++ 思い出・いじめその後 ++

 先にも語った、小学校3、4年。それから5年になってクラス替え。新しく担任になった先生は前の2年間とは全く違うタイプの先生だった。
きびしい、という評価は正しいのか、とにかく宿題が多かった。他のクラスは1、2つという日でも4、5つはざらに出るといった具合。文章を書くという宿題も多かった。
それまでのつらい日から解放された私は、とても楽しんだ。放課後、クラスの数人と勉強グループを作って図書室で勉強をしたこともあった。毎日テーマを決めて、それについて調べるというものだった。
切磋琢磨というのか、競争相手がいて、自分と同じレベルでものを考えたり不思議に思ったりする友達がいて、お互いに刺激し合い、成長しあえた時期だった。
それまで苦手だった百人一首の歌を百首全部覚えてやろうと思ったのもそのときだった。(おかげで冬の校内百人一首大会は大賞した)
感想文を書くのも好きだった。

それまでも、本を読むのは好きだった。でも読書ということで当時印象に残ったもの。
5年のそのクラスのH先生は、給食の時間に本を読んでくれた。
芥川竜之介の「杜子春」「蜘蛛の糸」「羅生門」。
もっと多くの本を読んでくれたのかもしれない。でもいまはっきりと覚えているのは、この3つ。

羅生門の冒頭と最後の「下人の行方は、誰もしらない・・・」は今でも忘れられない。
文章を文字として読むだけではなく、言葉として聞くことのおもしろさを知ったのは、おそらくこのときだと思う。
そして、それまで普通に「好き」だったのが「とにかく好き」ともっともっと文学の世界へ・・・と加速度をつけたのは、これがきっかけだったように思う。

それにしても、私はその年先生のお気に入りだったのだと思う。
研究授業の時に、長い発表をさせられたのも私だったし、夏休みに書いた感想文がいいと何かの大会に出してくれたのもそのときだった。児童会の役員に立候補するようにも言われたし、勉強会をしてみたら?と言われたのもそうだった。この学校は1学年が8クラスもあるマンモス校で、校区を分けるとのことで6年から新しい学校に分割されたとき、出て行く生徒代表で作文を全校生徒の前で読んだのも私だった。
当然、友達とは泣いて別れを惜しんだし、先生ともそうだと思ってた。
でも、新学期が始まって6年を新しい学校で迎えたとき、H先生はその新設校にいたのだった。
しかも隣のクラスの担任として。

自他ともに認めるお気に入りだと思っていた私は、H先生のクラスになれなかったことが残念で、くやしくて、同じクラスになった新しい友達とトラブルを起こしてしまう。彼女を中傷する手紙を書いてしまったのだ。
結局、それはすぐにおさまったのだけど、それを相談する手紙に返事をもらえたことは唯一のうれしかったことで、長い間その手紙は取っておいてあった。

クラスが変わって、H先生は自分のクラスでちゃんとお気に入りを見つけたようだった。
彼女と先生が話しているのを横目で見ていて、「私もこの前までそうやったのに・・・」と悲しい気分になったりもした。でも周りは、私たちをこんな風に見ててんなとも始めて気づいた。
自分がその輪にいるときは、輪の周りは見えない。そして自分がどんな風に見えるのかもわからない。

しばらくすると、私とH先生は、ただ「以前担任だった先生と生徒」の関係になった。
あの頃は裏切られた気分でとにかくつらかったけど、つまりそれがH先生のやり方やってんなあと思う。
それがいいのか悪いのかは評価できる立場にはない。少なくとも私はH先生にひいきされていたのやし、その後、自分がひいきされていたという事にも気づいたし、だから周りの他の人も気持ちにも気づく事ができた。
「私を含めたお気に入りの何人かがH先生にひいきされていた」ことについて、どこかで傷ついている誰かがいただろう。私にとっては、結局のところプラスになったことの方が多かったけれど、それはたまたまそうなっただけ。教師というのはやっぱり難しい。「好き」・「嫌い」はやっぱり出来ることなら気づかせてはいけないし、もちろんそれを基準に行動してはいけない。

シュタイナー教育によると、小学校5年生のこの時期はまだ「権威者を求める時期」。3、4年と「権威者」足りえない教師のもとにいた私にとって、うってつけの存在だったんやなと思う。
それでも、やっぱり、私にとってどちらをも経験したことはよかったのだと思う。
「図書室の江戸川乱歩の本を全部読もう」なんて考え、それから読書への今までとは違う興味を持ったのはこのときがきっかけやったし、百人一首は今でもわりと覚えてるほうやと思ってるから。