ロイド・アリグザンダー

『木の中の魔法使い』を子供の頃に読んだことがある、ロイド・アルグザンダー。同じくプリデイン物語のシリーズは、やはり中学生の頃に、図書館の本棚から手に取りとりこになった物語です。
中世ウェールズ地方の古い神話(マビノギオン、マビノギ、マピノーギオン等、発音がいろいろあるのですが)を基にしたといわれており、魔法使い、吟遊詩人、死の王、伝説の剣、と神話上の人々が多く出てきます。
初めて読んだ中学生くらいの頃は、そういうところもまたはまっていった要因の一つではあるんだけど(^^;)
一時期、一番好きな物語は?と聞かれると、『プリデイン物語』と言っていたくらい、気に入っていました。
何がそんなに私を惹きつけたのか。成長物語、魅力的な登場人物、神話、そして、ハッピーエンディング、それだけではない、未だに答えは見つかりません。ひとつの話の中でも、主人公のタランがだんだんと成長していく様子がわかります。それに、愛情や友情、死、誇り、恥、人間の心の美しさや醜さが描かれているのが、人間らしく、ただのファンタジーではおわらない良さがあるのかもしれません。何ヶ月かに一度は全部読み返すほど今でも好きな物語の一つです。




『  タランと角の王  』

プリデインの預言者ダルベンの庇護のもと、カー・ダルベンに住む少年タランは、退屈な毎日にほとほと嫌気がさしていました。英雄ギディオンに憧れ、「チャンスがあれば、僕だって」と思っているのに、任命された役目は予言をする豚ヘン・ウェンの飼育補佐。落ち込んでいるところに、ヘン・ウェンがカー・ダルベンから逃げ出してしまい、それを追って森に入ります。ここから始まるタランの長い冒険。英雄ギディオンはみすぼらしい格好をしているし、毛むくじゃらの汚いやつガーギは付いてくる。不死身と戦って捕らえられた渦巻城の女王アクレンから逃れたものの、ギディオンを助けるつもりが城の中で出会い、牢から出るのを手伝ってもらった女の子エイロヌイに正しい情報を教えなかったために、見知らぬ吟遊詩人フルダー・フラムと旅をともにすることになってしまう。
自分だって、と思っていたことが次々に失敗に終わり、落ち込むタランは、それでも角の王の軍勢が集まりつつあることとギディオンの死を伝えようとカー・ダスルに向かいます。途中で、動物と心を通わすメドウィン、妖精族の王エイディレグ、妖精族ドーリらと出会い、妖精族に保護されていたヘン・ウェンを取り戻し、旅は終わりに近づきます。
そして、カー・ダスルの手前で、ついに角の王との対決を果たすとき。エイロヌイが渦巻城の奥深くから取り出した伝説の剣ディルンウィンを使って角の王を討ち果たしたのは、タランが死んでしまったと思っていたギディオンでした。

シリーズの中の、第一巻に当たるこの物語の中では、「無知の知」が描かれていると思います。
つまり、自分ができると思っていることができないこと、さまざまな人と出会い、自分自身を知るという話です。

物語の冒頭、今の仕事に飽き飽きしていたタランが「自分だって機会があればいつでも名を上げられる」そう思っていたのに比べて、物語の最後、戦いについてダルベンと話したときには、「自分は何もできなかった、ディルンウィンを見つけたのはエイロヌイ、ヘン・ウェンを妖精族の城から見つけ出したのはガーギ、角の王を倒したのもギディオンだ」と自分自身を客観的に見つめ直します。そして「そのみんなを率いて最後までつれてきた、やり遂げたのはお前自身なのだ」との評価を得ます。
大切なことは、着飾った衣装や冠、見た目の美しさばかりではなく、自分を知り、できることをやり遂げるなのだ。そして、物事は最後までどうなるかわからない。簡単なようで、やり遂げることの本質を描いた、ぜひ子供に読んでほしい物語です。

それからついでに(ではないんだけど^^;)。
この物語の評価としては、登場人物の多彩さが多く挙げられています。
豚飼育補佐タラン、379歳の預言者ダルベン、今は農夫となったコル、ドンの王子ギディオン、
一国の王でありながら吟遊詩人に憧れ、国を飛び出したフルダー・フラム、いつも話を少し(劇的効果を出すために、つい)誇張してしまい、吟遊詩人の長タリエシンからもらった真実を話さなければ弦が切れてしまうという竪琴を大事にしている。リール王家の血を引くエイロヌイはおてんば、おしゃべりの魔女、姿を消すことができないためにいつも割に合わない仕事をさせられている妖精族のドーリ(姿を消すには顔を真っ赤にして息を止めるんだとか)。
妖精王エイディレグは、気難しやの見得っぱりですが、エイロヌイから頭にキスをされて真っ赤になってにこにことしてしまう。深刻な話の中で、ついクスリとさせられてしまう、魅力ある人物が全編を通して登場しています。
続く物語でもそうですが、そんな魅力的で笑いを誘う登場人物が、正義を賭けた戦いを前に集うとみな勇敢で勇ましい優れた戦士となります。そんな描き方も私が参ってしまうひとつ。
(2007年1月)



『  タランと黒い魔法の釜  』  

角の王との戦いを追え、平和が訪れていたカー・ダルベンに再び慌しい争いの種がやってきます。
アヌーブンの領主、死の王アローンが持っているという、死者を不死身の戦士に変えてしまう魔法の釜を奪い取り、これ以上不死身の戦士を増やさせないという計画が持ち上がったのです。それまでは死者を暴いて不死身を作り出していたのが、今では生きた男を殺して連れて帰り、釜に放り込んでいるという。そのためにカー・ダルベンでは、戦いの会議が行われ、タランは、タリエシンの息子アダオンと北の国のペン・ラルカウ王の子、エリディルと行をともにすることとなります。
魔法の釜がモルヴァの沼地の三人の魔女(オルウェン、オルデュ、オルゴク)の元にあることを知り、それを奪いに行くタラン達。タランはアダオンから多くのことを学びますが、戦いの中アダオンは戦死、遺言のえりかざりをタランに託します。このえりかざりを手にしていた間だけタランは多くの事を知ることできたのです。三人の魔女は全てを知っているうえに、397歳の預言者ダルベンを「ちっちゃなダルベン坊や」と呼び、計り知れない魔法の力を持ち、全てをひきがえるに替えてしまうとタラン達を遠ざけます。魔法の釜、黒いクロッハンはかつてアローンと三人の魔女が取引をして、アローンが使っていたものだとか。期限が来ても返そうとしないアローンに業を煮やし、三人がアヌーブンから取り返してきたのだといいます。タランは正当な取引をして、クロッハンを手に入れます。死者を入れると不死身の戦士を作ることができる不吉なクロッハン、壊すには、生きた人間が生きながらにして中に入るしかない。そして入った人間は生きて出られない。

タラン達の帰還の途中、出会ったエリディルは尊大な態度を隠そうともせず、手柄を横取りしようとします。しかしタランは何よりも大事なこと、クロッハンを悪の手に渡さず、無事ダルベンの元に運ぶことが一番だとその要求を飲むのです。

前作から大きく成長したタラン、この第二作では「死と誇り」が描かれていると思っています。目的を達成するためになさねばならないこと、誇りとはどういうものか、タランは出会った人の死の中でそれを知ります。
アダオンの魔法のえりかざりが教えてくれるのは、ほんの小さなきっかけや方法にすぎない。それを本当の知恵にするには、自分自身がその小さな情報を自分のものとして理解しなければならない。それは今私たちが生きていく上でも、必要な生きる知恵なのだと思います。
(2007年1月)


『  タランとリールの城  』



『  旅人タラン  』
前作『タランとリールの城』で、王女エイロヌイへの愛情に気づいたタラン。王女へ結婚を申し込むには、それにふさわしい生まれ、高貴な血筋が必要だと思い込んでいるタランは、自らの出自を確かめるために旅に出ます。
プリデインという国は小さな小国(カントレブ)がたくさん集まり、形成されていますが、それらの小国には属さず、自らの意思で自らを治めている人々、コモットと呼ばれる人々がいます。彼らはさまざまな技術を持ち、それを誇りに生きています。タランはコモットを旅しながら、自分のルーツを探そうとしたのです。
旅の始まりで、カー・カダルンを訪れ、素晴らしい知恵を示したタランに、カディフィル・カントレブの領主、カー・カダルンの長、スモイト王はわが息子に、と提案してくれますが、与えられるのではなく自ら見つけ出そうとしているタランはそれを断ります。

やがてタランは自分の父親だと名乗る男クラドックと出会い、共に暮らすことを決心します。倒れかけた家を建て直し、羊の世話をし、クラドックを支え続けます。ですが、父親がクラドックだとわかったということは、タランの生まれが高貴の血筋ではなかった、エイロヌイとの将来はもうないのだという絶望をも、認めることになるのでした。探し求めていたはずの肉親との暮らし、そしてクラドックの死と明らかにされた真実に、タランはカー・ダルベンへの帰郷ではなく、さすらい人として新たな出会いを求めることをを決めるのです。

コモット・セナースでは、鍛冶屋のヘフィズに弟子入りをし、剣を1本仕上げることを学びます。コモット・グウェニスでは、羊毛を集め、糸を紡ぎ、機を織ることを機織のドイバックに習います。そして、コモット・メリンでは、陶工アンローに、陶器を作ることを習います。自分自身の手で、何かを作り上げること、剣を作ることも機を織ることも、陶器を作ることも、全て一から行う必要があることを学ぶのです。
それぞれタランの師たちは素晴らしい技術を持っていて、素晴らしいものを作り出します。ですが、彼らはみんな自分が自分であると言うことを自覚しているのです。

この作品でタランはさすらい人タランとして生きています。さまざまな、今まで出会うことのなかった人々との出会いのなかで自分は何になれるのか、そもそも自分は一体何者なのかという疑問と向き合います。その疑問の裏には、王女へのあこがれと愛が深く根付いている。ロマンチックでちょっと泣ける話です。

漠然と「しんみりとロマンチックで切ない話だなあ」と思っていたこの作品。実は奥に深いものが流れていると思います。鍛冶場でタランは剣を鍛えますが、剣を鍛えるためには、まずその材料を手に入れるところから始まらなければなりません。
機を織るのもそう。羊毛を集め、糸を梳き、糸を紡いで始めて、材料になります。途中まで出来上がったものを使っても、それは自分のものではない。何事も作り上げるには、1から始めて終わるまで、が大事なのだと教えられるのです。
自分の気に入る色に染めるのも自分で決めなければなりません。機を織るには巨大な機に糸を通し、自分で絵柄を決めるのです。やり始めて気に入らなければ、やり直さなければならない。気に入らないものを最後まで作るのか、最初からやり直すのか、決めるのも自分なのです。
コモット・メリンで陶器を作るときは、作りあげることの楽しさを知るのですが、日常品を作り続けることと、芸術品を作り続けること、芸術として作り上げるには熱意だけではなくて才能が必要だという現実を知ります。それは、陶器を作ることに生きがいを見出そうとしていたタランにとってはつらい挫折でした。つまり、自分を知り、自分の可能性を知ること、それがこの作品の大きなテーマなのかなと思っています。

真実を教えてくれるというフルーネットの鏡。それはどんな魔法を見せてくれるのか。真実は得られるのか。
タランがたどり着いた真実はタラン自身が求め、得た答えでした。
(2007年1月)



『  タラン・新しき王者  』

エイロヌイへの愛を告げようとカー・ダルベンに帰郷したタラン。そこに飛び込んできたのは傷ついたフルダー・フラムとギディオン。死の狩人に襲われ、魔法の剣ディルンウィンを奪われてしまったと言うのです。
いよいよ最後の戦いに突入する死の国との争い。
ディルンウィンを探し、アヌーブンへ向かう途中、カー・カダルンで、マグと出会います。マグはギディオンやタランへの復讐に燃え、アローンと取引をしたとの事。マグを捕まえることは叶わず、モーナ王ルーンは命を失います。
ギディオンは燃える闘志を秘め、カー・ダスルへ向かうことを決意しました。カー・ダスルは、マソーヌイの息子マース大王の居城であるだけでなく、美しく貴重な追憶の宝庫でもあるプリデインのとりで。そこで、西方領土の王、プイリの息子プリダイリを待つ人々の前に現れたプリダイリは、ドン王家にではなく、死の王アローンへの忠誠を誓い、ついにカー・ダスルは落城します。
大王マースを失い、しかし絶好の好機に続く王ギディオンは、死の国アヌーブンへの最後の戦いを仕掛けます。タランは、『旅人タラン』で交流したコモット人達を率いて、武将として戦いに加わります。ドンの王家に忠誠を誓うコモット人達は、しかしドン王家のためにではなく、友人さすらい人タランのために、エイロヌイが作った豚の旗じるしの下に集まります。

戦いの中で、タランは多くの人を失います。豚の旗印のもと、一軍を率いて戦うタランは、子供の頃憧れていた本当の英雄とは、戦いの中で勝利を挙げることだけではなく、日常の生活を営むことなのだと考えます。
このタランは、第一巻でやぶの中に飛び込んだ、英雄を夢見る幼い少年ではありません。
思慮深く、行動する、大切な事と大切なものを知っています。

この第五巻は(もう何度も何度も読んだから全部展開を知っているんだけど)、多くの場面でほろりと泣かされます。
コモット・イサフから、村人を率いてやってきたフラサールの言葉。
””
メドウィンが、谷間に逃げてきたカアの話を聞き、動物たちに言葉を託した場面。
””

フルダー・フラムが、山の中で暖を取るために差し出した竪琴。モーナ王の最後の戦い。幼い少年の頃であったギセントとの再会。
日々の生活の営みの中に誇りがあり、芸術があるのだ、勝利があるのだという事を伝えているのだと思うのです。

ハッピーエンディングが好きな私なので、結末は本当によかった、と思います。爽やかで大切な事をいつも教えられると思います。そして成長物語も好きな私。みるみるうちに(第四巻くらいからが急激ですが)成長していくタランと共に冒険するのも、幸せです。本当に大事なこと、を知るのも。

一番最後、本当に残念な箇所がひとつだけ。
物語の本当に最後のページで、エイロヌイがタランに「どうするの?」と問いかける場面があります。
翻訳の訳し方?なのかもしれませんが、カー・ダルベンの戸口に立つタランに、エイロヌイは「あなたこの扉から出るの?はいるの?」と聞くのです。
これ、正確には、「この扉から外に出るの?入ったままでいるの?」という意味で聞いたんだろうな、と。英語にすると、
Are you out , or in?くらいのニュアンスで。
でもこれを日本語にすると「出るの?入るの?」になるんだろうか。語呂やリズムも考慮するとそうなるのかもしれないけど、「扉から出るの?入るの?」って、どこを基点にして言うと、出るか入るかになるんだろう。まさに扉の上に立っていたとしても、部屋から外に出るのか、ここに残るのか、というのが直感的につかみにくい。出ると仲間たちが待っている、入ったままだとそのままだって事なんですけど、ここだけはいつ読んでも、うーん惜しいなあと思います。
言葉のリズムとして意味合いは伝わるのですが、本当に最後の最後だけに、リズムだけにこだわらず、意味を大切にしてほしかったなあと思ってしまったりします。生意気でごめん(^^;)一度原文を読んでみます。

(2007年1月)