梨木香歩
『  西の魔女が死んだ  』

小さなきっかけをもとに学校に行けなくなってしまったまい。
クルマで2時間ほど離れたところに一人で住んでいるおばあちゃんの家にしばらくの間滞在します。
イギリス出身で、実は自分には魔女の血が流れていると話すおばあちゃんと、まいは魔女の修行を始めます。
といっても、まいの場合は、実際に魔法を使おうとするのではなく、毎日を、自分で考え、自分で行動し、自分で作り上げていく力をもつこと。
そのために、規則正しい生活を強いられることになるまいは、それでもその日常をいつしか心地よく受け入れていくようになります。

その日々の中でまいが出会う怒りや悲しみの感情。
中学1年生、という年齢ゆえに、受け入れられない汚れのようなものを拒絶して、新たなステップへ、まいの家族は踏み出します。

そしてやってきた、その日。
呆然と、悲しみを受け止めようとするまいにあふれんばかりの愛情を注ぐ、おばあちゃんの小さな魔法。

清々しく、そしてさわやかな風を感じることのできる作品です。

初めて読んだ時、もっと魔法使いモノ(例えば、ハリーポッターとか小さな魔女とか)を想像していた私は、正直「なんだ、違うじゃん」と思いながらページをめくっていた。
で、読み進むうちに、「なんなんだろう、この話」「なんでこんなにうらやましいんだろう」と思うようになっていった。
山で摘んできた野いちごを、庭で煮てジャムを作る。庭のハーブを煮詰めて植物のエキスに。ラベンダーの茂みの上にシーツを重ねて。
生活自身も私の憧れるものだっただけでなく、生きていくということ、悩み続けるということ、そして愛情を注ぐということ、どれもがこころの奥で欲していることなんじゃないか、そんなふうに思えて仕方がない。
学校の友達とのつながり、ゲンジさんとのつながり、ママとのつながり、パパとのつながり、そしておばあちゃんとのつながり。
人と人はいろんな形で繋がっているけれど、プラスにしろマイナスにしろ思いがなければ繋がりは断ち切れてしまう。
そのつながり続けようという意思、自分の心、(つながりを断ち切ろう、であっても、繋げていこう、であっても)自分で決めたことに対して責任を持つ心の強さ、思わず、私も魔女の修行をしなくちゃ、と思ってしまった。

”その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。〜途中略〜 シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか”

そうなんです。
そんな強さを持っていつつ、「いつもそういられるわけじゃない。そんなふうにいかないときだってあるもんさ」という、開放感もある。それが自分で決めた、という強さから現れています。


私が読んだのは、文庫なんだけど、単行本も出ているんだろうか。この最後の構成というか、ページをめくったときのおどろきには、やられてしまった。
いつだったか、梨木さんの講演?エッセイ?に、「これこれこういうことをしたいので、ページの構成をこのようにしたい」と出版側に要望したというのがありました。
うまい、というのか、本を読む楽しみというのは、こういう効果を感じられるところなのかも。
Webも、ゲームも、TVも、いろんなメディアがあって、いろんな表現ができるけれど、私がまだまだ本を読むことをやめようと思わないのは、こんな楽しみがまだまだあるから。



『  からくりからくさ  』

なくなった祖母の家で友人たちと下宿生活をはじめる蓉子。祖母からもらった大切な人形りかさんと、蓉子、与紀子、紀久、マーガレットの不思議な共同生活の中、愛憎、輪廻、運命、業、それらがからくさのように、ツタのように絡まり、繋がっていく。


祖母が死んで、50日。四十九日を終えて蓉子が祖母の家に来るところから物語は始まります。
りかさんを祖母のお浄土送りから迎え、祖母の家を再び生活の場(今度は蓉子たちの)とするために。でも、浄土送りをすると言って眠ってしまった(冬眠した?)りかさんは、まだ戻ってきていなかった。りかさんの不思議を、受け止めながらも戸惑う蓉子。
蓉子が共同生活の仲間として選んだのは、美大に学ぶ与紀子(よきこ)と紀久(きく)と鍼灸の勉強をしているアメリカ人のマーガレット。
りかさんを作ったとされる人形師澄月が実は幻の面打ち師赤光でもあった。そして彼の因縁は、与紀子と紀久へ繋がっていきます。少しづつ、明らかになっていく過去とのつながり。そしてそれらを知るうちに、変っていく4人の思い。
それから全体を通じて、蓉子、与紀子、紀久が作り上げた、作品(染色、図案、機織の共同作品?)とともに、赤光の幻の最後の作と言われた竜女の面は物語の最後に驚くべき結末を迎えます。


網戸のない家。蚊に弱い紀久を救済しようと始まった、庭の野草を食べる生活。機織、染色、日本人形。
自然、というか、そこに生けるものと共に生きていこうとする彼女達の生活は、「結界が張られた」家と言われるのもよく理解できます。

4人をめぐる人々としては、与紀子の大学の知人である竹田とその先輩の神崎も重要な役割を果たしています。そして能を研究している竹田がりかさんの衣装を見るシーンはとても印象深い。与紀子(よきこ)と紀久(きく)。よきこときく。まさによき(斧)、こと(琴)、きく(菊)を示していて、因縁によって結び付けられた赤光の二人の子孫が、幸せに恵まれるように、という祈りを感じてしまいます。
そして神崎は、紀久とのつきあいが自然と遠のいていったあと、マーガレットの危なっかしさをふと手を出して支えてしまう。竹田が神埼に対して話す、そのイメージがあまりに当てはまっていて、(蓉子と与紀子ではないけれど)納得してしまう。


自然の植物から取れる色で染色の道に生きようとする蓉子。与紀子は中近東からアジアへとルーツを持つキリムに惹かれ、その図案や唐草模様の原型に紀久は女性たちが織り続けてきた紬に魅了され、機を織る。
そして自分自身のルーツを思う気持ちから、アジアへと興味を持ち、やがては西洋でも東洋でもない、新たな命を産み出すマーガレット。

物語の主人公は一体誰、なんだろう。
祖母の家を下宿としてりかさんを抱いている蓉子?優れた人形師の子孫であることがわかった与紀子?
いや、むしろこの物語を通して語られようとしている業や迷いや心の濁りを吐き出そう、飲み込もうと一番苦しんでいるのは紀久。紀久が主人公なんだろうか。
唐草の蔓のように、絡まり離れまた続いていく関係と思いの中で、誰ともなく思い継がれていくこと、それがこの中で伝えたかったことなんだろうか。


この作品を読んでから、「りかさん」を読みました。
時系列で考えると、「りかさん」は、子供の頃のようこと、存命であった祖母、そしてりかさんの繰り広げる日々。そして、「からくりからくさ」は成長した蓉子、既にいない祖母、そして、浄土送りをしたまま目を覚まさないりかさん、3人の女性たちの話。なのだけれど、先に「からくりからくさ」を読んでしまったせいか、私にとってりかさんはやはり人形で何かのアクションを起こす存在ではないのです(最終的にはそうではないのだけど)。だから「りかさん」でりかさんが蓉子を「ようこちゃん」と呼ぶ、その事が本当に不思議に思えます。そういう意味でいくと、与紀子と紀久、そしてマーガレットの、蓉子とりかさんの関係に戸惑う気持ちは私にはとても共感できるのです。
(2000年)