名が見られれば、あるいはアマテラスの荒魂という名があれば、そこに必ずセオリツヒメの祭祀が隠されていると受け取るような風潮があります。特にスピリチュアル系の研究者によって。

アマテラスの荒魂がセオリツヒメであることは神道五部書のうち「倭姫命世紀」に記載されるという情報がネット上で散見されますが、それは2次情報でしかないように思えます。実は神道五部書のうち、「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」・「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」・「倭姫命世記」に、つまり5書のうち3書に、皇大神宮荒祭宮の祭神にしてアマテラスの荒魂がセオリツヒメであると記載されます。記載がないのは「豊受皇太神宮御鎮座本紀」・「造伊勢二所太神宮宝基本紀」の2書。神道五部書は鎌倉期の成立で、その時点での記述者に、アマテラスの荒魂がセオリツヒメであるという認識があったことに他ならないでしょう。

では当社における撞賢木厳御魂天疎向津姫命はセオリツヒメなのでしょうか? なるほど、社頭の案内版には次の記述があります。
横内神社 御由緒

御祭神 撞賢木厳魂 天疎向津姫命

当社は推古二十一年(西暦六百十三年)に
造られた横大路に接する字コウロン
(役人に講義をするところ)の地に鎮座されている。
御祭神の神は伊勢に鎮まる
天照大神の荒御魂(活動的な神)と
言われ、また人々の罪や穢れを祓う
神の一人である 瀬織津姫であるとも
言われている。

横大路が初瀬街道から江戸時代に
伊勢街道と呼ばれたことに起因して
伊勢の神にかかわる神を祀り
地区の協調と繁栄 区民の健康と
安全を末永く祈願するために
造営されたのである。

御祭神は兵庫県西宮市廣田神社に
鎮座されている。

この案内版がいつの時期のものであるかは分かりませんが、何十年も経っているようには見えません。私的には「アマテラスの荒魂=撞賢木厳魂天疎向津姫命=セオリツヒメ」という認識が一般的になってからの時期、それは現2015年からそう遠い過去ではない時期(おそらくは十年から十数年前)に書かれたような印象を受けます。

セオリツヒメの名が現在のように知られるようになったのは、セオリツヒメの研究の第一人者である故風琳堂氏の著書「エミシの国の女神」が発行(初版2000年10月)されてからのことです。スピリチュアル系の研究にセオリツヒメが利用されるようになったのは、あくまで風琳堂氏のご研究以降であることに注意が必要です。

【Link:風琳堂 エミシの国の女神】



セオリツヒメは祓戸四柱の神の筆頭にして、各地でその存在が隠されていった神だと見られています。各神社の祓戸社にセオリツヒメが祭祀されていることは多くそれは祭神名が分かりやすいケースであるものの、セオリツヒメが祓戸四柱の神に入れられていること自体が「隠された」ことの1つの表れと見ることもできます。

なお、セオリツヒメを祭祀する神社の中には大きな神社の祓戸社が独立したケースが見られますが、当社近辺に大きな神社はなく、それが当社に当てはまるとは考えられません。

そして古代のある時期、セオリツヒメを隠すためにシラヤマヒメ(白山姫)や不動明王などが祭祀されたとしても、祭祀の過程が明らかにならない限りそれはシラヤマヒメであり不動明王であり、現出している神名が即セオリツヒメにつながるわけではありません。

本稿筆者がネット上の友人を介して聞いた風琳堂氏の言葉は、「祭祀過程を無視した異名同神説はあり得ない」という意味のものでした。せめて状況証拠が明らかにならない限りは、当社に撞賢木厳之御魂天疎向津姫命の名があっても安直にセオリツヒメに結びつける態度は慎むべきかと思います。それをすればスピリチュアル系の研究者と同じことになるでしょうから。

上記のように当社は一般的には横内神社と呼ばれ、奈良県史では横内神社の祭神を「撞賢木厳之御魂」と「天疎向津姫命」の2神とします。桜井市史でも見出しは横内神社ながら・・・

*******引用始め*******
正式の社名は「撞賢木厳御魂天疎向津姫命神社(つきさかきいずのみたまあめさかるむかひつひめのみことじんじゃ)」といい、社名の男女二柱が祭神
*******引用終り*******

と、記述されます。奈良県史4神社は1987年発行、桜井市史は1979年発行であり、「エミシの国の女神」が発行される以前から「撞賢木厳御魂天疎向津姫命神社」が当社の正式な社名として知られていたことが分かります。

両史とも、「撞賢木厳之御魂」と「天疎向津姫命」を別々の2神の神名と考えているところが大きな特徴です。当社を守る土地の人たちによる祭祀は、両史に記述されている通り「撞賢木厳之御魂」と「天疎向津姫命」という男女二柱の祭神へのものだったのでしょう。となると、当社の祭祀にセオリツヒメが隠されているかは全く分かりません。



現状で両史以外に、図書館で手に入る資料や古典籍のデータベースに当社の記述は見つけられませんでした。あとは土地の人に話を聞きに行くべきかとも思いますが、上記案内板の内容からも推測できるように、口碑伝承の類はその時々の知識によって変形する可能性もあります。本稿をお読みになられた方がもし当社についての情報をお持ちならば、本稿筆者へとご一報くだされば嬉しく思います。ご推察通り、本稿筆者もセオリツヒメという神格に大変興味を持っています。

余談です。横大路に近接するとした当社社地は、正確ではないものの藤原宮跡と三輪山とのほぼ中間に位置し、そこは大藤原京の京域内となります。藤原京の時代に当社がもし存在したとすれば、かの持統天皇が藤原宮太極殿から三輪山を臨んだ時、同方向に当社を見たかもしれません。ですが、上記のように当社の創建の時期も由緒も不詳であり古代にさかのぼる神社とも思えないので、ここでは想像を楽しむのみにしておきます。





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