2005年1月28日〜2月23日

中国は55の少数民族が暮らしている。その中で、中国南方のトン族、ミャオ族の村々の生活の様子を見てみたい。ついでに湖南省にある世界遺産、張家界の武陵源も観光しちゃおう!
時間をたっぷりと使った贅沢な旅を協力隊同期隊員のS嬢と決行!





懐化から始まる旅通道で公安に囲まれる!!風雨橋の美しいトン族の村〜三江〜

サムライ?が住むミャオ族の村〜バーシャ〜|人懐っこい笑顔が印象的なトン族の村〜小黄(高増)〜

ミャオ族の美しい刺繍を求めて〜西江〜トン族最古の鼓楼〜増沖〜

トン族最大の村〜肇興〜美しい歌声が響き渡るトン族の村〜小黄〜

小さな村のすばらしい鼓楼〜銀潭〜|ミャオ族の芦笙と踊り〜鴨塘〜

ミャオ族の美しい古城〜鳳凰(奇梁洞・王村)〜開放されたばかりのミャオ族の村〜老洞〜

雪に覆われた奇岩と森林〜張家界〜


1月27日
1月28日
1月29日
1月30日
1月31日
2月 1日
2月 2日
2月 3日
2月 4日
2月 5日
2月 6日
2月 7日
2月 8日
2月 9日
2月10日
2月11日
2月12日
2月13日
2月14日
2月15日
2月16日
2月17日
2月18日
2月19日
2月20日
2月21日
2月22日
2月23日
北京→<列車>→懐化(湖南省)
懐化
懐化→<バス>通道(湖南省)
通道→<バス>三江(広西チワン族自治区) 【程陽橋景区】
三江 【程陽橋景区】
三江→<バス>→従江(貴州省) 【バーシャ】
従江 【小黄&高増】
従江→<バス>→雷山(貴州)
雷山→<バス>→凱里 【西江】
凱里→<バス>→溶江(貴州)
溶江 【増沖】
溶江→<バス(従江・洛香で乗換)>→肇興(貴州)
肇興 【紀堂&几倫】
肇興
肇興
肇興→<バス(洛香で乗換>→従江
従江 【小黄】
従江→<バス(溶江で乗換)>→凱里 【銀潭】
凱里 【鴨塘】
凱里 【新光&鴨塘】
凱里→<バス(銅仁で乗換)→鳳凰(湖南省)
鳳凰 【鳳凰古城】
鳳凰 【老洞】
鳳凰→<バス(吉首で乗換>→王村→<バス>→張家界(湖南省)
張家界 【黄石賽】
張家界 【天子山】
張家界→<列車>→北京
北京→<列車>→長春
列車泊
しーぷ宅泊
通道泊
三江(程陽橋)泊
三江(市内)泊
従江泊
従江泊
雷山泊
凱里泊
溶江泊
溶江泊
肇興泊
肇興泊
肇興泊
肇興泊
従江泊
従江泊
凱里泊
凱里泊
凱里泊
鳳凰泊
鳳凰泊
鳳凰泊
張家界泊
張家界泊
張家界泊
列車泊
列車泊 翌朝長春着




 懐化は、一緒に旅行をしたS嬢の任地である。日本人という存在自体がとても珍しい街ということなので、さぞかし田舎なのかと思っていたら、意外にも開けた街だった。ちょっと頑張ってる!って感じ。
 懐化は観光地ではないので特に何も見るものはなく、S嬢の職場を外からチラリと見たのと、市場見学をしたぐらい。市場には一面の唐辛子の山(さすがは湖南!)。そしてびっくりしたのが、丸いお餅を普通に売っているってこと。日本のお餅そっくりなのだ!まさか中国にもあるなんて〜!!私が住んでいる中国東北地方ではお餅は見たことがない。
 北と南の食って、やっぱり違うんだなぁ、中国って広いなぁ、と改めて思った。

 市場で、懐化名物という『臭豆腐』と『こんにゃく』を食べた。
 臭豆腐は独特の臭いを放つ黒色の揚げ豆腐。視覚・嗅覚の印象はよくないが、食べてみると思っていたよりもイケル。
 こんにゃくは唐辛子で合えてあったのだが、これも東北地方で見ることはない食材であり、日本が思い出されて懐しかった。

 懐化で辛かったのは”寒さ”である。聞いてはいたものの、あの寒さは何なのだ?沖縄とほぼ同緯度にあるくせに気温は0℃〜5℃程度。湿度が高いため体感温度は妙に低い。家の中には東北地方ではお馴染みの集中暖房などあるはずもなく、室内外の気温は変わらないのだ。
 幸いS嬢の家にはエアコンがあったので、エアコンかじりつきの状態だった。中国内陸部の冬は侮れない。東北の寒さは”痛い”のだが、南方の寒さは”芯まで染みる”。





 通道は湖南省の南部にあるトン族自治区である。映画『山の郵便配達』のロケが行われたという場所だ。

 私達は広西チワン族自治州にある三江へ向かう途中で、この通道に立ち寄ることになった。懐化から三江までは、列車とバスの2つの手段があるのだが、列車の場合三江に到着するのは夜中の3時ぐらいになってしまう。それから宿を探すのはつらいので、通道でバスを乗り換えて三江へ向かうことにした。
 正午過ぎに懐化を出発し、バスはゆっくりと山道を進んでいく。5時間ぐらいで着くと言われていたのに、通道に着いたのは午後7時。もう三江行きのバスもない。このため、私達は通道で宿泊せざるを得なくなった。しかし実はこの通道は外国人未開放地区だという。S嬢が地元の懐化で聞いた話では「入ってはいけない」という人もいれば、「入っていい場所といけない場所がある」という人もいるらしい。後者に賭けて、とあるホテルで手続きを行うことにした。
 ホテルの受付で、S嬢が緊張しながら身分証明書を提示すると「ここは外国人が泊まるには設備も悪いし申し訳ない。」と、しきりに別の通道賓館というホテルを薦める。あまりにそう言うので、一旦通道賓館へ行ったのだが、宿泊費が高いのでまた最初のホテルに戻った。
 「外国人は面倒なのよ。社長に聞いてみるから。」と受付の女性は言い、しばらく座って待つように言われた。一体いつまで待てばいいのか?というぐらい、長い時間待っていると、いつの間にかロビーに公安(警察)が3人現れていた。かなりあせって逃げ出しかねない様子のS嬢。「私達はここには泊まらないからいいでしょ?」と訴えている。やはりここは外国人未開放地区だったのか…。
 電話であたふたと事務所や学校に連絡するS嬢の横で、妙に落ち着いてソファーに座っていた私。一体これからどうなるのだろう?という不安も特に感じなかった。恐らく公安の人達の、少しも恐怖感を煽らない雰囲気がそう思わせたのだろう。「ここには外国人は入ってはいけないんだ。」という公安に対して身分証明書を提示し、しばらく待っていると、通道の科技の人がやって来た。S嬢の学校からの連絡を受けた彼は、これから先のことを手配してくれるらしい。
 最初は「懐化に私達を送り返す。」と言っていた公安だが、結局通道で1泊できることになった。宿泊は、例の通道賓館。通道の科技の人から「明日は必ず通道を出るように」と念を押される。
 もちろんそうしますとも!今度捕まったら、それこそタダじゃすまないだろうから…。
 せっかくここに来たんだから!と、名物の土鶏の火鍋をS嬢と2人で食べ、おとなしくホテルに戻ってそのまますぐ寝た。

 旅の始めからいきなりつまずいてしまった感じだ。でも結局は、罰金を取られることもなく、懐化に追い戻されることもなく、そのまま旅を続けることができる状況にあったので、これってラッキーだったというべき?宿泊代も、通道の科技の人が払うと言って聞かなかった。

 いずれにせよ…。関係者の方々、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。m(_ _)m





 三江の風雨橋は本当に美しかった。今でも目を閉じると、橋脚の上に楼閣が建てられている立派で勇壮な、しかし木のぬくもりを持った優しい橋が浮かんでくる。しかし、残念なことに旅の途中でCD-Rに焼いた橋の写真のデータが壊れてしまった。そこで一緒に旅したS嬢の写真を掲載させてもらう。

 通道から三江まではバスで移動。もうそろそろ三江に着くのでは?という時間になったのだが、ぬかるんだ山道のせいか渋滞していて車は一向に進まなくなってしまった。対向車線の車もストップしている。こんなことも日常茶飯事なのかなぁ、などと考えながらバスの中で待っていると、他の乗客はみんな降りて歩いて行ってしまった。もう歩いていけるぐらい近いのか?それでもしばらくは待っていたのだが、あまりに動きそうにないので渋滞する前からぐっすり眠っていS嬢を揺り起こす。
 バスの乗務員に聞くと、「もうしばらくしたら動くからそのまま乗って待ってな」ということ。確かに重たい荷物を担いで歩きたくないし。彼は私達が日本人だと分かると、興味津々で話しかけてきた。
 やっぱ珍しいのか、外国人!
 彼は湖南の株州で化学を勉強している学生で、今はアルバイトをしているということだった。通道は何故外国人未開放地区なのか彼に尋ねると「貧しいから、見せるのが恥ずかしい。」とのこと。中国には他にも貧しい地域はたくさんある。納得がいかない回答に食い下がったけど、彼は同じ言葉を繰り返すのみだった。そして、こう言ってくれた。「僕が通道の写真を送ってあげるから住所を教えてよ。」
 え、本当?いい人かも知れない!S嬢が名刺を渡したのだが、本当に写真を送ってくれるのかな?(→後日ちゃんとS嬢に写真が送られてきたとのこと!)
 やがて車が動き始めた。うらやましそうに私達を見上げている、まだ停車中の対向車群の脇を通り抜け、ほどなく三江のバスターミナルに到着した。そこで運転手のにーちゃんに「ここに行きたいんだけど、どう行ったらいいの?」と程陽橋景区の写真を見せると「任せておけ!」と、バスのエンジンを再度かけ始めた。
 えー?と思っていると、バスは別のバスターミナルで停車し、さらに運ちゃんはバスを降りると発車しかけの、とあるバスを捕まえてくれた。私達2人は運ちゃんにお礼を言う暇もなく、何だか訳が分からないままそのバスに乗り込んだのだった。
 今もきっと通道と三江間のバスを走らせてる若い運ちゃんへ。あの時はどうもありがとう!助かりました!!

 三江市街地から程陽橋景区まではバスで30分弱。道端で人々を拾いながらバスは走っていく。途中、バスに立っていた人達がみんなしゃがみ始めたのにはびっくり。私達はバスの一番後ろの座席に座っていたので、みんなの様子が一望できて妙におもしろかった。思わずシャッターを切る。乗車人数関連で公安のチェックがあるのだろうか?ある区間を通り過ぎると徐々に人々は立ち上がり始めるのだった。不思議な体験。

 程陽橋景区に着くと、入場料を払って村に入る。ここはゲストハウスもあるとガイドブックに書いてあるのだが、どの建物がそれなのかよく分からない。結局、最初に目に付いた宿泊施設に泊まることにしたのだが、木造建築で部屋に暖房などない。1階の広間にある炭火で暖を取るのみなのだ。家の中も外も同じ気温。そういう訳で、東北地方で毎日来ているロングのダウンコートを家の中でもずっと着ていた。部屋に集中暖房が備え付けられている東北地方では有り得ない状況だ。
 宿に荷物を置いて、近くを散策することにした。まずは、宿からも目に付く大きな風雨橋を目指す。この橋は永済橋と言い、国の重要保護文化財となっている。橋には5つの楼閣があり、それぞれ5層の屋根となっている。本当に美しい橋だ。橋を渡ろうとすると、中にお土産物を売っているおばあちゃん達がいた。これがまたすごい勢いでまとわりついてくる。
 「これはどうだい、いいだろう?買わないかい?」
 こんな調子で次から次へと湧き出てくるおばあちゃん達。ゆっくり見させてくれ〜っ!そんなおばあちゃん達と闘いながら、結局トン族の夏の民族衣装(←一体いつ着るのだろう、私??)と布のかばんをGET。

 橋を渡りきったところで、やはりお土産を売っている小学生の男の子、陳くんと出会った。彼が村を案内してくれるという言葉に素直に喜んだ私。程陽橋附近には8つのトン族の村があるのだが、このうち3つの村を一緒に回った。地元民が通る道を歩くので、生活の様子もよく分かっておもしろい。また、鼓楼や風雨橋などが溶け込んでいる村の景色はとてものどかだし、黒の瓦屋根を持つ木造の家々はどこか懐かしさを運んでくる。家の側の川で野菜を洗ったり、洗濯をする人々の姿も、時間の流れをゆっくりと感じさせる。
 トン族は「油茶」を飲むと聞いていたので、陳くんに案内してもらった。一体どんなお茶が出てくるのか?油っぽいお茶なのだろうか?
 運ばれてきたのは、2つの茶碗とお茶の入った大きな碗、それから油で揚げてあるあられのようなもの。まずあられを茶碗に入れ、その後お茶を注いで食べるのだ。お茶というよりお菓子といった感覚だ。最初に出てきたお茶は塩味で、その後甘いお茶も運ばれてきた。どちらもおいしかったが、私は塩味の方が気に入った。S嬢によると、この油茶は家庭によって味が異なるということだ。まるで味噌とか漬物みたいだ。


 陳くんは宿の近くまで送ってくれた。へー、優しいんだなぁ。彼が売っていたお土産を買ってあげようかなぁ、と思っていた私に驚愕の言葉が浴びせられた。
 「お金ちょうだい。10元。」

 案内料を請求してきたのだった。あんぐりしてしまい、何も話せない。彼は「8元でもいいよ。…5元でも。」だんだんと値を下げていく。S嬢と相談して6元渡すことにした。「ずっと家に帰ろうとしなかったから、アヤシイと思っていたんだよね。」とS嬢。そっかぁ…。そんなもんなんだねぇ…。

 翌日は、大寨という村でー集(ガンジー)と言うのものがあるということで、まずそこに行くことにした。
 大寨へ向かう途中で、天秤棒にお米や玉子とお金を乗せて担いでいる人々に出会った。列を作ってどこかに向かって歩いて行く。後を付いていくと、ある家の前に行列ができていた。その家の外では男性がいくつかの大きな鍋でおかずを作っている。何だかとっても楽しそう。そのうち、ある男の人がやって来て話してくれた。
 「この家で赤ちゃんが生まれたのでみんなでお祝いをしているんだ。あんた達もどうだい?ご飯も食べられる。お祝いは一人20元でいいよ」。
 こんな機会はめったにないので、私達もお祝いをすることにした。赤い紙のお年玉袋のような『紅包』にお金を包んで家に入り2階に上がると、多くの村人達がいくつかのチャブ台に並べられたご飯を囲んでいた。非常に賑やかだ。さらに上の階の部屋で、お母さんと生後5日目の赤ちゃんが休んでいた。家でお産をしたということだったが、赤ちゃんはいたって元気な様子だ。赤ちゃんを見つめる母親の優しく、うれしそうな表情がとても印象的だった。

 それから2階に下りて、私達もご飯を頂いた。主食はもち米。それに5つのおかずが並んでいた。豆腐と根菜の煮物、高菜漬けらしきものの炒め物、豚肉の脂身の炒め物、キクラゲの炒め物、豚の生肉の和え物。
 同じ円卓に座っているおばあちゃん達の食欲は旺盛だ。もち米は手で掴んで食べていた。私達にも「食べなさい、食べなさい。」と勧めてくれる。豚の生肉を食べるのは勇気が要ったが、勧められるままに口にした。
 S嬢は「少量だから大丈夫だよ。」と言っていたけど、そうなん??
 いずれにしても、大勢で食卓を囲んで賑やかに食べると、本当においしく感じる。

 偶然にも貴重な体験をすることができて、本当にラッキーだった。村中のみんなでお祝いをするという姿は、日本で見たことがなかった。暖かさを感じる一時だった。

 その後、当初の目的であった大寨のー集(ガンジー)を見に行った。いわゆる出店がずらりと並んでいて、日用品やお正月用品、衣服などを売る青空市場だった。出店には鶏や豚などの姿もある。そして道は多くの人々でごった返している。一通りブラブラと歩いた後、一見カステラのように見える蒸しパンを買ってみた。これがモチモチしていて結構いけてた。
 そして、少し離れた場所にある平埔寨と吉昌寨へ歩いて向かう。2つの村は観光地化されておらず、そこで暮らす人達の普通の生活を見ることができた。中国語が通じないおばあちゃん達。赤ちゃんをおんぶして子守をしているおばあちゃんや小学生ぐらいの女の子達。タバコを吸っている小・中学生ぐらいの男の子。大きな柴を天秤棒で運んでいる女性。鼓楼の下で遊んでいる男性。放し飼いにしてある家鴨や鶏の姿。裕福とはいえない村で生活する人々の姿があった。

 夕方宿泊先に戻り、またもや永済橋上で買い物をしてしまった。トン族が踊っている姿を表している刺繍だ。
 それから、宿のご主人の車で三江市街地に向かう。まだ訪れていない村が1つあったが、こんな寒い所に2泊もできない。風雨橋が印象的だった程陽橋景区ともこれでお別れだ。





 バーシャは、懐化のS嬢の家で旅行計画を立てていた時に、貴州紹介の本で見つけた村。その本の写真には、辮髪のような頭をした男性の姿があった。頭のてっぺんだけの髪を残して後はそり落とし、てっぺんの髪はサムライのように結んでいるというもの。
 これは必見でしょう!
 しかし、三江と同じくバーシャの写真もパーになってしまったので、ここにはS嬢撮影のものをUPする。

 三江から貴州省肇興へ移動するため、7時発のバスに乗る予定だった。20分前にバスターミナルに着くと、人で溢れ返っている。驚きながらも列に並んだのだが、すでに肇興行きの切符は売り切れていた。
 がーん!
 次のバスは11時発。そんなに待てない。予定を変更して、まず従江へ移動することに決めた。しかしこちらも朝早い切符は既に売り切れており、10時まで待たねばならなかった。

 何するの?10時まで…。

 とりあえず、三江市街地をブラブラしてみる。しかし、街はまだ起きていない状態で、多くの店のシャッターは閉じられたままだ。
 ☆閃き@☆:少数民族の衣装を着て芸術写真を取るべし! しかし、3時間かかると言われ、あえなく挫折。
 ☆閃きA☆:マッサージしてもらお! しかし、店が開いてないぞ。

 仕方ないので、あてもなく街を歩いて時間をつぶした。非常につまらない時間だった。 ”真无聊!”

 三江から従江までの道はお世辞にも良いとは言えなかった。舗装されていない道がほとんどで、バスはかなり揺れた。特に貴州省に入ってからがひどかった。従江への道はずっと都柳江という川沿いにあり、所々小さい集落が見えた。富禄という村を通り過ぎた時には、まるで江戸時代のような髪結いのる女性に釘付け状態。一人と言わずそのような変わった髪型をしている女性が結構多い。「あぁぁ、ゆっくり見たい〜」と思う端から、景色は流れていく。
 午後2時に従江に到着。宿に荷物を置いた後、情報収集。バーシャなら今から出かけても時間的には大丈夫だということで、面包車という非常に小さな自動三輪車に乗って出発。面包車を運転するおばちゃん、結構たくましかったぞ。

 バーシャは山の上にある村だった。面包車から降りた私達を迎えてくれたのは、店仕舞い済みのお土産物屋。一体どこをどう見学すればいいのだろう?
 ここはやはり高い所に行って眺めてみるべきでしょう!ということで、道路から見える高台まで行くことにした。階段を登っていると、井戸端会議をしている女性達を発見。しかし、こちらをジーッと見ているのみで(睨んでいる?)、にこりともしない。何だか悪いことでもしているような気分になる。写真を撮るのも憚れて、素通りして高台から景色を見下ろしてみる。道路を挟んだ反対側の下の方に集落らしきものが見えるのみで、それ以外は山!山!山!
 とりあえず集落に行ってみることにしたのだが、階段をしばらく下りても特に人影もないし、このままだと集落も抜けてしまう。
 仕方ないので、一旦道路まで戻り、その道路をさらに歩いて奥へ進んでみる。すると、遠くに観光客らしき人の輪が見えた。近付いて見ると、誰かを囲んでいる。誰?誰?おぉぉぉ〜、バーシャ人(中年の男性)じゃないか!ちょんまげが少し崩れたような頭をしている。本当にいるんだぁ、こんな人が…!

 
 そのバーシャ人は、観光客からもらったと思われるお菓子を食べていた。私達が近付くと、観光客の中国人が「財布を見せてあげなさいよ」などと彼に話しかけた。彼は財布を少し見せてくれたのだが、その他いろいろと注文する中国人に閉口したのか、山の中に入っていってしまった。ある種、見世物のようになっているのに耐えられなくなったのかもしれない。
 私達は、そのまま道路を先へと進んでいった。すると…。
 老人のバーシャ人に追い越される。頭の特徴は見られない。というか、かなり崩れている。後をつけようと言っていたら、いきなり脇道に入っていってしまった。仕方なくそのまま歩き続けると、またもやちょんまげ頭の人に遭遇。今度は働き盛りという感じの青年で、髪もきれいに整っている。腰の後ろ側には花瓶のような籐籠をぶら下げており、その中には鎌が入っている。
 「ニイハオ」と挨拶すると、「アァ」という返事をした彼は、やはり山道に消えていった。私達も山道に入るしかないでしょう!ということで、2人で青年が歩いた方向へ歩いていくと、しばらくして村が見えてきた。あった!バーシャの村だ!


 時が止まっているかのような村に入っていく。子供達の声が聞こえてきたかと思うと、小さな顔がひょっこりと現れた。民族衣装を着ている。女の子、男の子。こちらを伺うように見ていたが、そのうち近付いてきた。とても人懐っこい笑顔を向けて来て、何か言っている。よく聞くと「給我糖(飴ちょうだい)!」と言っているのだった。


 「しまった…」S嬢が口を開く。「飴を持ってくればよかった…。飴をあげると喜ぶって聞いていたんだよね。」そうなんだ。知らなかった。かばんの中には、日本から送られてきた中国では非常に貴重なチョコが入ってるのみ。ぬぬぬ、非常にもったいない〜。もったいないんだけど、奮発するか〜(中国じゃ買えないんだもん(涙))。
 次々と伸びてくる子供の手に少し驚きながらも、板チョコを割ってあげる。おいしそうに食べる子供達。こんな風に「飴!飴!」と言って来るということは、今まで観光客がかなりお菓子を与えてきているんだろう。子供達と遊んでいると、赤ちゃんを抱っこした若いお母さんもやって来た。写真を撮らせてくださいと言うと、「飴ちょうだい」。お母さんも食べるのか…?意外に思っていたら、実は赤ちゃんに与えるためだった。
 それからしばらく子供達と一緒に遊んだ。集まっては散り、散っては集まってくる。コロコロとよく笑うし、地面も派手にゴロゴロと転げ回る。こっちも童心に返って相手をしていたら、あっという間に時間が過ぎていった。
 子供達と別れて更に村を散策していると、かなり若いお兄ちゃんを発見した。お父さんらしき人と一緒に天秤棒で肥料の様なものを運んでいるのだが、彼の頭髪の結び方はかなりサムライに近い感じで、美しく整っていた。強烈なインパクトを受けたので、写真はなくとも今も頭に焼き付いている。
 三江のトン族は鼓楼の周りにたむろしている男性が多く、あまり”働く”という印象はなかったが、この2人はよく働いていた。民族の差か、土地柄の違いなのか、それとも家庭によって違うものなのか…。
 刺繍をしている数人の女性陣にも出会った。民族衣装のプリーツスカートを作っていたり、刺繍を刺したりしていて、彼女達もコロコロとよく笑った。こちらまでつられて笑ってしまう。写真を撮ってもいいかと聞くと「給我銭(お金ちょうだい)!」ときた。これにはさすがにびっくりして、引いてしまった。こういう場合、お金をあげて写真を撮らせてもらうものなのだろうか。しかも、いくらぐらい払うものなの?だが、私はどうしてもそんな気にはなれず、結局眺めているだけで終わった。

 こうしてバーシャ村訪問は終了した。村から道路まで戻ると、前方をちょんまげの男性が歩いている。村に入る前に出会った、挨拶に答えてくれた男性だった。S嬢が写真をお願いすると、連れの男が「3元」という。やっぱりお金ですか…。
 結局S嬢はお金を払い写真を撮った。だが、どうやらピンボケだったらしい。あぁ、貴重なショットが…。

 バーシャで初めて聞いた「給我銭!」や「給我糖!」という言葉にはすごく違和感を覚えたし、困惑した。言葉の裏に、よそからやって来て村を見物するんだから当然でしょ、という気持ちがあるように感じたからだと思う。実際には彼らはそのようには思っていないのかもしれない。チョコをおいしそうに食べてにこにこしている子供の顔を見ると、こっちまでうれしくなってきたのは事実。でも、モノを与える代わりに何かさせてもらう、という感覚には慣れなかった。




 今回の約4週間の旅の中で、小黄は2回も訪れた。

 1回目は旧暦のお正月である春節の前、もう1回は春節4日目(初4という)。私達は超短期間におけるリピーターだった。
 …何故って?
 1回目に小黄を訪れた時にとてもすてきな村だったのですっかり気に入ってしまい、単純にもう一度行きたいと思ったためだ。小黄に住むトン族の歌声は美しいと評判だったのに1回目の訪問では耳にすることができなかった。しかし、春節には毎日歌っているという噂の美声を是非とも堪能したかったのだ。

‥∴‥∵‥∴‥ 春節前の小黄 ‥∴‥∵‥∴‥


 「え?うっそ〜、寝過ごした。もう間に合わない…。」
 小黄に行く朝、目覚ましが鳴らなかった。
 鳴ったのに気付かなかった?実は深夜に気分が悪くて目が覚め、あげくの果てに嘔吐してしまった。その寝不足のせいで音にも気付かず爆睡中だった?それとも昨夜目覚ましを設定したのは夢だったのか?
 いずれにしても、30分後の7時に従江発小黄行きのバスは出てしまう。今更ジタバタしても間に合わないので、ゆっくりと支度することにした。おかげで、ずっと便秘気味だったお腹も随分すっきりした(←非常に重要!)。

9時前に宿を出て、三輪モーター車を捕まえて値段交渉をする。偶然にも昨日バーシャから帰って来る時に乗った三輪のにーちゃんだった。「小黄は遠いんだ。これ以上安くはできない!」というにーちゃん。ちょっと高いかなぁ…と思いつつも往復80元で交渉成立。

 
 9時半に出発する時には、1時間半地獄の寒さを味わうことになるとは思ってもみなかった。小黄は少し高度の高い山奥にある村だった。当然外気温もかなり低い。脳天に響く程の凸凹の山道を、外気の寒さは幌で風を遮るだけの三輪モーター車で行ってしまった私達は、かなり無謀だった。行ってみて初めて知った過酷な事実だから仕方なかったのだが、もう二度とできません、あんなこと。

 小黄に着いてすぐにしたのはトイレ。冷えのせいでしーぷは限界を超して非常に無口な状態だった。トイレはあっちにある、と言われて探したのだが見つからない。仕方がないのでちょっと小高い場所に登って、野と戯れながら…、という状況で用を済ます。
 すっかり落ち着いた後は、ゆっくりと小黄の村を散策した。まず目に飛び込んできたのは、民族衣装のオンパレード。そこまで派手じゃないその衣装は、普段着としてまだまだ大活躍しているのだ。しかし、男性で着用している人はそこまで多くなく、圧倒的に女性の姿が目立つ。
 玉子の白身でコーティングしてあるという布を使った服は光沢がある。小学生ぐらいの子供達は珍しいヤツが来たとばかりにまとわり付いて来ては、やはり飴を欲しがるのだった。
 しかし、小黄はバーシャよりも豊かな明るい雰囲気の村だった。バーシャでは見なかった駄菓子屋に子供達がしょっちゅう出入りしている。ここではお菓子を買うことができるのだ。村の人達は朗らかでよく笑いかけてくる。
      

 カメラを向けると「オレを撮ってくれ!」とポーズを取るお父さんには思わず苦笑。私達を怖がって泣き叫ぶ子供を抱っこしながら、笑いかけてくるお母さん。私達のことが気にはなるようだが、羞恥心からかサッと脇を走り抜けていく中高生ぐらいの女の子達。縄跳びをしたり、追いかけっこをしながら一緒に遊んだ無邪気な子供達。
 そして、ここは昔からの生活様式を守っている村だった。どこの村でもそうだったが、運搬手段としては棒天秤が大活躍。暖房の燃料となる木炭や、たきぎ、また水などを運んでいる姿をよく見かけた。言葉通り人のカラダが大切な資本なのである。大きな木の切断も、男達自身の手によって行われる。この姿は圧巻だった。脱穀も足が動力の簡単な機械で行うし、もち米が原料のお酒も手作りだ。
 約2時間半村の様子を見た後、小黄にお別れを告げる。またあの三輪車モーター車で山道を走るのかと思うとうんざりしたが、手を振って別れを惜しんでくれる子供達の姿は心を暖かくしてくれるのだった。


  約1時間弱戻ったところで、第2の目的地である高増に到着した。朝、小黄に行くときに通過した村である。
 ここは、従江により近いだけあり、小黄よりも漢族の文化が多く入ってきていた。民族衣装を着ている人々も少なく、小黄ほどの新鮮さを感じることはできなかった。あまりに小黄の印象が強烈すぎたのだ。見学の順番が逆だったら、また違ったのだろうが…。
 私が唯一心惹かれたのは、楽器の音だった。村をブラブラしている時に、楽器の音が聞こえてきた。
 S嬢によると「トン族の男の人がこの楽器を吹いて、それに合わせて女の人達が踊るんだよ。」ということだ。
 その芦笙の音はしばらくすると消えてしまったのだが、音が聞こえた方に近付いていくと民家の壁にその楽器が立てかけてあった。大小様々な大きさのものがあり、すべて竹でできている芦笙。きっと春節には聞くことができるのだろう、と期待に胸を膨らませてその場を離れた。
 
 
 また、鼓楼の前に繋がれてあった水牛は迫力があった。こんなに近くで水牛を見たのは初めてで、立派な角には惚れ惚れする。しーぷによると彼女の任地では普通に見られるということだが、私が住んでいる長春ではお目にかかったことがない。長春で見る動物と言えば、ロバ、鼻がつぶれて毛足の長い小型の飼い犬ぐらいだ。
 そんな水牛のものだと思われるでっかい大便を思いっきり踏みつけて滑ったりしながら(こけなくて良かった…)、私達は1時間ぐらいかけて、まだ建てられたばかりと思われる鼓楼を含むいくつかの鼓楼や風雨橋を見て回り、従江へと戻った。

 朝寝坊が原因で公共のバスに乗り遅れてしまったのだが、実はこれは正解だったのかもしれない。小黄から従江までのバスは恐らく1日に1本あるだけで、朝、従江から小黄へ向かうバスが折り返すのだろう。
 ということは、もし朝7時のバスに乗っていたら、ゆっくりと小黄を散策することはできなかったかもしれない。小黄には客を乗せるために待ちかまえている三輪車モーター車の姿はなかった。となると、小黄の民家にホームスティということになるのだろうが、あの寒さにはきっと耐えられなかっただろう。もしも小黄に泊まるのであれば、寝袋は必須だ。





 S嬢と旅行の計画を立てた時、西江は予定に入っていなかった。旅行をしていくうちに時間に余裕ができてきたので、ガイドブックのとある言葉に釣られて急遽行って見ることに決めたのだった。『ミャオ族最大の村である西江の刺繍の技術は高い』という興味をそそられる言葉。

 従江から凱里行きのバスに乗り、凱里の手前30kmぐらいのところにある雷山で降りた。雷山まではかなりの山道だったので、バス酔いする乗客が続出。みんな窓から外に向かってゲーゲーやっている。日本では信じられない光景だ。こっちの気分まで悪くなりそう。勘弁してくれ…。

 雷山に到着するまでの間、約1時間ごとに集落を通り過ぎた。そのうち、2つの村でー集(ガンジー)を開催していた。ー集は正月に必要なモノから日用品、また鶏や豚などの家畜などを道で売る、青空市場のようなものだ。
 車が動けなくなるぐらい、それらを買い求める人々で道は塞がっている。ごった返す人々の中には、きれいな民族衣装で全身着飾っている若い娘達もいて、見ているだけでワクワクした。これから訪れる西江もこんなに賑やかだったらいいなぁ、といった期待も大きくなっていった。


 大塘で昼食を食べた後しばらく街を歩いていると、音楽が聞こえ始めた。笛とシンバルを使ったマイナー調の曲が響いている。近付いてみると葬式をやっているのだった。
 家の門には白い花輪があり、その前には黒く塗った木の棺桶が用意されている。楽器は家の中で演奏しており、奥のほうには大往生したと思われる老人が横たわっているのが見えた。悲しさよりも、むしろ「よくぞここまで生きてきた。ゆっくり休んでくれよ。」とでも言うような安らかな雰囲気が感じられた。

 夕方4時に雷山に到着。バスターミナルで今日は西江でー集があるという情報を仕入れたのだが、これから西江に行くと帰って来られないと判断して雷山に1泊することに決めた。
 寒かったので温まろうと、名物の家鴨の鍋を食べたのだが、かなり油っこい。しかも、体の調子が悪くてあまり食欲がなかったので、更に食べ辛かった。体の痛みも感じたので、早々にホテルに戻って休むことにした。


 翌朝は目を疑うような青空が広がった。貴州でこの時期に晴れるなんて信じられない。

 10時前に雷山を出発して約1時間半で西江に到着。黒瓦の木造の家並みが段々状に見える。
 人々の暮らしぶりを期待していたのだが、漢族とあまり変わらない服装をした人達の姿が見られるのみだ。漢族の文化もかなり入ってきているのが村の様子から分かる。
 少しがっかりしつつ、ぶらぶら歩き出すと「銀細工」の店を発見!思わぬところでかなりの時間、足止めを食らうことになってしまった。買い物も旅の楽しみの一つなのだ。
 西江には大きな広場があった。そこに立てられてある棒には牛頭を表現したオブジェが飾ってある。何らかの行事が行われる時はこの広場が使われるのだろう。しかし、私達が訪れた時は何をするでもない、人影のまばらな静かな村があった。
 

 民家の中を歩いて行くと、あや取りとしている女の子がいた。私が子供の頃にやったのと同じパターンだ。とても懐かしかったし、中国の子供達も同じ遊びをすることに親近感を抱いた。
 
 また、闘鶏をしている男の子にも出会った。2羽の雄鶏をけしかけると、毛を逆立てながら飛び掛っていき、かなり激しく攻撃し合う。本能で闘うのだろうか?初めて見る光景にちょっとびっくりしたが、鶏の周りを囲んで見物しているじいさま達は、実にのんびりとしたものだった。
 

 村の見学も早々と終わってしまったので、午後2時のバスで雷山に戻ることにした。思い描いていた村の様子とはかけ離れていたのでちょっと残念だったけど、それは村を訪れる側のエゴに他ならないのだ、とも思う。

 雷山からバスに乗り、午後6時に凱里に到着した。
 凱里でやらなければならないこと。私はデジカメの写真が入っているCFカードの中身をCD-Rにコピーすること。S嬢はフィルムを補充すること。そのためにわざわざ凱里に寄ることにしたのだ。
 それぞれの用事を済ませてホテルに戻り、あまり直視したくなかったのだが体温を測ってみることにした。体の痛み、悪寒、そして38℃弱の発熱。

 かなり、まずいですねぇ…。
 
 暖かくして薬を飲んでベッドに潜り込む。夜中にびっしょりに濡れた服を着替えた後は、朝までグッスリ眠った。





 〜増沖にある鼓楼がトン族の鼓楼の中で一番美しい〜

 そんな紹介文を読んでしまったなら、そしてトン族が旅のメインの1つだったなら。やっぱり増沖には行っておかないといけないでしょう!

 
 増沖までのルートはいくつかあるようだが、溶江からアタックすることにした。そこで凱里から溶江までバスで移動した翌日、タクシーを捕まえることから開始した。
 3台目のタクシーでやっと増沖のことを知っている運転手に巡り会えた。料金は往復で言い値150元を何とか140元に値切る(もちろんS嬢がね!)。増沖までの道はかなり悪いらしく(彼曰く【不好走】)、10元しか値切れなかった。人柄もよさそうだったし、何と言ってもつぶらな瞳が犬のようで可愛くて、そのおにいちゃんに連れて行ってもらうことに決めた。
 増沖までの山道は、もちろん舗装などされていない粘土質の土である上に、当日の朝に雨が降ったばかりという、まさしく悪路という他はなかった。タイヤが滑り始める度に、右に左にクルクルハンドルを忙しそうに回していた運ちゃんの姿が、車がツーっと滑っていく感覚とともに脳裏に焼きついている。

 途中からかなり霧が濃くなってきた。「どうか晴れますように!」という願いも届かぬまま、約1時間半で増沖に到着した。車は村よりも高い位置に停車した。車から降りると、霧に包まれた鼓楼と黒い瓦屋根の村が眼下に広がっていた。


 村まで下りて行くと、懐かしい音が聞こえてくる。「あれは風鈴だよ」と運ちゃんが話しかけてきた。まさかこんな所で風鈴の音を耳にするなんて思いもかけなかった。日本人の夫婦がここに泊まりにきたことがあるらしい。その時に置いていったのがこの風鈴ということだった。夏なら泊まれるかも知れないが…。こんな寒い冬じゃ無理!と心の中でつぶやくのだった。
 村のシンボルとも言うべき鼓楼は、貴州省の重要文化財に指定されてある。ガイドブックによれば300年以上も前に建てられたトン族最古の鼓楼だという。そんなに古いものとは思えないぐらいきれいな状態が保たれている鼓楼だったが、やはりずっしりとした威厳を感じさせるものだった。鼓楼の下は村の男の人達の溜まり場、兼、子供達の遊び場になっていた。

 鼓楼の奥にある広場は村人で賑わっていた。湯気が立ち上っていて、何か作っている様子だ。近付いてみてびっくり!お餅だ!お餅を作っている!でも、昔の日本でやっていたようにペッタンペッタンと餅をついてはいない。炊き上がったもち米を機械に入れる。すると、挽肉を作るのと同じように餅が複数の穴からにょろにょろと出てきて、バケツの中に吸い込まれていくのだった。


 「わー、すごいっすごいっ!」と声を上げながらジーっと見ていると、側にいたお母さん達が「食べなさい!」と餅を差し出してくれる。
 「いらない、いらない」と断っていたのだが、あまりに勧められるので頂くことにした。引っ張るとビヨ〜ンと伸びる餅を、わざと大げさに引っ張って見せながら口に運ぶ。
 「あれ、見てごらんよ。珍しいのかね?」そんな感じで明るいお母さん達は私を見て大笑い。私も大笑い。すっごく気持ちよく笑えた。つきたてのお餅もとってもおいしかった。
 
 
 1時間半という短い滞在だったが、本当に活気ある村だった。人々(特にお母さん達)が非常に生き生きとした、楽しそうな表情をしているのが印象的だった。とにかくコロコロとよく笑う。笑顔のパワーを感じた一時だった。





 肇興はトン族の村の中で一番大きいらしい。それにゲストハウスもある、とガイドブックにある。交通の便もいいだろうし、ここで春節を過ごせばいろいろな面で便利かもしれない。そう思って溶江からバスを乗り継いで肇興にやって来たのは、大晦日の前日、2月7日だった。

 肇興の中心地らしき場所でバスを降りる。時折爆竹を鳴らす音が響いている。春節が近付いてきていることを実感させる音だ。

 
 いくつかの宿泊地が目に留まる。どこにしようか?と思っていたら、皇太子のような穏やかなおじさんが呼び込みにやって来た。とりあえずそこを見てみようということで、おじさんについて行った。
 小奇麗な部屋で清潔感「○!」だったのでそこに決めた(S嬢がちゃんと値切ってからね)。しかし、暖房はないので三江の程陽橋で泊まったところと同じように、夜は寒さとの闘いになるのは目に見えていた。
 同じ旅館には、既にアメリカ人のカップル(湖南省の長沙で英語を教えているらしい)と中国人1人が泊まっていた。欧米の人が中国語を話すのって、何だかとっても不思議な感じ。私の周りにたまたまそういう人がいないからだと思うけど、きっと私達日本人よりも上手な発音で話すんだろうなぁ、とふと思ったりした。

 旅館に到着後、間もなくして小雨が降り出したのでどこにも観光には行かなかった。時間はたっぷりあるのだ。近くの小料理屋でしこたま夕飯を食べて、旅館の居間で炭火に当たりながら、旅館の家族や旅行者と21:00までおしゃべり。
 一人で旅をしている中国人(♂)、みんなが呆れるほどめちゃくちゃしゃべる。しかもかなり早口だ。しかも今日肇興に着いたばかりなのに明日はもうここを発つらしい。ちゃんと観光したのかしら…?
 「明日は公共のバスも止まってしまうからやめとけ!」とみんなで言ったけど、彼の決意は固かった。実は彼の仕事はガイドで(どうりでおしゃべり)、いろんな所を旅したいらしい。彼のおかげでオススメの場所などの情報が集まったので、今後のプランを立てる上でも役立った。そして彼は翌日、個人的に頼んだ車で従江へと出発した。バスだったら20元のところを200元もかけて!



 翌日は10時に起きて、昨夜も行った小料理屋で朝食兼昼食を食べた後、古い鼓楼があるという紀堂に歩いて行くことにした。旅館の御主人が歩いて40分ぐらいで行けると教えてくれたのだ。地図を見ながら、そして人に聞きながら、山道を歩いていく。
 当然舗装なんてされていない道で、昨夜の雨の影響もあり、かなりドロドロになっている箇所もあった。靴が泥にくっついてうまく歩けなかったり、滑ったりと本当に大変だ。苦労している私達の目に映るのは、そんな道をものともせずにさっさと歩く地元の人達。足取りの軽いおばあちゃんは、泥にはまっているS嬢を助けてくれた。
 おばあちゃん!かなりの達人ですねぇ!かっこいい〜!
 1時間強もかかって、やっと紀堂の入り口までたどり着いた。肇興に比べて標高の高い場所にあるので、登り坂のオンパレードだ。こうなるといつもは有り難いロングのダウンが邪魔になる。ファスナーを開けて少し冷たい空気に触れ、ほてった体を落ち着かせる。こんな時期にまさか汗をかくなんて、重力に逆らうってすごいエネルギーを使うのね…。
 その入り口からさらにドロドロの道を10分ぐらい歩いて、やっと紀堂の村に入った。村の人に鼓楼の場所を聞きつつ目的地に到着。しかし、これまで見てきた鼓楼と比べて特に特徴があるようにも見えなかった。鼓楼ばかり見てきたせいか?トレッキングで疲れていたせいか?
 今考えてみても増沖の鼓楼の方が赴きと威厳があって、印象に残っている。
 歩いて帰りたくない…。S嬢も同じように思っていた。そこにちょうど三輪バイクが村の人達を乗せて出発しようとしているのを発見。私達はそれに便乗して肇興まで戻った。
 かなり揺れる道で、左右に分かれて必死に幌の骨組み部分に捕まって座っていた私達。そんな私達の間にはバイクのおっちゃんの小さな息子が立っていた。片手で軽く幌の柄を持っただけで、前方をジッと見据えたまま手袋もせずにクールに立っていた。
 こんなに揺れるのに平気なの〜?寒くないの〜?

 …ふふっ。やっぱり寒かったらしい。
 肇興につく頃には、着ていたセーターの袖を伸ばして手を覆っていた姿が子供らしくて可愛かった。
 

 少し休憩をした後、私達は几倫に向けてまた出発した。几倫は紀堂よりも近い場所にある村で、やはり鼓楼があるというので行ってみることにしたのだ。だが出発が遅かったので、几倫に着いた頃にはだんだんと暗くなり始めていた。だから鼓楼をサラッと眺めた後、すぐに肇興へと取って返したのだった。
 
 旅館附近まで戻ってくると、旅館の奥さんが迎えに出ていた。夕食は7時ぐらいから、と聞いていたのに少し早くなったということで、私達を探していたらしい。今日は旧暦の大晦日。それで、旅館の家族&旅行者で食卓を囲んだ
 食卓に並べられた料理に、去年はたくさん食べた餃子はなかった。北と南では春節を迎えるための料理も違う。ましてここは漢族ではなく少数民族トン族の村だ。
 一番珍しかったのは、『トン郷酸魚』という魚の料理で、これはトン族の特有のものらしい。唐辛子と酢を使って生の魚を1年間ほど漬けたという一品だ。
 食事の後は、みんなで一緒に定番の『新年聯歓晩会』という番組を見た。多くの中国人がこのテレビを見て新年を迎えるという、有名な番組だ。コントあり、歌ありの、バラエティー番組である。
 そして夜中の12時を迎える頃には、子供達も一緒に花火を上げ、爆竹を鳴らして新年を祝う。長春ほど派手ではなかったけど、同じように賑やかに新しい年を迎えるんだなぁ、と思った。花火をうれしそうに上げていたおじいちゃん!なかなかイカシテました。
 こうして新しい年を迎え、12時半に就寝。でも冷えきった部屋ではなかなか寝付けなかった。



 9日はいつもご飯を食べていたトン郷餐館のおばちゃんの家に、ずうずうしくもお邪魔する約束をしていた。11時に旅館に迎えに来てくれたのだが、部屋の鍵を昨夜失くしてしまったS嬢はしばらく鍵を探してから行くということで、まず私だけおばちゃんの家にお邪魔することになった。

 平屋のその家に入ると、おばあちゃんが炭火の上で唐辛子をあぶっている所だった。火の側に座ってしばらくその様子を見ていたら、そのうちおじいちゃんがやって来た。簡単な会話を交わしているうちに、そのおじいちゃんは小黄に知り合いがいることが分かった!!!
 数日後にまた小黄に行くつもりということを告げて、おじいちゃんに知り合いへの紹介文を書いてもらった。これはラッキー!縁ですな、縁。


 そのうちしーぷもやって来て(というか催促されたのだった)、いよいよお昼ご飯を食べることに!餐館の料理がおいしいだけあって、やっぱりこのおばちゃんが作る料理は美味い!
 ここの食卓にも『トン郷酸魚』がドンと置かれていたし、『酥肉』というすり身のだんご揚げもとてもおいしかった。日本のおかずを思い出させるようなあっさりとした味だった。

 食事の後は、おばあちゃんが刺繍を売り込んできた。ご馳走になったし、刺繍も欲しいと思っていたので1枚買った(50元を値切って42元)。月をイメージしているという丁寧で細かい刺繍が紺地に映えていてとても美しい。

 午後、旅館に帰ってから、前日この宿にやって来た2人の日本人(何と奇遇な!)+ガイドさんと、火を囲んでずっとおしゃべりしていた。彼女達は旅行社と通してここにやって来ており、今日は朝から「龍図」という村の観光に出かけていた。車があるのでいろんな所に行けるのだ。彼女達が龍図で撮った写真で、ガイドブックに載っているのと同じ民族衣装を来た美しいトン族女性の様子を見ることができた。
 しかし、不思議とそこまでうらやましい気持ちにはならなかった。おばちゃんの家で美味しいものにありつけ、素朴な交流ができたからか…な?



 10日も日中はどこにも行けず、ずっと肇興に閉じ込められていた。交通手段がないというのは結構つらいものだ。三輪バイクも春節のためにあまり動いてないし、公共のバスも通常通りには走ってない。
 今日の夜、ここ肇興で「トン劇」という出し物があると聞いていた。だから、予定よりも長めに滞在することにしたのだ。だが…あまりにも无聊(ヒマ)!!!

 
 
 仕方ないので肇興の村を探検する。小高い丘から見下ろした村は美しかった。今回の旅では「ちょっと高めの位置から見下ろしてみる」というのがポイントとなってる。目線が変わると風景も変わる。それがいい方向に変化する。

 散歩も終わり、旅館で日本人女性のガイドさんと火を囲んでおしゃべりしていた時。

 『トン族は、昔、他の民族と戦う時に女性のリーダを従えていた。彼女の指揮の下、幾多の戦いに勝ち、トン族は守られた。彼女は死後「上地坪」という所の近くにある山に祭られた。だから、今でも新しいトン族の村を作る時には、若者10名近くをその山へ向かわせて、そこから石を持って帰る。その石を村の中心に祭って、新しい村を作るのだ。』

 こんな話をしてもらった。その「上地坪」というのは肇興の近くにあるのだが、そこに行くには”山登り”をしなければならない。紀堂へ行くのにもひぃこら言っていた私達に、地元人が言うところの”山登り”なんてとてもできそうにない。
 後ろ髪惹かれつつも、話を聞いただけで満足することにした。

 そして夜の8時半から、いよいよ噂の「トン劇」を見に出かける。旅館の近くの鼓楼の側に舞台があり、村の人達が集まり始めていた。鼓楼の下は火が焚かれていて暖かい。火の側で開演を待つことにした。
 爆竹の音で劇は始まった。まずは、男の人達が登場。民族衣装を着ている人も、そうでない人もいる。何をするのかと思いきや、中心にいる老人の周りを男どもが手を繋いでクルクル回っている。「かごめかごめ」でもしている感じだ。真ん中にいる老人は、歌?お話?何だかよく分からない事を口にしている。しばらくすると、真ん中の老人が交代する。
 …うーむ、何か特別な意味を持つ動作なのかもしれないが、非常に単調な劇??というのが感想。

 次に現れたのは民族衣装を身に纏った女性陣。「おぉ、歌で有名なトン族の娘達か?」。
 彼女達は歌を歌っていたが、よ〜く見てみると結構ご年配の方々で、生娘という訳ではない。しかし、最初の出し物よりは格段によかった。
 その後、劇らしきものが始まった。しかし、トン語による劇なので、話はさっぱり分からない。非常に動きの少ない劇で、男装した女性や、女装した男性なども途中で登場した。が、何のためにそんなことをしているのかも分からない。内容の分からない劇を見る、しかも視覚的には意味が掴みにくい劇を見るのは、非常につらいものがあった。寒くて体が冷え切っていたのもある。

 という訳で、期待はかなり裏切られた感があるが、それでも伝統的なトン劇を見ることができたのはラッキーだった。 
 …と思うことにする。



 翌日肇興を立つ。目指すは従江なのだが、肇興から出るバスがない。困った…。
 
 S嬢が何とか見つけた三輪バイクで、まずは洛香まで移動することにした。10時前に肇興とおさらばだ。

 肇興は交通の便がいい、と思って春節を過ごすことに決めたのだが、結果的にはさほど便利ではなかった。春節の間、どこへも行くことができなかったし、肇興を出発する日もかなり苦労した。確かにいくつかゲストハウスはあったし、今までのトン族の村の中では大きかったけど、そういう意味では誤算だった。トン劇もちょっと誤算…。

 さて、洛香についたものの、そこから従江までのバスがあるのか??住民によると、日に3本のバスがあって、すでに2本は出発したらしい。最後の1本は12時ぐらいにあるという。そこで、お昼ご飯を食べながら待つことにした。

 小さな料理屋に入って、チャーハンを頼む。ここのチャーハンは日本のものを思わせる、素朴な味付けだった。まだ出発までの時間はある、余裕余裕と思って食べていたのに、従江行きのバスが出発するから早く!と店の人から急かされた。チャーハン、残しちゃった…。

 こうして無事に従江に帰ってきた。今回は前回と違う宿に泊まることにした。前回の宿はあまり清潔ではない印象があったからだ。そして、従江へ着いたら例のおしゃべり中国人ガイドオススメの「銀潭」へ行こうと話していたのだが、私は体調が悪くてムリ!また発熱しかけてる…。
 「S、一人で行ってきていいよ。私、ムリそうだから寝てる。」
 「え?せっかくだから、一緒に行こうよ。今日は休んでさ。」

 …うぅぅ、ありがと〜、S!!!





‥∴‥∵‥∴‥ 春節4日目(初4)の小黄 ‥∴‥∵‥∴‥


 元々は春節3日目に行こうと考えていた小黄だったのだが、日程の関係から4日目になってしまった。果たして噂の美声を聞くことができるのかどうか…。確実な情報はないまま、従江で小黄へ行くための車を探す。もう三輪バイクはこりごりだった。
 私は風邪のために体調があまり良くなかったので、S嬢が頑張っていろいろと動いてくれた。そして中国人旅行者から得た情報は私達を喜ばせてくれるものだった。
 「自分達は昨日小黄へ行って今朝帰ってきたばかり。昨日は彼らの歌を聞くことができたよ。でも今日はもっと大勢の人達が歌うよ。」

 うむむぅ〜、これは何としても今日小黄へ行かねば…!!

 「出租車(タクシー)」と書いてある軽トラックを捕まえて小黄までの往復を聞くと300元。平日は180元だが今は正月料金で高いのだという。値切っても280元までしか下がらない。高い!他に軽トラの姿は見えない。とりあえずご飯を食べながら一緒に小黄へ行く旅行者が来るのを待つことにしよう…。
 S嬢とご飯を食べている間に、その軽トラはどこかへ消えてしまった…。S嬢が軽トラを探しに行くが見当たらない。ガーン!行けないかもしれない。そうしている間に、別の軽トラが1台滑り込んできた。しーぷが捕まえに行くと、往復240元ということで速決。あぁ、よかった!

 小黄までの道はものすごかった。昨夜の雨のせいで大きな水溜りもたくさんできているし、かなりぬかるんでいた。雪道以外であそこまでスリップしたのは初めてだ。行きは登りが多いので動力を使わなければならない。アクセルを踏み込みながらカーブを登る時は、道に対してかなり斜めになった状態で滑りながら進む。車の中で踏ん張っても仕方ないと分かっていながらも、ついつい足に力が入ってしまう。道の片側は山なのだがもう片側は崖になっているので、落ちたらおしまいだ。
 「ここに私達の墓が立つことになりませんように!」などと真剣に念じる。おっかなびっくりの私達をからかうようにしながら車はゆっくりと進んでいった。約1時間かかって午後2時前に小黄の村が見えてきた時には、思わず拍手!


 小黄に着くと、数日前に来た時とは随分と違う様子だった。静かだった村にはかなりの乗用車が乗り入れており、大きなイベントがあるということを予感させる。鼓楼の周りには多くの観光客が集まっていたが、まだ動きはなさそうだった。だから、とりあえず肇興で知り合ったおじいさんに紹介してもらった呉先生の家を訪ねることにした。
 人に聞きながら呉先生の家を探して門をたたく。呉先生は予想していたよりも若い男性だった。おじいさんから紹介してもらったことを告げると中に招き入れてくれた。炭火に当たりながらおじいさんからの手紙を見せて、家族の人も交えてしばらく話をする。呉先生は小黄の小学校の先生で、実に温和な優しそうな人だ。
 今日小黄で歌が聴けるのかと聞くと、午後3時ぐらいから鼓楼で始まるということだった。呉先生には小学生高学年ぐらいの娘さんがいて、彼女も後から民族衣装に着替えて参加するということだった。私達は期待に胸を膨らませた。

 

 呉先生は「歌が始まるまでまだ時間もあるからご飯を一緒に食べよう」と誘ってくれた。今から昼食?時計は午後2時半を指している。
 三江で泊まった宿のトン族の人達も、朝ご飯は10時ぐらい、昼は2時ぐらいで夜は8時ぐらいに食べると言っていた。少数民族の人達は全体的に活動時間が後ろにずれているのかなぁ…?
 私達はもう食べてきたからと断ったのだが、結局ごちそうになることになった。低いテーブルに並んだのは、香りのよいもち米、炭火で焼いたばかりの塩辛い牛肉、スープ、肉の燻製だった。
 もち米は手で掴んで食べる。この食べ方がおいしいのだそうだ。三江で赤ちゃん誕生を祝う時におばあちゃん達も手で食べていたなぁ、と思い出した。お腹はあまり空いていないはずなのに、結構食べてしまった。素朴な食事だったが、おいしかったのだ。

 しばらくすると、外が賑やかになってきた。呉先生はまだ始まらないと言っていたが、どうにも気になったので外に出てみることにした。すると、鮮やかな民族衣装に身を包んだ子供達の姿があちこちで目に止まった。銀が施された衣服、銀の大きな首飾り、それからきれいな花で飾られた結い上げられた髪。鼓楼の周りでは芦笙の練習をしている男性の姿も見られた。お祭りムードが盛り上がってきた。

 呉先生の家まで戻ってみると、娘さんもきれいに着飾っていた。誘いに来た友達の中には、前に小黄に来た時に見かけた少女もいた。カメラを向けると、恥じらいながらもその表情にはうれしさと誇らしさが見てとれた。


 そのうち、男性陣が芦笙を吹きながら練り歩き始めた。3つのグループがそれぞれ小黄にある3つの鼓楼に向かっているようだ。
 そしてドーンという大きな音が鳴り、それを合図に各鼓楼で火を遠巻きに囲んで座っている少女達が歌を歌い始めた。

 美しい彼女達の声は鼓楼の中に響き渡る。少女の後ろには家族がついていて、時々娘の後ろに座った母親が一緒に歌っている。歌詞を教えているように見えた。
 最初、歌っているのは少女ばかりでいわゆる年頃の女の子の姿は見られなかったのだが、1時間ぐらい経ってから高校生ぐらいの女の子達がやって来た。彼女達の歌は、少女達のよりしっかりしていて声の響きもさらに美しかった。
 3つの鼓楼を順番に見て周り、最後は気に入った鼓楼に座ってずっと歌を聴いていた。
 「もうそろそろ帰ろう。」と誘いに来た軽トラの運ちゃんを軽く無視しつつ、5時前までトン族の正月を楽しんだ。帰る間際には、年頃の男の子も参加して三線を弾きながら歌を歌い始めたので、名残惜しいと思いつつも小黄を後にした。

 呉先生によると、小黄では正月3日目から5日目まで賑やかで、4日目の夜は夜通しで歌を歌うそうだ。3つの鼓楼にそれぞれのグループが集まるらしい(若い娘達のグループ、男性グループ、もうひとつはよく分からなかった)。
 残念ながらそれを見ることはできなかったのだが、とりあえず小黄のお正月を垣間見ることができてラッキーだった。呉先生に頼めばきっと私達を宿泊させてくれただろうが、その勇気はなかった。それぐらい、貴州の冬は私の体に堪えるものだった。





 今日ははりきって6時半起床。
 肇興で知り合った中国人ガイドが、トン族の鼓楼なら絶対にお薦めだと教えてくれた銀潭。そこまで薦められたら見ないわけにはいかない!!と、急遽銀潭行きを旅に組み込んだのだった。
 まずは、昨日小黄から帰る時に泥道でドロンドロンになって履けなくなってしまったS嬢の履物(長靴)探しと、銀潭まで運んでくれる幌付きの自動三輪モーター車を求めて彷徨う。面包車(小型自動三輪車)では銀潭まで行ってくれないらしいのだ。
 適当にたむろしている三輪車のにーちゃんに値段を聞いてみると、往復で160元もかかるという。高い〜!!そのにーちゃん達の中に、昨日小黄へ連れて行ってくれた顔があった。彼は150元でOKらしいそこでS嬢の登場である。結局長靴代込みで140元に値切ったのだった。
 銀潭までは、登りの多い往路が1時間ぐらい、復路は50分ぐらいだった。貴州の山道はどこも状態はよくない。その上昨日の雨でさらに滑りやすく、特に行きは登りが多いので特に怖かった。しかし、このような道にも随分と慣れてはきていた。いくつかの山を越えて、銀潭に到着した。



 銀潭はこじんまりとした村なのだが、その小さい村は2つも鼓楼を擁している。その鼓楼は非常に威厳があり、村のシンボルだ。形もとてもかっこよく、私の中では、今まで見た鼓楼でトップを争うほどステキだ。
 
 銀潭に住む人々の多くは、民族衣装を身に纏っている。子供から老人までトン族の衣装で生活している。大きな町から隔離されている村ほど、昔ながらの生活が残っていることがよく分かる。
 牛を追う少年、手で洗濯をする少年少女達、鴨を追うおばあちゃん。外部の人間を拒絶することなく、カメラを向けた時の人々の表情はとても優しい。

 2時間ばかり村のあちこちをゆっくりと散策した。間近から見上げる鼓楼もすばらしいが、小高い場所から見下ろす村の風景に溶け込んだ鼓楼が一番美しいと思った。
 





 凱里の近くでミャオ族の踊りが見られるらしい。
 ガイドブックでそのような情報を得ていたわたし達は、とりあえず凱里まで行きそこで情報収集をすることにした。目的地は鴨塘と新光の二箇所。ホテルのフロントで何とか行き方を教えてもらい、バスに乗って出発!!
 バスを乗り継いだ後、そこからはタクシーで鴨塘まで移動だ。運ちゃんに30元かかると言われたので、かなり遠い場所にあるんだと思っていたら15分程度で到着してしまった。それで30元かよ〜、高すぎるっ。
 11時半に鴨塘に着いてから、またもや情報収集。いろいろな人に聞いてみると、どうやら芦笙会が開かれるのは間違いないらしいが、人によって開始時間がバラバラなのだ。2時開始、3時開始、4時開始…。一体どれが本当なの??

 とりあえずは腹ごなし。S嬢と炒粉を食べて付近をぶらぶらを散策する。しかし、何もおもしろいものがない。そういう時の時間はなかなか経たないものだ。なんとか辛抱して3時に会場へ行くと、徐々にそれっぽい人達が集まってきた。いい感じだ〜。

 次第に、男性が吹く芦笙の音に合わせて踊りを踊る女性が増えてくる。芦笙の音色は優しく穏やかで、心地よい。そして踊りは激しいものではなく、あくまでもスローペースだ。小さな子供達も輪に入って一緒に踊っているのが何とも可愛らしい。
 

 しかし、どうやら今日はリハーサルだった模様で、明日が本番らしい。だから、民族衣装をちゃんと着ている人も少なく、ちょっと残念だった。

 5時半過ぎに凱里へ戻る。若干の買物をした後、悲劇が起こる。カメラ屋さんで、デジカメのメモリカードをCD−Rに追加書き込みしてもらったのだが、何とCD−Rに元々入っていたデータが消えてしまったのだ〜!!旅の最初の数日分が一瞬でなくなってしまった(涙)。最低だ。でも店員はちゃんと謝ってくれたので許す…。許さざるを得ない…。

 夕飯は鴨子の火鍋。今回の旅で何度か食べたのだが、ここのタレが一番辛かった。でも鍋のスープには鴨子独特の脂っこさをあまり感じず、さっぱりとしていて本当においしかった。
 胃袋はあったかくなったのだが、今日は本当に寒い。夜は、かなりの重装備(下半身:綿ズボン下+毛糸ズボン下+ジーンズ+ジャージ。上半身:ババシャツ2枚+セーター2枚+ロングダウンコート。)で布団に入ったのに、それでも足先は冷えて寝付けなかった。わたしって異常?



 翌日はもう1つのミャオ族の村、新光へ出かけてみることにした。舟渓行きのバスに乗り、新光村で下車して歩いて向かう。途中で出会った人に新光で活動(催し物)があるか尋ねたところ、今日は何もないという返事だった。ガーン!!しかも、新光ではない方向に歩いていたことも判明…。二重にショックだ。
 だが、拾ってくれる神もあるものだ。道で知り合った2人のおじさんから偶然にも鴨塘と犁刀湾で何らかの活動があるという情報をゲットした。そして私達をそこまで連れて行ってくれるというのだ。これはラッキー★

 
 4人でバスに乗り、おじさん1人は途中下車。結局3人で鴨塘へ到着した。
 会場へ着くなり興奮しまくりだ。すごーいっ!!

 きらきらの民族衣装を身に纏った女性が大勢いる。昨日の衣装のみの姿が霞んでしまうぐらい、今日は様々な装飾品で着飾っている女性達がまぶしい。水牛をモチーフにしているという銀の冠や、ジャラジャラと首から下げられている銀のネックレスが衣装を引き立てている。それにしても重たくないのかなぁ?
 狭い校庭には全部で9つの輪ができ、それぞれの輪毎に芦笙に合わせて踊りが繰り広げられている。恐らくミャオ族の村ごとに輪を作り、芦笙や踊りを競っているのだろう。芦笙のメロディやリズムも違うし、女性陣の髪型や衣装もそれぞれに特徴があっておもしろい。



 
 そして子供もちゃんとちっちゃな民族衣装を身に付け、輪の中に入って一生懸命に踊っている姿ががとても可愛らしく微笑ましい。見物客もかなりの人数で、非常に華やかで賑やかな活動だ。

 2時間弱、いろいろな輪の踊りを見てまわった。そのうち、連れてきてくれたおじさんとはぐれてしまったので、S嬢と2人でご飯を食べて一旦凱里へ戻ることにした。

 凱里のホテルで犁刀湾の位置を確かめてみると、フロントからの予想外の答えに肩を落としてしまった。犁刀湾は鴨塘の近くにあると教えてくれたのだ。おじさん達は凱里の北側だと言っていたので、鴨塘から凱里まで北上してきたというのに…。
 

 今からまた犁刀湾まで行くにはあまりにもロスが大きいしそんな気力も失せてしまったので、潔くあきらめることにした。牛のショーがある(闘牛かな?)があると聞いていたので残念ではあったけど、ミャオ族の踊りを堪能していたのでそれだけで十分心は満たされていた。





 凱里を朝10時に出発し、銅仁経由で鳳凰へと向かう。凱里・銅仁間は悪路もいいところだった。バスは左右に大きく揺れるし、道には大きな水溜りがあちこちにできていた。こんな調子なので、予想より大幅に遅れて16時半にやっと銅仁に到着。
 できれば今日中に鳳凰に入りたかったので、別のバスターミナルへ向かうと、運良く吉首行きの中型バスを発見(吉首の手前に鳳凰がある)。しかしこのバスがまたびっくりするぐらいぼったくり野郎!!だった。
 通常は鳳凰まで15元なのに、春節料金30元+残業運転代10元+吉首までの差額料金の10元も払えという。計50元だ。しかし、どうしても今日中に鳳凰まで行きたかったので、むかつきながらも50元払った。あ〜、足元をみやがって〜!!

 銅仁を17時15分に出発して、19時に鳳凰に到着した。やれやれ。
 バスターミナル付近のお店のお姉さんが鳳凰まで案内してくれ、さらに宿まで紹介してくれた。木造の部屋で雰囲気はとてもよい。ただ、トイレが異常に狭いのは困りものだった。
 夕飯は、古城内で土鶏(地鶏だと思う)鍋を食べた。鴨や鶏など、南方は本当に鶏の鍋料理が多く、そして美味しい。
 



 昨日からの雨はなんとか止み、翌日は曇天。鳳凰の古城をぶらぶらと散策していたのだが、ここは観光地。つまり、お土産屋さんがたっくさんあるってことだ。
 そしてオンナ2人の旅。当然のことながら、買物モードに突入してしまった。
 銀のアクセサリー、少数民族の刺繍が美しいかばん、麻の服など買いまくりだ。今まで買物をしたといえば、三江でのトン族民族衣装&綿ショルダーバック&刺繍布、肇興での刺繍布、西江での銀のアクセサリーぐらい。かなり抑えてきた。そんな状況だったので、火がつくのも容易だったのかもしれない。
 帰国後も使ってるものが多いので、かなりお買い得だった思う。

 さて、鳳凰でもこの地方の特色ある食事をした。

 
 お昼はミャオ族特色の『月昔肉』(※1文字目は月+昔という漢字)という豚の肉だ。塩漬け豚肉の薫製でベーコンのような感じである。結構塩辛いのが難点だけど、美味しい!!この肉は、古城内の店でも売っていた。豚の頭の薫製が店先にぶら下がっているのはかなりインパクトがあり釘付け状態になってしまう。
 夜もミャオ族特色の料理で、牛肉&豆腐の炒め物と、ちょっとクセのある鴨脚板という名の青菜の炒め物。どれも美味しく頂いた。



 翌日は、鳳凰近郊にあるミャオ族の村、老洞へお出かけ。
 詳細については、「開放されたばかりのミャオ族の村 〜老洞〜」にて。

 夕方には鳳凰へ戻ってきて、夕飯はで見た目はかなりグロテスクな感じの鍋『血米巴鴨』(※2文字目は米+巴という漢字)という名物料理を頂いた。もち米とアヒルの血で作ったという鍋。赤色がちょいと毒々しい。唐辛子のせいで分からなかっただけかも知れないが臭みは感じなかった。美味しいともまずいともなく、黒っぽい団子のモチモチとした食感が印象に残る鍋だった。



 
 翌朝も相変わらずの曇天だが、雲は薄くて空は若干明るい。
 2日前はショッピングばかりしてしまい、肝心の古城はあまり見物してなかったので、出発前に古城内を散策する。
 鳳凰は今までのミャオ族の村のような木造建築ではなく、石造りに瓦の建物で構成されており、整然としていて趣がある。四方が反り返っている屋根の形に特徴があり、建造物は非常に美しい。古城内にはゆったりとした大きな川が流れており、生活のためか、遊覧のためか、木造の多くの舟が繋がれている。これらが一体となりさらに美しい景観を作り出している。
 のんびりと散策するにはよいところだ。

 そして私達は古城をあとにして、『奇梁洞』を見るために吉首行きのバスに乗った。
 奇梁洞は、いわゆる鍾乳洞だ。入場料は50元。結構いい値段である。私達を含む5名程度が1グループとなり、中国人ガイドに連れられて奇梁洞見学ツアーの始まり始まり…。

 それにしてもスケールの大きさに圧倒されるばかりであった。洞窟の空間も広ければ、その中に広がる異国の世界の造りもダイナミックである。一体どれだけの時間をかけてこんなに立派に成長したのだろう?山口県の秋吉洞なんて奇梁洞に比べたらまるで赤ん坊みたいなものだ。
 洞窟内は、中国にありがちな、派手できらびやかなライトアップで包まれている。赤、黄、緑、紫など様々な色のライトが洞窟内を照らしているのだが、自分的にはもっとシンプルな光のほうが好き。
 そして、これも中国だなぁと思ったのが、あまりに開放的なところ。洞窟内は好きに触れることができるし、鍾乳石の上を歩いたりもできる。盗もうと思えば簡単に盗めそうだ。
 

 最初は見るもの見るものが珍しく、感嘆の声を上げていたのだが、贅沢にも時間が経つに連れて同じような景色にもかなり慣れてくる。そして2時間後には、心理的にかなりの満腹状態でツアー終了となった。

 昼食後、バスで吉首まで行き(約1時間)、そこで王村行きに乗り換える。王村は、S嬢お気に入りの中国映画の舞台になった場所であり、彼女のたっての希望で今回行ってみることにしたのだ。
 1時間強で王村に到着。バス停からしばらく歩き、探し求めていた映画ロケ地に着いたのだが、かなり観光地化されている様子にS嬢はショックを隠せない。他の家の方が昔の雰囲気を湛えていたりと、思い通りにはいかないこともある。


 しかし、映画で活気ある住人達が美味しそうに食べていた庶民の味「米豆腐」を食べることができた(2元)。映画ロケの場所で小さなお店が「米豆腐」という看板を出していたのだ。
 今、静かでガランとした村で米豆腐を目の前にする。映画のそれとは若干見た目が違うが、プルンとした口当たりのよい豆腐にスパイシーな唐辛子が効いている。何と言ってもだし汁がとてもいい味だった。





 老洞は、鳳凰で泊まった宿の人から得た場所である。最近観光客に開放された村で、数名を集めてのツアーが始まったばかりとのこと。そのような話に飛びつかない訳にはいかない。さっそく宿でツアーの申し込みをしたのだった。

 朝6:45に起床、8:10に宿を出発して集合場所へ向かう。数台の乗用車が用意されており、数組の観光客がそれぞれ分かれて乗車したのだがなかなか出発しない。どうも警察ともめている様子だ。
 えぇぇ〜?出発できるの??早くして欲しいのに…。
 どうやら車の定員オーバーを注意されているらしい。しかし車は増やせないらしくそれでごちゃごちゃ言い合いをしていたのだが、結局警察に罰金を払って9時にやっと出発となった(そんなんでいいのか!?)。

 老洞までの道のりはかなり予想外だった。まず、車で30分移動して長漂という所に到着。そこから定員20名ぐらいの川舟に乗り換えて約40分川を下り、茶坪という所へやってきた。そこから老洞までのトレッキング開始!!

 山道を約3時間歩くことになろうとは全く予想していなかった。きちんと整備されている道ではないので、最近の雨でずるずる滑る箇所もたくさんある。増水気味の川を渡る時はガイドに背負ってもらうことに…。しかも2回も。男性もいる中、ガイドも体力勝負の世界だ。
 滝を見たり、真っ黒は洞窟を通り抜けたり、鼻の形がおもしろい山を眺め上げたりと、非常にワイルドなトレッキングだった。分け入る山には電線などまったくなく、うっそうとした木々があるのみである。これこそまさに映画『山の郵便配達』の世界だ。
 老洞は標高の高いところにあるようで、徐々に雪も見られるようになったきた。もうすぐかな…もうすぐかな…と思いながら、雪解けのベチャベチャな道を恐る恐る歩いていると、向こうの方に村が見えてきた。

 やった!!ついに老洞に着いたんだ!!

 村へ着くと、村人達が歌を歌いながら出迎えてくれた。そして、懦米酒(もち米のお酒)を薦められる。これがここのミャオ族の歓迎の仕方なのだろう。女性の中には頭に布をぐるぐると巻きつけている人もいて、かなりでっかい帽子を被っているような感じである。民族衣装なのだろう。人々の背は概して低い。

 
 老洞の多くの家は様々な形の石を積み重ねて造られているが、中には同じ形に切り出した石を使った家もある。一部分のみ木を使った家も見られるが、基本は石だ。屋根は黒の瓦で覆われている。村の中の道も石道で、鄙びた雰囲気がとてもよい。一番古い家は築300年だという。ミャオ族の村といっても、場所によって木造だったり、石造りだったりとかなり違うんだと改めて感じる。

 到着そうそう、昼ご飯だ。鴨の火鍋をみんなで囲む。それから、村をブラブラと散策。ガイドに案内してもらいながら見学する。本当は好き勝手に見て回りたいのだけど、それは許されないらしい。ツアーだから仕方ない…。
 どの家も歴史を感じてしまうくらい古く、家の中には必ずと言っていいほど自家製の薫製豚肉がぶら下がっている。家内で薫製にするようで、柱も黒くいぶされている。これは虫食い予防にもなるんだろう。


 家によっては機織機もあった。今も現役で働いている様だ。観光客向けサービスからだろうか。家の女性が機を織る様子を見せてくれた。
 とある建物の中では水が湧き出していた。この水は共用のようで、村人で炊事などに使っているという。きれいな水には見えたけど、さすがに生水を口にするのは危険なので遠慮しておいた。

 そのうち、村の人たちが表演(出し物)をしてくれるというので、ちょっとした広場に集合。ちゃんと観光客用の椅子も用意されている。
 表演のトップは太鼓だ。『苗族花鼓』というらしい。男性ではなく女性が叩くのだが、結構力強くてかっこいい。
 次は苗語(ミャオ族の言葉)の紹介だ。ニーハオ(こんにちは)は「ンーロウ」というらしい。「ん」から始まる言葉は日本語にはないので非常に不思議な響きだ。

 ミャオ族の恋愛の紹介もあった。男性が女性に対してどのように告白するのか、観光客を巻き込みながら教えてくれる。かくいう私も餌食として指名され、顔に墨を塗られてしまった。男性は気に入った女性に隅を塗るらしい。そして女性が受け入れると恋愛成立ということだ。
 それからバンブーダンス。竹を使ってゴム跳びの要領で上手に跳んでいく。竹と竹を合わした時に鳴り響く乾いた音が心地よい。わたしは小学6年生の運動会で経験済みで、何とも懐かしかった。バンブーダンスは元々どの地方で始まったものなのだろう?
 そして最後はまた苗族花鼓で締めくくり。こうして老洞との人々との楽しい時間は終了となった。

 今から、またあの山道を歩いて帰るのだろうか…?ちょっと憂鬱になっていると、意外にもバスが待機しているではないか!!なーんだ、ちゃんと車でも来られる場所なんだ。ということは、あの自然たっぷりのトレッキングも老洞ツアーの立派な一部分だったというわけだ。
 名残惜しいが、老洞ともお別れだ。そして私達を乗せたバスは約2時間かけて鳳凰へと戻ったのだった。





 張家界は中国湖南省西北部にある。奇岩奇峰を要する風景は世界自然遺産に登録されると共に、中国重点風景名勝及び国家4A級風景区にも指定されている。張家界の中心は武陵源風景名勝区で、張家界国家森林公園、天子山自然保護区、索渓峪自然保護区、そして楊家界遊覧区から構成されている。せっかく湖南まで来ているのだから、張家界を見ないのはもったいない。

 王村を出発した後、張家界には夜8時前到着したのだが、バスを降りるや否やホテルの客引きやガイド達に囲まれて大変だった。無視して繁華街の方へ歩いていくも、1人のガイドはしぶとく付いてくる。結局根負けしてそのガイドが薦めるホテルに決めたのだが、値段の割に設備はよろしくない。明朝は退房(チェックアウト)しようと決める。

 翌日は8時にホテルのロビーで郭さんと待ち合わせをしていた。彼女は長春の友人M姐が張家界で日本語教師をしていた時の教え子で、今回M姐からの紹介で張家界のガイドをしてくれることになっていた。ガイドの資格も持っているらしい。
 郭さんはすぐに分かった。とてもおしゃれな女の子だったのでびっくりした。こっちは汚い格好をしているっていうのに…。美を忘れちゃいかんなぁ…。
 彼女の話だと、張家界見学をするには旅行団(ツアー会社)に申し込むとよいらしい。そうすれば彼女はガイド扱いとなり、彼女自身の入場料などはかからなくなるらしい。手際よく下調べもしておいてくれて、彼女お薦めの旅行団に申し込む(一泊込みで480元)。

 
 私達2人、郭さん、そして運転手の4名で旅行団を9時半に出発して、約1時間で張家界森林公園に到着した。張家界森林公園には、金鞭渓風景区と黄石寨風景区がある。郭さんの提案通り、まずは黄石寨という山を攻略することになった。
 黄石寨の頂上へ行くにはロープウェイもあるが、私達は山道を登っていくことにした。だが、張家界では珍しいらしく道には雪が残っている。そこで、滑り止めに雪道用のわらじを購入する。このわらじはものすごい威力を発揮してくれ大助かりだった。

 周りは天に向かって伸びている奇峰だらけである。山の木々の間からひょっこりとその姿を見せてくれる。雪化粧をした姿がまた美しさを引き立てている。道々には樹氷も見られ、それらの風景は登りのしんどさを和らげてくれる気がする。時にズルズルと足を捕られながら、ひぃひぃ言いながら、約2時間強で山頂へ到着。

 山登りをして思うのは、山頂からの景色のすばらしさがそれまでの苦労を帳消しにしてくれることだ。張家界森林公園をぐるりを見渡せる景色は圧巻だ。遠くの方はガスで少し霞がかっている。疲れを忘れてしばらくの間、幽玄的な山々を眺めていた。

 下りはロープウェーで一気に下降。時計は14時45分を指していた。雪景色はすっかり消え去り別世界のようだ。足が随分と軽くなった。
 そして約2時間半をかけて金鞭渓の側にある平坦な遊歩道約6Kmをゆっくりと散策する。金鞭渓風景区である。この遊歩道の両側には高い奇峰がそびえ立っている。黄石寨頂上では上から見下ろしていた奇岩を今度は下から見上げるわけだ。特徴のある奇岩・奇峰には特別に名前がつけられており、郭さんが歩きながら詳しく説明してくれたのだが、もう覚えていない…。

 ホテルは張家界森林公園から近い場所にあった。思っていたよりも豪華でエアコンまで付いているので驚いたが、効きは今ひとつだった。S嬢と2人でホテルの食堂で夕飯を食べ、疲れた体をゆっくりと休める。ガイドの郭さんと運転手の食事代や宿泊代は旅行団から費用が出るらしい。私達が払ったツアー代に含まれていることは間違いないだろう。

 



 翌日は朝9時に出発。今日は天子山に登るということだ。私達、頑張るなぁ!!
 張家界森林公園内を走っているシャトルバスに乗り、天子山登山口まで移動して10時に登り始める。今日は昨日の曇天とは変わって天気がよく、地面の雪も少しずつ溶け始め、登山道の周りの木々の氷もバラバラと落ちてくる。結構大きな氷の塊も降ってくるので危険だ。

 

 全工程の1/3ぐらい進んだところで、前方から女性達が引き返してきたのに出くわした。この先は木が倒れていて進めないという。その話を聞いて、一旦は引き返すことに決めたのだが、途中の休憩所のおじさんによると登っていった人もいるということだ。当たって砕けろということで、山頂を目指してまた引き返す。約1時間のロスをしてしまった。
 確かに倒木はあったものの、全然たいしたことない。それにしても昨日の黄石寨に比べたら坂もハードだし、道もあまりよくない。まだか、まだかと思いながら登り続ける。
 そして15時過ぎにやっとのことで山頂へ到着した。本当にきつかったけど、眼前の風景はすばらしい。水墨画の世界が奥の奥までずっと広がっている。頑張って登った甲斐があったというものだ。

 
 下りは昨日と同じくロープウェーを使う。約8分で麓に到着。あの長い時間をかけての登山がたったの8分で終わってしまった。
 ここで、昨日からずっとお世話になっていたわらじともお別れだ。かなりボロボロになりながらもしっかりサポートしてくれてありがとう。

 そして17時半に張家界森林公園を離れる。
 サヨウナラ、絶景!!幽玄の世界!!
 

 今夜のホテルは運転手が手配してくれた「東玉楼大酒店」。2人で80元と安いのに、めちゃくちゃきれいなホテルだった。信じられない〜。夕飯も地元のおいしいお店を紹介してもらい、お腹も満たされてかなり満足。さらに足のマッサージまで紹介してもらった。2日間酷使していたので棒のようになっていた足。マッサージは本当に気持ちよく、極楽だった。お値段は1人75元。
 そして、私達2人がそれぞれの任地へ帰るための列車のチケットも手配してくれるという心遣いには感謝感謝だ。本当は長春まで一気に飛行機で帰ろうかと思っていたのだが、さすがに21時発、23時半着の飛行機には乗る気になれなかった。



 旅行最終日。9時前にホテルを出て、地元の物産品を求めて超市(スーパー)へお買物に出かける。いろいろと物色中に、郭さんから連絡が入った。S嬢の列車の時刻を間違えていたらしく10時発だということだ。急がないと間に合わないよ。ということで、S嬢は急いで駅まで向かうことになり、ここでお別れとなった。

 長々と一緒に旅してくれてありがとう。行き当たりばったり的なところがとっても楽しくて、よい旅になったよ〜。非常感謝!!

 その後、私はゆっくりと張家界の特産物を見てまわり、干芋、干楊梅、干キウイ(この辺りは干したものが特産なのだ)、そして生姜飴と葛根粉を購入。大満足。

 郭さんとの待ち合わせは駅で11時。そこで彼女と落ち合うと、なんとお父さんがお手製のご飯を振舞ってくれるという話だった。これは予想外。列車出発までの時間が短くて気になったけど、家は駅のすぐそばだということなのでお邪魔させてもらうことにした。


 家には日本のコタツ椅子バージョンのような暖房器具があった。張家界では一般的なもののようで、机の下に炭を入れた缶を置き、机に布団を被せるのだ。足が暖まるのはコタツと同じ。ただ、そのままごろ寝という訳にはいかないけど。  
 
 郭さんのお父さんが作ってくれた料理には、鳳凰で食べた例の薫製豚肉の炒め物もあり、少し塩辛かったけど美味しくて幸せだった。最後の最後に美味しいプレゼントをしてもらい、感激だ。本当にお世話になり、ありがとう!!

 張家界12時発北京行きの列車に乗り、コンパートメント付きの柔らかベッドでゴロリ。列車はみるみるうちに張家界から離れていく。
 あぁ、長かったこの旅もいよいよ終わるんだ…。寂しいような、ほっとしたような…。旅の興奮はまだまだ冷めないまま、列車は北へと走り続ける。