休日はバイクに乗って・・・
〜普通二輪免許取得奮戦記〜
第1話
1997年…いい年でした。遊びも仕事もバリバリがんばりました。いろんな人との出会いもありました。友達もできました。また、今まで気づかなかった友達の良さを見つけて、ますます好きになれたりもしました。自分の人生の中で忘れることのできない1年間だったように思います。
そんな1年を過ごして、またひと回り自分が大きくなったように思います。今年も常に前向きでありたいですね。
今回の『夢』は、たかはしこうじ1997年最大のイベントについてのお話です。
* * *
【人に歴史あり】
“はっさんへ”
絶対一緒にツーリングに行こう!!
これは、私の高校の卒業アルバムに書いてある友達の寄せ書きである。当時私は「ヤマハチャンプRS」という原チャリを愛車としていた。(今も住宅に置いてあるが、♪今はもう動かない♪状態である。マフラーの穴に土のふたができていたので取ってみると、中からなんかの幼虫が出てきてびっくりしたこともある。)
高校は「3ない運動」というやつをやっていたが、隠れて乗っていた。今から思うと、原チャリの免許を取る時にバイクの免許を取っときゃよかったのだが、お金がなかったのだ。けれど、バイクへの憧れは持ち続けていた。
あの頃は若かった。だから乗りたいバイクもレーサータイプのものだった。友達はFZだのGSXだの言っていたが、私はなんといってもホンダのCBRが好きだった。《ファンファン》というかん高いエキゾースト音を聞くたびに、「絶対大学行ったら買うぞ!」と思っていたのだ。寄せ書きを書いてくれた友達ともそう話していた。そして卒業した…。
* * *
大学は大阪教育大学に「入れてー。」と頼んだが「だめ!」と言われたので、「いいよ。」と言ってくれた奈良教育大学に決まった。池田市からは片道2時間半ほどの通学時間である。1コマ目に間に合わせるためには、乗り継ぎの都合上5時台には家を出なければならない。奈良市在住の人がまだ寝ている時刻に遅刻が確定してしまう生活に耐え切れず、3ヶ月ほどで下宿生活に入った。
大学では吹奏楽をしようと決めていたので、ウインドアンサンブルというサークルに入った。パートはパーカッション(打楽器)だ。すると大きな楽器を運ぶ「キャリー」という仕事が、必然的に私に回ってきた。そして先輩がこう言った。
「車の免許は絶対いるぞ。取っとけよ。」
こうして、バイクの免許は後回しになった。
車の免許を取れば車に乗りたくなるものである。2回生の終わりには、ちゃっかり新車を買っていた。そしてローン生活に突入した。
下宿生活とは貧乏生活である。そこへ車のローンとくれば結果はだいたい予想できる。「栄養失調」である。
(お金がない⇒光熱費は払わなあかん⇒コンパも捨てがたい⇒でも切り詰めなければ⇒しゃあない、おかずを減らそう…)
というわけで食費を切り詰めた結果、3回生の夏には体重が48キロにまで落ち、(ちなみに身長は163センチ)歩いているうちに頭がクラクラしてきて、梅田で倒れたりもした。こんな生活をしていては、バイクの免許を取る余裕が生まれるはずもなかった。
そして、問題集『二輪免許絶対合格』は本棚の片隅に追いやられたまま、二度と開かれることはなかった…。
・・・つづく・・・