〜20th Century〜
1993
中川と高橋、御所市立小学校に赴任。そこで、新澤と小寺に出会う。
大阪中津の「みのやホール」でアコースティックライブ出演。
⇒当初、中川と新澤(G)そして小寺(Key)で出演するはずだったが、
前日の深夜、急遽、中川の高校時代の同級生である巽(B)が呼び出され、
寝巻き同然の姿のまま朝まで練習。そしてそのままステージに立つ。
同僚の結婚式の二次会で演奏。【中川・新澤・小寺・高橋(Dr)】
⇒高橋が初参加。
御所市「カラオケライブ」にて、初の本格的?単独ライブ開催。(通称「ライブでライブ」)
⇒FUNNY TOWNの原型バンドでの演奏だったが、
ボーカルに新澤のお友達(女性)を加えた編成だった。【中川・新澤・巽・小寺・高橋】
1994
小寺、中川の順に転勤。巽、大宇陀町立小学校に赴任。
※この年は、ベース抜きの編成で、
小学校日曜参観のイベントや、
桜井メイクルタウンのイベントなどの演奏活動を行う。
1995
〜1月〜
3学期始業式の夜、「大阪の歌コンクール」に出すための曲“OSAKA FUNNY TOWN”(詞・曲:新澤)をレコーディング。
応募するも、阪神大震災のため選考が大幅に遅れる。そしてやっと来た結果は・・・見事落選。
〜4月〜
高橋、下北山村へ転勤。そこで同じく転勤してきた池田という人物に出会う。
初対面の日の夜、高橋の家に中川からTELが入る。
「そっちに池田ってやつが行ったやろ?そいつはおれの高校時代の同級生やで。」
池田宅にも巽が同じように高橋のことを伝えている。
〜6月〜
桜井わたぼうしコンサート出演。【池田(V)・中川・小寺・巽・高橋】
⇒“一緒に生きよう”という曲のみの演奏のため、バンド名も“一緒に生きようバンド”。
※この後、巽・池田・高橋のユニットでの活動が活発になる。
1996
巽・高橋はハードロックユニットでの活動。中川は独自にブルース系のバンド活動を展開。
※この頃、中川、小寺と結婚。新澤も結婚。
高橋は6年付き合った彼女と7月に別れ、反対に巽は11月に彼女をGET。
〜11月〜
中川、巽、高橋、中川の友人(辻野)とともに、久しぶりにスタジオに入る。
※この頃から、巽、中川にバンド結成を勧める。
下旬、久しぶりに5人でスタジオ入り。【中川夫妻・新澤・巽・高橋】
“中川バンド”として、活動を開始する。(中川・新澤が作った曲を演奏するオリジナルバンド)
【中川(G&V)・新澤(G&V)・巽(B)・中川(Key)・高橋(Dr)】
3月にライブハウスでのライブ開催が決定。
1997
〜2月〜
バンド名が“FUNNY TOWN”に決定。(13日)
“OSAKA FUNNY TOWN”の曲名から、巽が命名。
〜3月〜
奈良市「ビバリーヒルズ」にて、3バンドでライブ開催。
⇒50〜60人の客が集まった。
その後、しばらくオフ。
〜8月〜
巽、結婚。これで独身は高橋1人に。
※この後、だいたい月1回ペースでスタジオ入りし、新曲の練習を行う。
2回目のライブが3月に決定。
1998
〜3月〜
奈良市「ネバーランド」にて、4バンドでライブ開催。
⇒70〜80人ほどの客が集まった。
このライブを最後に、中川(Key)出産のためバンドを円満脱退。
同月末、池田の結婚式。
その披露宴席上で、兄の歌のエレクトーン伴奏をしていた妹が、
出席していた巽たちの目にとまり、早速スカウト。バンドメンバーになる。
〜7月〜
新生FUNNY TOWN活動開始。
【中川(G&V)・新澤(G&V)・巽(B)・池田(Key)・高橋(Dr)】
〜8月〜
FUNNY TOWN初の夏合宿。場所は下北山村スポーツ公園伝習館。
練習、バーベキュー、温泉、そして夜中はたこ焼きをつつきながらのブルースセッションで盛り上がった。
※次回のライブが12月23日に決定。この後練習は月2〜3回になる。
〜12月〜
奈良市「ネバーランド」にて、3バンドでライブ開催。
⇒120人ほどの客が集まった。
このライブで余興として、普段歌わない巽、高橋が初めてボーカルを務める。
巽は以前一緒にスタジオ入りした辻野の曲、高橋はB’zの曲、それぞれ1曲ずつを披露。
1999
〜1月〜
新澤、FUNNY TOWNでCD製作することを提案。そのための練習を開始。
メンバーでCD用のアレンジをしていくが、結局CDは作らずじまい。
中川から、合唱団パンダ(西奈良病院パンダ病棟の人たちの合唱団)の演奏会で
バックバンドをする話が持ちかけられ、池田以外の4人が参加することに。
〜2月〜
R169で土砂崩れ発生。高橋、下北山から出られずバンド練習を欠席。
〜3月〜
21日、奈良県文化会館国際ホールで、合唱団パンダコンサート開催。
⇒1曲だけバックバンドを務める。
〜5月〜
練習の合間の休憩時に、中川が教職員組合の青年部副部長に就任したことをメンバーに告げる。
「だったら、青年部の夏の学習会を下北山でするのはどう?」という話題になり、
後日、学習会の開催が正式に下北山に決定する。
ついでに、伝習館でFUNNY TOWNのライブもしてしまおうということになった。
〜8月〜
1年ぶりのFUNNY TOWN夏合宿は、下北山ライブ。
⇒今回、池田(Key)がボーカルデビュー。これでメンバー全員ボーカル達成。
〜9月〜
池田、アメリカへ1ヶ月のホームステイに出発。他メンバーも運動会のため3週間オフ。
〜11月〜
キャパ300人の「橿原文化会館小ホール」にて、4バンドでライブ開催。
ライブ名「Beat Plaza〜1・2・3・4・Go!・ロック〜」
⇒新曲の練習が不完全だったため、本番であやういことになる。
しかもPAのまずさもあり、ステージは混乱した。(メンバーも混乱)
〜12月〜
奈良市「ネバーランド」にて、複数バンドによるライブに出演。
⇒巽の知り合いバンドの代役としての出演だったが、自主企画以外のライブはこれが初めて。
前回失敗した曲をあえて演奏し、(結果は大成功)借りをかえす。
ネバーランドの人にも好印象を与える。
2000
〜1月〜
高橋、ついに彼女をGET。ゲンをかつぎ、巽らメンバーにアタック状況を報告しなかったのが功を奏す。
(それまでは逐一報告して、その都度玉砕していた。)
〜3月〜
去年に引き続き、合唱団パンダコンサートに出演。
⇒今回はバックバンドとして2曲、そしてバンドオリジナル曲を1曲披露。(中川作“Zipang〜愛すべき我が国〜”)
同日、ネバーランドにて3バンドでライブ開催。(つまりかけもち出演)
⇒60人ほどの客を集める。
FUNNY TOWN史に残る、最高に盛り上がったライブ。メンバー全員気持ちよくプレイする。
アンコールで高橋作“オレたちFUNNY TOWN”披露。
(“OSAKA FUNNY TOWN”を替え歌にしてメンバー紹介を行った。)
〜4月〜
中川転勤。高橋は早くも結婚が決まり、式場手配と新居の打ち合わせに大忙し。
〜5月〜
この頃からCD製作のためのレコーディングにとりかかる。
そのためにメンバーでお金を出し合って、ハードディスクのマルチ(16トラック)も購入(約14万円)。
購入に踏み切った理由は、はじめに使っていた中川所有のマルチ(8トラック)が壊れたため。
中川家に第二子(女の子)誕生。
〜11月〜
高橋の結婚式2次会でライブ開催。場所は大阪梅田のライブハウス「ケントス」。
⇒高橋の希望により、FUNNY TOWNとRoswell(高橋・巽らのハードロックユニット)合同で、
レッド・ツェッペリンの「天国への階段」を演奏する。(結婚式直前に亡くなった高橋のおじに捧げることに)
〜12月〜
高橋の新婚旅行中(冬休み)にも、残りのメンバーでレコーディングは続いた。