トーベ・ヤンソン


  

トーベ・ヤンソンのムーミンシリーズは、私にとって本当に大きな存在の作品たち。
絵が大好き。それぞれの話も登場人物(人物か^^;)も、みんなが個性にあふれ、ひとつの世界を作っています。

このページを読む人ならおそらく知っているだろうけれど、まずムーミンとは一体なんなのか。
解説にも書かれているように、ムーミンは、「なんだかよくわからないけどいる生きもの」。
妖精だとかトロールとかいろいろと意見や解釈があるけれど、私は「ムーミントロールという生きもの」とだけ受け止めています。

ムーミン族という種族で、アニメでは「ノンノン」「フローレン」といわれているスノークはスノーク族という種族です。産毛が生えていたり、感情によって身体の色が変わったりする、ムーミンとは似ているけど、違う種族になります。
書いているうちにすこしずつ設定が変わってきたり解釈が変わってきたりしたのかもしれないと思う部分もいくつか。
ムーミンパパとママの人生や誰が誰の子どもで、とか、どうやって知り合って、とか、つじつまが合わないと思わなくはないけれど、それも含めて、ムーミントロール、と思っています。

初めてムーミンを知ったのは、やはりアニメ「ムーミン」。
岸田今日子さんがムーミンの声を担当していて、本当に単なるアニメの1種類、としてしか記憶していなかったのに、小学校高学年か中学生になって、図書館で講談社からムーミン童話シリーズとして本が出ているのを知り、読んでみてとりこになってしまいました。


【持っているムーミン関係の本】

小さなトロールと大きな洪水
ムーミン谷の彗星
楽しいムーミン一家
ムーミンパパの思い出
ムーミン谷の夏祭り
ムーミン谷の冬
ムーミン谷の仲間たち
ムーミンパパと海
ムーミン谷の11月
ムーミンコミック:


『  小さなトロールと大きな洪水  』

ムーミン童話の原点と言える作品。執筆された時代(第二次世界大戦)を反映していると言われ、暗く寂しいにおいのする作品。

いなくなってしまったパパを探すたびにでたママとムーミン。途中、(後のスニフであるはずの)泣き虫に出会い、旅をともにします。
それから怖い池では花の中に住む青い髪のチューリッパに助けられ、夜の闇を逃れてお菓子の国にも入ります。
洪水がやってきて、ママとムーミントロールは絶望的な気分になりますが、大きなコウノトリの力を借りて流れてきたビンに入っていたパパの手紙とともにパパを見つけます。
後の作品にも出てくるキャラクター、ニョロニョロ、スニフ、そして、ついに見つけた安心して冬を迎えられる温かい場所、そこに流れ着いていたパパの家。

これが、ムーミン谷と呼ばれる場所になっていくのです。

この作品の後に、だんだんとムーミントロールシリーズという物語ができていきますが、既に「悩み、行動しようとし、もがくパパ」と「全面的に支えながらも、(じっと待ち続けたり追いかけて探したりして)パパを導いていく(形になる)ママ」、そして、「成長しようとしている息子、ムーミントロール」という、大きな図式が出来上がっているように思います。
なおこの作品でも、ママのせりふの爽快さにはやられてしまう。
お菓子の国からお菓子をたくさんもらって、元の地上に戻ってからのこと。チョコレートを食べるムーミンとスニフ。
”「こういうこともあろうかと、とっておいたものがあるの。おたべなさい。」〜途中略〜
ママはチョコレートを二つにわり、ムーミントロールとスニフに渡しました。
「ママは何もたべないの?」
ムーミントロールがききます。
「わたしはチョコレートがきらいなのよ」”

子供のころや学生のころ読んでも、この言葉の意味はわかっただろうと思うけれど、今だからこそ私にはさらりと流してしまうことができない思いがある。
そこまで意図して書いてはいないのかもしれないけれど、第二次世界大戦下での、食料難や暗い時代がそういわせたのかしら、と思います。

 キャラクターについて、アリジゴク、相変わらず(後の作品でも)自己チューでそのくせ構ってもらいたがり、目立ちたがりのスニフ、そして相変わらず放浪者、さすらいのニョロニョロ(この作品では後に出てくるよりも悪役で(パパをだましてつれていったとママが思っていたり)。と、その後確固たる位置を築くことになるそれぞれの性格が、形作られている経過なのだろうなと思わせます。

 それから、この作品にイラストとして描かれたムーミンは、次の作品「ムーミン谷の彗星」や以降のムーミンとして描かれているムーミンよりも、もっと印象が暗い。鼻が長くて、鼻の下に口が見えていて、丸みも少なく、いわゆるかわいらしいムーミンには少々(いや割と)遠い。まあ、これも描かれるうちに、よりイメージが確固としてきたんだろうと思われる部分。

『  ムーミン谷の彗星  』



『  ムーミンパパ海へ行く  』

ヨーロッパにおけるお父さんというものに捧げると冠された作品。

ムーミン谷に暮らすムーミン一家。夏のべっとりとした暑さからくるイライラや閉塞感から逃れ、自らを見つけなおすために、ムーミンパパは一家を島に移すことを決め、旅立ちます。
いつもと違う日常を求めて、新生活に入るけれど、どうも思っていたことは、思い通りに進まない。

航海の末やってきた島に灯台はきちんと立っていた。灯台守はいなかったけれど。
試練を乗り越え、灯台を引き継いだパパだが、灯台の明かりは点けることができない。
無愛想な漁師はムーミンたちと交流することなく、一人サカナを釣るばかり。
嵐の中仕掛けた網には、どっさりの海藻がついていただけ。

パパが家族のために、必死にやろうとしていることは、何もかもが空回りになり、そんな自分自身に次第に自信をなくし、一人だけの世界(海を見つめ、理解しようとする)に没頭してしまいます。

失意のパパをいつも温かくやさしく見守ってきたママも、「パパのためにこれで本当によかったのか」と思い悩みながらも、懐かしい大好きなムーミン谷を思い出します。
海藻を積み上げて花壇を作ろうとし、薪割りにはまってしまい、壁中にムーミン谷の絵を描き始めついには絵の中に入ってしまったり。必死で自分の居場所(以前はムーミン谷がそれだった)を作ろうとします。

1時間座っているとその冷たさのために大地が死んでしまうモランは、カンテラの灯りを求めて、島までやってきてしまいます。
きらきらと輝くかなぐつを付け、美しいけれど移り気でわがままなうみうまに惹かれ、
なのになぜかモランと向き合う羽目になってしまったムーミントロールは、いつの間にか、モランを怖いと感じなくなっていく。
相手の存在そのもの自身(ムーミンにとってモランは怖い存在、モランにとってムーミンは光を与えてくれる存在)を、そういうものとして認めいつか受け入れることができるようになる。心の成長が描かれています。

そして決して自分を失わず常に自信にあふれている養女のミイは、そんな家族や周りのもの達を客観的に見つめている。
物語の最後、ついに灯台守が灯台に戻ってきて、ムーミン達は、ムーミン谷に戻らなくてはならないことを知る。
この、戻らなくては、というのは、決して強いられて戻らなくては、義務としてではなく、自分達の居場所はどこで、自分達はどうあるのが一番良いのか、に自らが気づいた、そして、その場所に帰っていく、ということなんだと思う。

訳者の小野寺百合子さんも書いているように、一度でおもしろさや良さがわかる物語ではないなと思います。
現に私自身、子どもの頃(小学校高学年か中学生)読んだときには、それほど心に響く作品ではなかったのです。何だか暗い、じめっとした話だなあと。
年を重ね、何度も何度も読むうちに、よさがじわりじわりと染みていった。今では、ムーミンシリーズ最高の傑作だと思っています。

中でもこの作品ほど、登場人物の会話が深く意味のある作品はないと思います。
いくつか例を挙げてみると、

”「あの男はすこしへんだな。そうじゃないか」とムーミンパパは自身なさそうにいいました。
「とてもへんよ、そういわれれば。くるくるぱあよ」とちびのミイがいいました。
ムーミンママはためいきをついて、足を伸ばしながらいいました。
「だけど、わたしたちの知っている人ってたいていあんなものよ。多かれ少なかれ」”

”「母親というものはすきなときに外に行ってねるというわけにいかないのがざんねんね。ほんとは母親こそがそういうことができるといいのにさ」”

”こんなことを思いながらムーミンママは無意識のうちにいつものとおりムスコに対する愛情こめたあいさつとして手をふったのでした。ところでムーミントロールは自分の空き地で〜・途中略・〜ママのあいさつを感じていつもとおなじく耳を動かしてそれに答えたのでした。”

なんて、人生に深みを与えてくれる言葉ばかりなんだ〜。

一番は、ここ。
”「なにもママにあげるものがなくてごめんね」とムーミントロールがいうとママが言いました。「あしたという日があるじゃないの。」”

マザコン息子(三人^^;)を育てている私は、ムーミンママのような女性にはならないし、なれないけれど、成長していく子ども達を見つめることとか、母親として、そして私自身としてのもどかしさを抱えながら生きていくこととか、多くのことを(知らず知らずのうちに)考えさせられる作品です。


『  たのしいムーミン一家   』




『  ムーミン谷の夏まつり   』
『  ムーミンパパの思い出   』
『  ムーミン谷の仲間たち   』
『  ムーミン谷の冬   』
『  ムーミン谷の十一月   』