VS平家


本稿は、NHK大河ドラマ「平清盛」放映時、ブログにアップしたものを加筆修正したものです。文脈などはやや変えていますが、大意は変更ありません。

元々、私的に気になっていたことがあるので、そのため覚え書きとして書き出していたのが下記の、平清盛と同時代の各勢力の主要人物の生没年です。

■平家
 平忠盛1096-1153
 平清盛1118-1181
 平重盛1138-1179
 平宗盛1147-1185
■源氏
 源義朝1123-1160
 源頼朝1147-1199
 源頼家1182-1204
 源義経1159-1189
■北条氏
 北条時政1138-1215
 北条義時1163-1224
■奥州藤原氏
 藤原清衡1056-1128
 藤原基衡1105-1157
 藤原秀衡1122-1187
 藤原泰衡1165-1189



「平家にあらずんば人にあらず」とおごるまでの権勢を誇った平家も、源頼朝による平家追討の挙兵をきっかけに滅亡への道をたどりました。

この時、歴史に登場した中の主要人物各人は、どのような年齢で絡み合ったかを読み取ってみました。源頼朝挙兵の1180年を参考にすると、各人は次のような年齢になります。

■平家
 平清盛63歳
 平重盛(死去)
 平宗盛34歳(清盛の後継)
■源氏
 源頼朝34歳
 源頼家3歳(頼朝の後継)
 源義経22歳
■北条氏
 北条時政43歳
 北条義時18歳(時政の後継)
■奥州藤原氏
 藤原秀衡59歳
 藤原泰衡16歳

そして気になっていたことというのは、鎌倉幕府執権北条氏についてです。ここでは後北条氏(小田原北条氏)には触れません。

※奥州藤原氏にも直接触れませんが、平清盛が実権を持っていた時期、藤原秀衡は鎮守府将軍に任じられ、藤原秀衡没後も奥羽17万騎という勢力を擁し、源頼朝が鎌倉に幕府を開く前にどうしても滅ぼそうともくろんだ相手が奥州藤原氏であるなど、源平との関わりにおいて私的に大変興味を持つ氏族です。


ここで平家および平氏について考えてみます。平清盛は桓武平氏のいくつもの流派のうちで、高望王(たかもちのおう)流桓武平氏の主流であることは良く知られています。下記の系図をご参照下さい。

今回は触れませんが、高棟王(たかむねのおう)流桓武平氏にも「平家」(へいけ:たいらけ)があるものの大きく目立つわけではありません。また桓武平氏に限らず、平氏に出自を持つ多くの氏族が「平」以外の名乗りをしていることなどから、諸資料や研究書にいう平清盛と同時代の「平家」とは、多くの場合平清盛の系統の流派を指すと見ておくと分かりやすいでしょう。別な表現を使うなら「平家は平氏一族に含まれる」ということになります。本稿でもその見方に従います。

一方、北条氏も高望王流桓武平氏の一族とされています。平清盛の6代前に平貞盛があり、後述しますが平貞盛の子の代に平家と北条氏への分岐があります。つまり後世の私たちから見ると、平家と北条氏は共に桓武平氏であり、平氏一族のうちでもそう遠くない氏族と見られるわけです。

鎌倉時代後期に書かれた「吾妻鏡」の中に北条時政のことを「平時政」、北条義時のことを「平義時」、北条政子のことを「平政子」とする記述があります。吾妻鏡の成立は1300年頃とされており、その時点で北条氏が平氏と認知されていたことが分かります。次のリンク、【国文学研究資料館電子資料館古典選集本文データベース吾妻鏡】からご参照になることができます。

●北条時政⇒平時政
       Link1 右ページ
       Link2 右ページ
       Link3 右ページ

●北条義時⇒平義時
       Link1 左ページ

●北条政子⇒平政子
       Link1 右ページ
       Link2 左ページ
       Link3 左ページ
       Link4 左ページ



吾妻鏡から少しさかのぼります。鎌倉幕府は源氏将軍が3代で途絶え皇族将軍や藤原将軍が立つことになりますが、将軍を補佐する形で北条氏が執権職を世襲し幕府の実権を握ってきました。この北条氏が、平氏の一族と考えられてきたわけです。

さらにさかのぼり、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の没後、1202年(建仁2年)に子の源頼家が21歳で2代将軍、次いで翌1203年(建仁3年)に頼家の弟源実朝(12歳)が3代将軍となります。執権職は同1203年に66歳でそれに就任した北条時政がその初代であり、源実朝を傀儡とします。

源頼朝の平家追討の挙兵は1180年。この時の北条時政は43歳、そして「寿永の乱」の最終局面、壇の浦の合戦にて平家が滅ぶ1185年には48歳となります。後に平氏と認知された北条時政や北条氏は、源頼朝の挙兵から平家滅亡までの5年、それに続く鎌倉幕府成立の時期に平氏の一族として活動していたのでしょうか?

もしそうであったなら、平清盛系の桓武平氏主流派である「平家」を倒すために、桓武平氏庶派の北条氏が源頼朝に力を借したと、構図的にこのような解釈になります。それで良いのでしょうか?

「源平合戦」、この言葉から来るイメージで、鎌倉幕府成立前の騒乱「治承・寿永の乱」は源氏一門と平氏一門の対立を私的に思い浮かべており、今までは、なぜ源氏に平氏が手を貸すのか? 平氏一門の内部でも対立があったのか? との疑問を持っていました。これが北条氏について気になっていたことの正体です。

古代史的に見れば、蘇我蝦夷・入鹿の蘇我氏本宗家を倒すために蘇我倉家(蘇我倉山田石川麻呂)の働きがあったという、そのことに似た構図が鎌倉幕府成立前後の平氏の中にも存在したのでしょうか?

結果、この疑問に関しては、自分の視点を改めなければいけないことが分かりました。このことを見るため、源頼朝挙兵時の北条氏以外の坂東武士と呼ばれる勢力の一部の動向に注目します。「坂東」は主に現在の関東地方の事をいいます。

大庭氏は・・
もと平清盛側についていていましたが、源頼朝挙兵時、平清盛派と源頼朝派に分裂しました。

上総氏・千葉氏・畠山氏・三浦氏・和田氏・土肥氏は・・
源頼朝挙兵に早い段階で参加。

梶原氏は・・
後に源頼朝側につきました。

上記に名をあげた諸氏族はすべてが坂東八平氏と呼ばれる平氏一族で、高望王流桓武平氏に含まれます。源頼朝をかつぎ上げ平家を滅ぼそうとした勢力に、かなりの数の桓武平氏が合流したわけです。逆に、平清盛側についていた源氏もそれなりに存在した様子です。

坂東八平氏は大きく八派に分かれるためこう呼ばれますが、その八派も時代や研究者によって異同があります。坂東八平氏を構成する主な氏族を上げます。

秩父氏(畠山氏を派生)
上総氏
千葉氏
中村氏(土肥氏を派生)
三浦氏(和田氏を派生)
鎌倉氏(梶原氏・大庭氏・長尾氏を派生)



坂東八平氏はさらに坂東平氏に含まれます。坂東平氏とは関東地方に土着し武士となっていた高望王流桓武平氏一族の呼称です。

坂東平氏のほか、源氏その他様々な勢力を含んで坂東武士が構成されていました。高望王流桓武平氏のうち、坂東八平氏や坂東平氏へ分岐し、平清盛や北条時政に至る簡単な系譜は下記のようになります。こうしてみると坂東平氏には、坂東八平氏や常陸平氏・伊勢平氏・北条氏などが含まれることが分かります。そして、いずれも高望王流桓武平氏に含まれることになります。

坂東へ下向し土着した平国香、その子平貞盛、その子平維衡から伊勢平氏へと分かれていった5代後が、太政大臣にまで上り詰めた平清盛です。また平維衡の兄平維将、その子平直方(なおかたではなくなおつね)から5代後が北条時政となります。平維将と平維衡は共に平貞盛の子であり、「平家と北条氏は桓武平氏のうちでもそう遠くない氏族」と上記で見た理由が系譜から読み取れます。
●桓武平氏系図●
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今までの自分の視点というのは、「源平合戦」・「源氏が平家を亡ぼして鎌倉幕府を起こした」などのイメージから、鎌倉幕府成立前の騒乱「治承・寿永の乱」は源氏と平氏に二分した争いだったと思っていたのですが、それはまったく違うものでした。繰り返しますが、私的にこの視点を改めなければいけないと思いました。源氏一門と平氏一門の対立というわけではなかったのです。

平清盛の平家は平氏一族のうちでも突出した存在で、それは勢力もさることながら、天皇家の外戚となるなど公家化する指向を持っていたのでしょう。西日本に基盤を持つ平家がこの時代に権力を持とうとする場合、朝廷内部で力を伸ばす以外の選択肢は無かったとも考えられます。それには平家が公家化する必要があり、天皇に出自を持つ平氏の血筋からしても間違った選択ではなかったかもしれません。

視点を変えれば、奥州藤原氏が大きな力を持つに至ったことも、源頼朝がその挙兵で坂東武士を統合し得たのも、朝廷(京都)からの物理的な距離に大きな要因があったとも考えられます。

公家指向を持ってその権勢を誇る平家は、武士であろうとする平氏一族(平家以外)の、特に関東に基盤を持つ者からは反感を買っていたのでしょう。そして源頼朝をかつぎ上げる勢力に、多数の桓武平氏庶派が力を貸してもおかしくない状況だったのでしょう。源氏にも平氏にも武家という共通意識があったものの、平家が平氏一族からも疎まれてしまった理由に公家指向があったのかもしれません。源氏VS平家ではなく、武士VS軍事貴族という構図で見る方がより正確だったのでしょう。皮肉なことに、平清盛の後継平宗盛を討った者の中に桓武平氏の者の名も見られます。



上記のように、吾妻鏡の記述からは北条氏が平氏と認知されていたことが分かります。が、吾妻鏡の成立は頼朝挙兵から100年以上経ってからということもあり、北条氏は本来伊豆の在地豪族であって平氏の出自ではなく、後に平氏を称するようになったとの見方も根強いものがあります。北条氏の系譜は、北条時政に至る部分でかなり異同のある複数が伝わり、研究者の間でその信憑性は疑問視されています。

一方で、奥富敬之氏は著書「鎌倉北条氏の興亡」で次のように考えておられます。

異同のある複数の系譜を分析するとそれなりの特徴が見られるそうです。平維将の子平直方、その子の代に阿多美禅師聖範(きよのり)という熱海地方に関連する名が現れ、その子と思われる時方以降に「伊豆介」「北条四郎」などの地名関連の肩書を持つ者が現れるとのことで、その頃から平直方流としての北条氏が始まったのではないかという説です。この説を採るなら北条氏は坂東平氏に含まれることになります。上記にアップした系譜の北条氏の部分は、奥富敬之氏ご推定のものを参照(同書P13)させていただきました。

平直方には東国への派兵が伝えられており(平忠常の乱:1028年〜1031年 軍事的に平直方の功績は無し)、成果を挙げられなかったとしても、平直方やその子・孫などが東国入りして土着したという可能性を考えることは平氏とのつながりにおいて興味深く思います。ただし、いずれにせよ源頼朝挙兵時の北条氏は大豪族というわけではなく、さらに北条時政は北条氏のうちでも主流派ではありませんでした。

まとめます。「治承・寿永の乱」つまり「源平合戦」は、源氏と平氏に二分した争いではありませんでした。強いていうなら対立する勢力のトップのみが源氏と平家だったことになります。そして、源頼朝に手を貸し鎌倉幕府成立を推進した北条時政が桓武平氏を称していようがいまいが、流れそのものに影響を及ぼすことはなかったのではないかと考えます。北条氏以外で、後に平氏を称したと考えられている平氏系の諸流豪族も多々ありますが、それについても、平氏を称していようがいまいが流れへの影響という意味では同様に考えられるでしょう。

ただ1つ驚くべきは、源頼朝をバックアップした北条時政の先見の明というところでしょうか。



鎌倉幕府の執権職を世襲した北条氏が、「北条にあらずんば人にあらず」と考えたかどうかは分かりませんが、平家を反面教師にした可能性はあったかもしれません。「おごらぬ北条は久し」かったかどうかは歴史家が判断することでしょうが、北条氏の立ち回りの上手さや、平家を取り巻く平氏全体の動きも面白いと思いました。

この北条氏に注目しつつ、「源平合戦」という言葉に惑わされないようこの時代を見ていこうと考えています。





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