旧東海道線・京都駅〜馬場駅
 (完歩!)


 


(旧逢坂山トンネル下り線の内部 2011年1月9日 旧逢坂山トンネル東口で撮影)


回数 日にち コース 歩数 歩数のトータル レポ
2 2011.1.8(土) 旧山科駅〜京阪膳所駅 29,965歩 56,675歩 あり
1 2010.6.14(月) JR京都〜地下鉄小野駅 26,711歩 26,711歩 あり



旧東海道線跡を追っていて、私が日本の鉄道の歴史をあまりにも知らなさ過ぎることに気付き愕然としました。
そこで、日本の鉄道の歴史を調べることにしました。
それもインターネットを使ってだけでなく、書籍を使って裏付けを自分で取りながら進めました。
その結果、日本の鉄道の歴史が実にしっかりと私の頭の中に入りました。
また、旧東海道線とその跡地とについてより深く興味を持ちました。
まだ内容を今後追加することがあるかもしれませんが、当初計画していた調べをひととおり終えたので、そのまとめをここにアップすることにします。

                                                              2011年1月31日(月)

日本の鉄道の始まり
一般的には、新橋駅〜横浜駅間が日本で最初に敷設されたの鉄道路線だと思われています。
果たしてそうかどうか調べてみたら、営業運転ではありませんがそれ以前から日本では既に鉄道が走っていたという記録が残っていました。
1865年には、長崎の出島近くでグラバー達が500メートル程の線路を敷き汽車を走らせました。
また、1867年には、北海道で石炭輸送用のため3キロメートル余りの長さの鉄道が敷かれ利用されていました。

日本の旅客鉄道路線は政府の手で建設が始まり、1872年6月の新橋駅〜横浜駅間23.8キロメートルの仮営業へと至ります。
仮営業開始から4ヶ月後の10月14日には29キロメートル全線の本格運行が始まります。
その日を記念して、10月14日は「鉄道記念日」として今でも広く知られています。

開業当時の新橋駅〜横浜駅間の下等客車の料金は37銭5厘でしたが、当時は15銭ほどで一日の生活ができたことを思うとかなりの高値でした。
ただ、当時の鉄道の便利さは際立っていたようで、駅員が武士出身の人物が多く高圧的な態度だったにもかかわらず、鉄道の人気は高かったようです。
その頃ゆえの悲劇もありました。
当時の列車にはトイレがなく、途中で我慢できずに窓から小用を足した人もいましたが、そんな人には何と10円もの高額の罰金が科されたのです。
今で考えると、2ヶ月分ほどの生活費と同額になる計算。


鉄道の発達と、日本人の手による「京都駅〜大津駅」間の山岳鉄道の建設
新橋駅〜横浜駅間に続いて、2年後の1874年には大阪駅〜神戸駅間に鉄道が開通します。
そして、1878年には日本で3ヶ所目の鉄道である京都駅〜大津駅間の鉄道建設が始まりました。

この京都駅〜大津駅間の鉄道建設は、それ以前の2ヶ所の鉄道建設とは決定的な違いが二つありました。
ひとつは、日本人だけの手で建設された初めての鉄道線であるということ。
新橋駅〜横浜駅、あるいは大阪駅〜神戸駅を結ぶ鉄道路線はいずれも「お雇い外人」と呼ばれていた外国人技術者の手によって、鉄道建設も運転も全て行われていたのです。
しかし「日本の鉄道は日本人の手で造らなければ・・・」と関係者が次第に考え始め、大阪に鉄道技術者を養成する学校ができました。
その学校で鉄道技術を学んだ技術者たちが中心となり、京都駅〜大津駅間(18.2キロメートル)の工事が進められ、同時に機関士の養成も始まったのです。
そしてもうひとつは、それまで建設された2ヶ所の鉄道線が平坦路だけを走るものだったのに対し、初の山岳路線を走る鉄道であったということです。
その山岳部分は、山科の大塚地区と、そして逢坂山付近。
逢坂山にはトンネルが建設されましたが、その旧逢坂山トンネルはこれまた日本人だけの手で初めて掘削されたトンネルで、しかも輸入された機械は一切使わず全て手掘りで掘り進められ、完成しました。

京都〜大津間は、旅客鉄道としては日本で3番目にできたもの。
でも、日本人の手だけで建設した我が国初の鉄道路線ということと、そしてこれまた我が国初の山岳路線を含む鉄道という、画期的な鉄道路線だったのです。



官鉄から国鉄そしてJRへと至る、背景と変遷
日本の鉄道は産業用として需要があったと言うよりは、欧米から遅れること50年とも言われた文明の遅れを一刻も早く縮めるためにその建設が始まったようです。(ネット上ではその頃の鉄道を「官鉄」と表現しているHPが多いようです。)
しかし、工業化のテンポに合わせて鉄道の必要性と需要が急激に高まりますが、資金の不足などであまり建設が進みませんでした。
そこで政府は民間会社にも鉄道の建設を認めることにしました。
そのため各地で鉄道会社が設立され、現在の東北本線や山陽本線、鹿児島本線などが、民間鉄道会社の路線として相次いで誕生しました。

しかし、日露戦争の頃から鉄道の重要性に気付いた政府は、1906年に「鉄道国有法」を制定し、主な民間鉄道会社17社を買い取って「国有鉄道」としました。
国鉄の誕生です。

その後順調に発展し続けてきた鉄道は、軍事輸送の手段としても極めて重要な存在でした。
ゆえに、日本ではその後の急激な鉄道線の発達の割には電化があまり進みませんでした。
その理由は、「戦争で攻撃を受けて変電所などの施設が破壊されると鉄道が動かなくなる。だから電化は極力控える。」というものでした。
だから、線路が破壊されない限り自力で動くことが可能な蒸気機関車が重要視されたのです。
パソコンで言うと、インターネット接続をしていない単独で稼働する、いわゆるスタンドアロンタイプの使い方とでも言うのでしょうか。

太平洋戦争で空襲の目標になった鉄道は、国鉄総延長のキロ数の5%にあたる1,600キロメートル、車両13,200両等を失う大きな被害を受けました。
しかし国民生活に欠かせない鉄道は、敗戦と共にいち早く再建されました。
敗戦直後は、戦争から帰って来た人たち、疎開先から帰ってくる人たち、買い出しの人たちで列車は超満員。
屋根の上にまで乗客があふれました。

前述のような理由もあって戦前・戦中には蒸気機関車がほとんどでしたが、平和な世の中になって電気機関車や電車がどんどん増え電化が進み始めます。
しかし、圧倒的な普及率だった蒸気機関車はその後も長く使われ続けます。
godzillaが高校を卒業した1969年の卒業記念旅行では山陰行きの普通夜行列車に乗りましたが、その時の列車もまだ蒸気機関車でした。

時代が流れ、電化の流れが加速して蒸気機関車は急速に姿を消し始めます。
次々に特急も誕生し、特急「こだま」の誕生で東京〜大阪間の日帰りさえもが可能になりました。
そして、新幹線の開通へと進んでいきます。

1987年に国鉄は再び民間会社となり、現在のJR各社になりました。

上記の経過をごく大雑把にまとめると以下のようになるのかなと、調査を終えた今は思っています。
もし違っていたら、ご教示くださるとありがたい限りです。
・日本における旅客鉄道の誕生→官鉄の誕生(官鉄)
・日本の旅客鉄道の発展期→官鉄の発展と民鉄の誕生(官鉄+民鉄)
・戦争を通して鉄道の重要性が認識され、主要民鉄を国が買収し官鉄と合体→国鉄の誕生(国鉄+小規模民鉄)
・鉄道路線の発展期→ローカル民鉄の発展と増加(国鉄+民鉄)
・国鉄の分割と民営化→JRの誕生(JR各社+民鉄)


旧東海道線の山岳路線〜特に大塚信号所付近のことについて
旧東海道線の京都〜大津間が走っていた路線のことについては詳しく述べると膨大な内容になるので、ごく簡単に触れておきます。
かつて旧東海道線は、京都駅から今のJR奈良線の線路位置を南下し今の稲荷駅の少し南で東に大きくカーブし大津方向へと延びていました。
稲荷付近から東側の線路跡は、その多くが名神高速道路の敷地に転用されました。
旧東海道線の山科駅があった今の地下鉄東西線の小野駅近くには、「名神高速道路起工の地」という記念碑が立っています。

現在も残っている旧東海道線の遺構や跡地、その関連情報を、書籍によって調べました。
そのいくつかを以下に紹介します。

鉄道の廃線に関して書かれている本は、旧東海道線のことを調べるために公立図書館に行った時に何冊も見かけました。
でも、京都〜大津の旧東海道線のことが書かれている本は私が探した限りでは皆無でした。
だから、本で調べることよりも、むしろ調べる本そのものを「調べたり探したり」することの方がはるかに大変でした。


線路跡
・大塚北溝町で名神高速道路から西側に離れ、妙見寺前を通り、大宅中小路町で再び名神高速道路に接している道路。(市道小山大宅線)
・小山一石畑付近の名神高速道路の北側にある道路。(市道小山四ノ宮線)
(※いずれも、「区民が選んだ魅力を訪ねて 京都山科 東西南北」の20ページより)

スイッチバック式引き上げ線の線路下トンネル跡
旧東海道線の山科駅〜大谷駅の間は上り方向に向かって急な登り勾配が続いていおり、当時の時刻表によれば、汽車は下りの10分に対し、上りは17分も要していました。
1913年、東海道線の列車本数増加による線路容量不足を緩和するため、大塚地域に「大塚信号所」が設置されました。
信号所にはスイッチバック式の引き上げ線が設けられました。
妙見寺の南にある大鳥居の奥の東には煉瓦造りの壁面がありますが、これは引き上げ線の線路下にあったトンネルと伝わっており、当時の痕跡を残す貴重な遺構と言えます。
(※「区民が選んだ魅力を訪ねて 京都山科 東西南北」の20ページより)

大塚信号所付近での大事故
山科から大津までは大変な急勾配で、大きな事故もあったようです。
その記録を「老人が子等に語る山科風土記」で読むことができます。
「山科から大津までは大変な上り勾配で、汽車は大変往生していた。大塚に信号所があって、入れ替え作業中、大津から稲荷駅へ向かう貨物列車が将棋倒しとなり、一大事故になったことがあった。山科駅が新しい東海道線に変わる少し前で大正8年頃であったと思う。」
(※「老人が子等に語る山科風土記」の24ページより)


参考資料
・「日本の交通と運輸」(国土社)
・「日本人の20世紀くらしのうつりかわり7交通」(小峰書房)
・「老人が子等に語る山科風土記」(山科区老人クラブ連合会)
・「区民が選んだ魅力を尋ねて 京都山科 東西南北」(山科魅力発見プロジェクト)
・「京都山科音羽・大塚・音羽川二千年の歩み」(つむぎ出版)




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