Top>Novel>天使篇第一巻 |
∧ ∧ . ヾ(=w=;) Counter: URL:http://web1.kcn.jp/hal/ |
更新リスト | |
2011/04/06 | 【天使篇】幸せの箱 |
2011/04/06 | 【天使篇】神様の懐中時計 |
2011/04/06 | 【天使篇】見えない天秤 |
ギィ……と立て付けの悪い木製の扉を閉めると、どうどう、と降りしきる雨音が遠ざかった。 扉が閉まる瞬間に外が光ったのが見えたが、思った通り、すぐに地を響かせるような重たい音が聞こえてくる。 美奏は一息吐いてから、しとどに濡れた傘を畳んだ。 軽く傘を振って雫を落とすと、水滴が埃の積もった床に輪を重ねる。 木目が分からないほど黒ずんでしまった木製の壁に傘を立てかけるのを見届けて、奥にいた老人がかすれた声を投げかけた。 「良くぞ来てくれたね。しかし幸運の女神には嫌われたか。いつにも増して酷い雨だな」 狭く暗い室内を見回しながら、美奏は服のすそを払う。 「まるで嵐ですね。女神がいるとすれば天候の女神でしょう。しかも今日は相当ご機嫌斜めらしい」 美奏は部屋の隅、小さなベッドに伏せる老人を見つけた。ベッドのすぐ傍には手紙を書くのが精一杯であろう狭い机と椅子。天井には汚れの目立つ仄かな白熱灯。降り注ぐ雨しか見えないくすんだ窓。それが、老人から見える世界の全てのようだった。 美奏はベッドの傍まで近寄ると、椅子を引いて腰を下ろす。 「車で来たのですが、いやいや……さすがに少し濡れてしまいました」 樫で出来た椅子はギィと軋む音を立てたが、印象とは裏腹に頑丈そうだった。老人は苦しげに呻いて身体を起こし、美奏を上から下まで見定めた。 「 「構いませんよ。服は人間と違って、濡れたところで文句を言いません」 「ほう」 老人は少し目を細めたが、すぐに悪戯を思いついたように口角を上げ、くく、と笑って見せた。 「私の服は文句を言うぞ。そうやってぞんざいに扱うから、汚れが取れんのだ、とな。長く一緒にいると、こういう無口な奴もやがては喋り出すんだ」 薄明かりの中ですら、明らかに汚れきっていることがわかるシャツを掴んで老人は笑った。 美奏は老人の切り返しに少し目を丸くし、すぐに笑みを返す。 「至言ですね。長く寄り添えば言葉はなくてもコミュニケーションは成立する」 「服だけに限らんがな。なぁ、悪いがそこの引き出しを開けてみてくれんか」 「五十年も前に作られた品物だ。こちらから頭を下げたとしても、誰にも受け取ってもらえんような無価値な箱だよ。音も鳴らん」 「他には何も入っていませんね」 引き出しを覗きながら美奏は呟いた。 「みんな債権者を名乗る連中が持っていったよ。本当ならそれも持っていかれるところだったんだがな。ゴミを移動させるだけにしかならんことを教えてやったら置いていってくれたよ。連中も一応物の価値は分かるらしい」 「わたしでも、置いていくでしょうね」 「あんた正直だな」 心の底から愉快だったらしく、老人は二三度 「じゃああんた、何故私がそんなゴミみたいなものを残すか分かるかね?」 「無価値で動かないオルゴールを残す理由に、思い出以外の何かがあったら、逆に驚きますよ。記憶を辿るきっかけでしょう。砕けた押し花でも千切れたペンダントでも、人はそこから思い出を辿ることが出来る。思い出を持たず死んでゆく人生ほど儚いものはない」 老人は天井を見上げ、そのまま身体を横たえると、疲れたように目を閉じた。 「ああ、そうだ。正直なところ、あんたみたいな仕事があると知って驚いたよ。まさか自分が頼ることになるとは思ってもみなかったしな。何も生み出さんと思って、馬鹿にしてすらいた」 「稀にとはいえ、人の死期が見えてしまうようになった世の中です。そういうご時勢だからこそ、わたしは需要があると思っているのですが」 「分かっているさ。間違っていたのは私の方だ。看取り屋か……。悪いが孤独な老人の最期の雑談に付き合ってくれ。 薄い屋根を叩く雨音が少し和らいでいた。外の風雨は少し収まったようだった。 もう少し早く収まってくれていれば濡れずに済んだかもしれないのに。どうやら本当に幸運の女神に嫌われたのかもしれない、と美奏が思っていると、老人が思い出したように声を出した。 「あんた、恋人はいるのかね」 「残念ながら、一人身を楽しんでいますよ」 「ふん、では何故人は 美奏は足を組んで両手を膝の上に乗せた。 「そうですね……。 「なるほど、そういう感性か」 「いえ経験則です」 老人は一度咳き込んだ。笑うとどうやら喉に来るらしい。 「面白いな。……私には残念ながら子がおらん」 「でしょうね」 それどころか親族は一人もいないはずだ。そうでなければ、美奏がここに来ることもなかっただろう。 「こんな立場になって思うよ。もう少し人間らしい生き方をしても良かったのではないか、とな」 「貴方は充分人間らしく生きたのでは? 少なくとも社会的には」 「ああ、私について調べたのだったね」 「少しだけ。それが仕事ですから」 美奏の声に、老人はただ静かに口を閉じた。風の中で雨が踊る音だけが聞こえてきた。 「同種を殺すのは人間だけだ、という言葉を聞いたことがあるかね」 「わたしが聞いたのは、意思を以ってという前置詞が付きますね。自然界には共食いも存在します」 「どちらでも構わんさ。自然界で同種を殺す連中は、結局のところ本能に従っているに過ぎない」 「リチャード・ドーキンス風に言えば遺伝子の操り人形、というところでしょうか」 老人は返事をする前に 「何世紀前の学者の名前を出すんだね。懐古主義はいまどき流行らんぞ」 「ただの趣味ですよ」 「まぁいい。とにかく私はこう思っている、愛情を以って同種を殺すのは人間だけだ、とな」 外の稲光が薄暗い室内を照らし出した。 数秒待ったが音は聞こえてこなかった。余程遠くで、音は拡散してしまったのだろう。 外では再び雨音が激しくなりだした。幸運の女神は気まぐれだ。 「確か、奥さんを亡くされていましたね」 「五十年ほど前の話だな」 「このオルゴールが生まれたときと時期が重なる」 「黒いだろ」 美奏は手に持ったオルゴールに視線を落とした。白熱灯に照らされたオルゴールは薄灯りの中、美奏の手を切り取るように闇を孕んでいる。 「そりゃ血だよ」 「……どおりで重たいわけだ」 美奏には精一杯の返答だった。前半は声が掠れたかもしれない。老人はしてやったりという笑みを浮かべて再びくっくと笑う。 「重いのはな、血のせいではなくて、憎しみが詰まっているからだよ」 「貴方のですか。それとも奥さんの?」 「妻の過去、だろうな。私と結婚する前の、最も幸せだったのではないか、と思える時期のな」 「その言い振りだと、貴方との結婚は幸せではなかったようにも聞こえますね」 「私が誰かに幸せを与えたことなど、一度もないよ。あんたも知ってる通り、奪うのが専門だったからな」 「幸せも奪ったと」 「幸せが物品であれば、私はそれで幸せを手に入れたんだろうがな。残念ながら幸せを奪っても私の手元には幸せは残らなかった。……まぁこの時点で幸せなんてものに絶対的な価値基準がないなんてことが解るわな」 老人は片手を上げて首を振る。 「妻は結婚してから死ぬまで一度も笑ったことがなかったよ。この場合、幸せの 「幸せがそんな単純に加減を計算できるものであれば、今頃一束いくらで売り出されているでしょうね。哀しいことに、幸せというものは絶対的なものでなければ、相対的なものですらない」 老人は美奏に視線を戻す。 「ではあんたは、幸せを何だと考えているのかね」 「幸せというのは、生物が持つ現状認識能力と予測能力の高さの二つが生み出した、単なる幻想です」 「もう少し分かりやすく話してくれないか」 美奏は血染めのオルゴールを両手で持ち、ゆっくりと目の前に掲げた。 「その前に、幸せとは何か明確に定義しておきましょうか」 「出来るのかね、そんなことが」 「この世に、定義できない言葉などありませんよ。定義とは人間が作るのものなのですから」 そういって美奏は微笑んだ。 「中々言うな。それで、その定義とは何かね」 美奏は目の前のオルゴールを少しずらして右目だけで老人を見る。 「端的に言えば、快を得ることに対する未来への期待値です」 美奏の言葉を受けて、老人は言葉に詰まる。 「それは何か、 「少々趣が異なりますね。例えば、食事にありつけること、これは幸せでしょうか」 「人によるだろうな。飢えていたものであれば幸せに感じることだろうさ。逆に飢えた事のないものに、その幸せが訪れることはあるまい」 美奏は頷く。 「その通りです。ところが、明日、確実に食料が尽きることが解っていた場合はどうでしょうか。食事にありつけたとしても、その人は幸せでしょうか」 「そうだな……先のことを考えなければ、そうだろうな」 「それもその通りです。ですが、哀れなことに人間は頭が良い。容易に先のことを見通すことが出来てしまう」 老人は慌てたように身体を起こした。 「おいおい、年寄りを置いてけぼりにしないでくれ。話の繋がりが解らん」 「失礼、飛ばしすぎましたね。言いたかったのは、同じ 「そんなもの、当たり前だろう。前提条件を追加すればするほど物事の意味が変わるのは当たり前だ」 「勿論そうです。深く考える必要もない。結局それが答えなんですよ。ようするに、何でも良い、それが『 老人は溜息ともつかぬくぐもった声を出した。 「『快』だと認識出来なければ幸せではないし、『快』だと認識出来ても、それが続いていると思えなければ幸せだと思わないということかね」 「わたしはそう思いますね」 美奏は手に持ったオルゴールを膝の上に乗せる。 「例えば、良縁に結ばれた花嫁が幸せなのは何故でしょうか。例えば、毎日の食事にありつけることが幸せなのは何故でしょうか。例えば、宝くじに当たった直後の人が幸せなのは何故でしょう。例えば、お金が増え続けることが幸せなのは何故でしょうか」 老人は鼻を鳴らした。 「あんたの言うとおりなら、『快』を齎す 「そうですね。相手の人格を問わなければきっとそうなのでしょう。別に薬物に頼らなくても、周囲の環境だけで相手に快を齎し、それを一生続くものだと思わせ、そして実際にそれを実現させれば相手は幸せだと思いますよ。だから動物は幸せになりやすい。彼らは言葉がないゆえに遠い未来を想像できない」 「それがさっきあんたが言っていた『生物が持つ現状認識能力と予測能力の高さ』とやらか。簡単に幸せを得られるという意味ではアルコールもそうだろうな」 「ご老人は嗜まれる?」 「一昨年止めたよ。理性的な判断ではなく、金銭的な理由でな。あんたの言葉を借りれば、アルコールは未来を考える力を低下させ、『快』を与える神の雫だ。幸せになるための道具が財布と共に逃げてしまったわけだ」 「わたしは そっぽを向き窓の外に視線を移した老人を見つめたまま、美奏は目を細めて膝の上のオルゴールを何度か回した。 外の雨は相変わらず窓を濡らしている。老人は流れる雫を目で追いかけて小さく呟いた。 「そういう意味では、あんたの言う幸せと、現実逃避は似ているな。例え 「後悔しているのですね。 「 美奏に視線を戻して老人は言葉を続ける。 「妻を殺したのは、妻の元恋人だったよ。まぁ私が妻を無理やり奪い取ったのだが、彼からすれば妻の裏切りに見えたのだろうな。何度思ったか解らんよ、私が最初から余計なことをしていなければ、幸せの 「ここに詰まっているのは奥さんの過去の憎しみだと言っていましたが」 美奏は手元のオルゴールに目を落とした。 「随分あなたの後悔も詰まっているようだ」 「もしかしたらそうなのかも知れんな。幸せを奪うということは解った。未来への期待を奪うことだろう。確かにそれなら絶対的な幸せも相対的な幸せもないわな。……なぁ、それじゃああんた、幸せを与えるとは何だ」 「同じですよ」 美奏は老人の手を取った。皮の向う側は骨の感触しかなかった。少し汗を帯びたその手にオルゴールを握らせる。握力はほとんど残されていないようだった。 「幸せを与えるというのは、 美奏は静かに続ける。 「相手にとって何が 老人は手に持ったオルゴールの存在を確認するように、かすかに何度か握り締めた。 「ふん。私は少しばかり身勝手だったのかもしれんな。妻が好きだったという曲を込めたこのオルゴールも、何の未来を保障する役割も持たなかった。プレゼントと言えば聞こえは良いが、結局彼女に何も与えられなかったんだ。ゴミ同然なのも、当然だ」 ガタガタと風に揺れる窓ガラスの音が、弱まった雨音の合間に挟み込まれる。その音は老人の心の揺れのようにも思えた。 美奏は老人の手を、そっと撫でるように自分の手を重ねた。 「残念ながら、わたしたちは神様ではありません。思いが必ず伝わるとは限らないし、伝わっても良い結果を生むとは限らない」 美奏は少し力を込めて老人の手を握り締める。 「ただ、奥さんは、そのオルゴールを貰ってくれたのでしょう。望むものでなければ、どこか見えないところに放り込んでおけばいい。経緯は解りません。でも、少なくともこのオルゴールは血を浴びた。最期まで奥さんと共にあったのです。それは──何か伝わったものがあったからでしょう」 老人は息を吸い込んだ。そして、ゆっくりとオルゴールを握る手に力を込めた。 「あんたは、妻が喜んでくれたんだと思うのか。ほんのわずかでも」 「それは分かりません。わたしはわたしのことしか話せませんからね。ただ、わたしなら、きっとこう思うでしょう。少しでも自分のことを考えてくれてありがとう、と」 「まったく、年寄りに優しいと言うのも考え物だな」 突如震えた老人の声と共に、一筋の涙が美奏の手に零れ落ちた。 「つまらない感傷だ。私には似合わんよ。しかしあんた、嘘はいかんぞ」 「嘘?」 「ああ。未来へ続く 疲れたように横たわり、少し咳き込んでから老人は笑みを浮かべた。 「あんたがやったのは、過去について一言いっただけだろ、それも未来のない私にな。それがどうだ。酒よりもよほど穏やかな気持ちじゃないか。これこそが幸せじゃないのか? これは、あんたの定義がそもそも間違いだったということではないかね」 「そうかもしれません。今まで黙っていましたが、実は、わたしは嘘つきなんです」 老人は横になったまま咳き込み、そんまま身体をくの字に曲げて呼吸を荒げる。 「飽きないな、あんたの言葉は。それでも今、何故か私はあんたの嘘を信じても良いと思っているよ。このオルゴールは、ゴミではなかった。後悔でもなかった。私が持っていくべき、幸せの 「思い出でしょう」 「いや、棺桶だよ」 驚いて目を丸くした美奏を見上げて、老人は悪戯っぽく目を細めた。 「嘘だよ。これから訪れる長い旅路には、このオルゴールと思い出さえあればそれで良い。棺桶だと? そんなもの買う金があれば酒を買うさ」 「酒は身体に良くない。健康のことを考えるなら、今後は控えておいたほうが良いでしょうね」 老人は涙を浮かべて、喉からひゅうひゅうと音を出した。 「ああ、精々そうするよ。おかげで今夜は良い夢を見れそうだ」 「それは何よりです」 「雨は止んだかね」 美奏は窓を見る。穏やかになった小雨は窓の枠にぶつかっている。 「止みませんね。私が神様なら、止ませて見せるのですが」 老人は、それには答えを返さなかった。 美奏はしばらくの間、目を閉じて両手で老人の手を包み込んでいた。 |
▲IndexListに戻る |
「ねぇ美奏、雨はいつ止むの?」 古いモノクロ映画のような窓の外を覗き込んで、金糸がそういった。白い縁に切り取られた 酷く病的な白い部屋を見回していた美奏は、その声を受けて少女に視線を戻した。 絡み付く少女の視線に穏やかな笑みを返して、美奏は少女の手を握る。 美奏の今日の客は、小さな人形のような女の子だ。 そして、美奏にとって年の離れた幼馴染でもある。それが美奏と金糸の関係だった。 「雨は止まないよ。神様が微笑まない限り」 「神様? 気象予報士じゃなくて?」 「気象予報士が微笑んだら、雨は止むのかな」 そういえば、止まないよねと金糸が少し笑った。痩せぎすの身体に薄い桃色のパジャマを羽織った金糸は、神様かぁ、と呟いて手元のぬいぐるみをそっと撫でた。 「じゃあさ、美奏は神様はいると思う?」 「いるだろう。天使がいるんだから」 金糸はくすくすと笑った。 「何か面白かった?」 「んーん、何でもない」 美奏は静かに目を閉じる。 空を舞う、その姿を天使だと最初に名付けたのは誰なのだろうか。止まない雨の中、分厚い雨雲のカーテンの下で光を放ち、それは飛ぶ。初めて発見された当初は随分話題になったものだが、今やありふれすぎて誰も驚きはしない。 「天使。でもその正体は死神かしら」 困ったような表情を浮かべて呟く金糸。考えるとき、いつも金糸は困ったような表情を浮かべる。もし手を差し伸べたなら、すがり付いてきそうなほど。 「見た人の周りで人が死ぬ。不思議よね」 「少しも不思議じゃないさ。逆だよ」 「逆?」 「そう。天使を見た人の周りで人が死ぬんじゃなくて、死ぬ人がいるから天使は飛ぶんだ。死期を迎えた人の気配を感じ取り、人は天使を幻視するんだよ、きっと。だから死ぬ本人には天使は見えないし、縁の薄い人にも見えないだろう?」 「人はいつから天使を見ているの?」 「最初からかもしれない。ある時期からなのかも知れない。ただ、それを考えることの意味もなければ、知る意味も無い。きっと、考えるだけ無駄だと思うよ」 「美奏はいつもそう」 色彩の失せた外を再び覗いて、少し頬を膨らませる。 「雨、止まないね。天使なんか誰にも見えなければ良いのに。そうすれば死ぬ人も減るのに」 「脈絡が無いな。それに逆だっていっただろう。見えるのは結果だ。命を落とすという将来があるからこそ天使は見えるんだから」 「ほら、考えるだけ無駄だって言った美奏が一番考えてる」 振り向いて、鬼の首でも取ったかのように、金糸は微笑んだ。外の世界に比べて、金糸には全ての色を兼ね備えているかのような、華やかさと無邪気さがあった。 朝に積もった白い雪を思わせる、恐ろしく無垢な微笑みと、虹色の感性。何気ない瞬間に垣間見えるそれに、美奏は引き込まれそうになる。 美奏は意識して息を吐き出してから、口を開いた。 「……ところで、時計は動いた?」 「動かない。時計屋さんに聞いても原因は不明だって」 金糸の机には、動かない懐中時計が乗せられていた。その時計は、金糸が両親から誕生日プレゼントとして貰った日から時を刻み始め、金糸が天使を目撃したときからその動きを緩め、金糸が交通事故で両親を亡くしたときに停止した。 「時計屋さんは不思議だっていってた。動かないわけがない」 「でも、動かないなら、動かないわけがあるんだろう」 金糸は手を伸ばして懐中時計をとろうとしたが、数センチばかり指が届かなかった。美奏は代わりに手にとり、金糸に渡した。懐中時計を少し振る金糸。 「不思議なことって、世の中にはあるのね」 「不思議だって思うのは、きっと、その人が物知りな人だからだよ」 「どうして物知りなのに、不思議だって思うの?」 「逆だよ、物知りだからさ。自分の知らないものなんて無いと思うほど、不思議は湧き水のように溢れてくる。不思議だと思うのは人間だけだろう?」 「私は美奏が不思議」 「どうして?」 金糸は何も言わず、時計を美奏に手渡した。 「死んだら、人はどこに行くのかな」 「死んだら、人は雲の上に行くんだよ」 「嘘つき。美奏ならきっと、死んだらそれまで。どこにもいかないし、それまでだ、っていうはずだもん」 「そうかもしれない。人は所詮はタンパク質の塊だ。死ねば拡散しつづけ、エントロピーは増え続ける。でもどうせどこにも行かないし、何も残らないんだから、雲の上に行くと思っていた方が、幾分素敵だと思うよ」 「そうきたか」 くすくす笑って、金糸は再びぬいぐるみを抱きしめた。 「じゃあ私もそう思うことにする」 「そうすると良い」 美奏も少し笑う。 この一瞬の安らぎが、永遠に続けば良いのに。 ふと思って美奏は呟いた。 「哀しい事に、人間には永遠というものが存在しないけど、神様はその代わりに快楽という一瞬を楽しむ喜びをくれたんだ」 「天使を否定して、死んだ後は人間なんてタンパク質の塊だという美奏が、神様っていうセリフを使うとやっぱり面白い」 「さっき笑ってたのはそれ?」 「うん」 「神様はね、本当にいるんだよ」 「どこにいるの?」 「どこにもいない」 「どこにもいないのに、いるの?」 「そうだよ。神様は偶然そのもの。全ての有機物と無機物を区別せず、アトランダムに運命を与える」 「詩的だね」 「真実さ」 金糸はすこし困ったような表情を浮かべて、額に手を当てた。 ぬいぐるみを抱いたまま横になり、目をつぶって深呼吸をした。 「ちょっと疲れたかな。今日はもう寝るね。明日は会えると良いね」 「偶然の神様が、微笑んだらね」 「神様が微笑んだらきっと雨も止むのよね」 「きっとね」 おずおずと差し出した金糸の手を、美奏は、そっと淡雪に触れるように掴んだ。金糸の指は、細く、とても冷たかった。ガラスみたいだった。 「じゃあ、おやすみ」 「おやすみ」 金糸の手の甲をなでながら、しばらくすると、窓の外の風の囁きだけが聞こえてきた。外の灰色は、静寂の部屋へと侵食する。さきほどまで空を飛んでいた天使の姿は、美奏の目にはもう見えなくなっていた。 静寂の中、美奏が持つ懐中時計の針が、躊躇するように動き始めていた。 |
▲IndexListに戻る |
その部屋のドアを開けたとき、あまりの暗さに美奏は思わず立ち止まってしまった。 美奏の影と廊下の光、そして部屋の闇だけしか見えず、およそ人のいる部屋には思えなかったのだ。 しかし少しの逡巡の間に、部屋の主が声を上げた。それは少年の声だった。 「少し眩しいな、出来ればドアを閉めてもらえないかな。貴方が部屋に入るにしろ、入らないにしろ」 美奏は少し口を開いたが、結局何も言わずに部屋に入ることにした。 後ろ手にドアを閉めると足元の光は細い方形状に狭まり、美奏の影ごと掻き消えた。 歩くと何かに躓きそうだったので、その場で動かずドアにもたれて腕を組む。 「これは予想をしていなかったよ。窓もないのかな」 「光は嫌いなんだ。その壁沿いにソファがある。そこに座って良いよ」 少し移動して手を伸ばすと、柔らかい張地の感触があった。 「なるほど。家具は普通にあるわけだ」 「ここは普通の部屋だよ。光がないことを除けば」 「光はいらないのかな」 「人間は目を閉じれば光だって想像できるんだぜ。まぁ事前に連絡しなかった僕も悪かった。くつろいでくれて良いから」 「移動しない分には問題ないよ。声で距離も大体わかる」 「それは 「暗闇というのは不確定の象徴みたいなものだからね。暗闇を見通すことの出来ない人間は、恐れるものがそこにないよう 美奏は暗闇の中、ゆっくりとソファに座った。 「とはいえ、この部屋にはわたしと君しかいない。不確定な情報が少ないんだから怖いという感じはしないな」 「だと良いんだけどね。もしかしたら闇に紛れて猛獣が貴方を狙っているかもしれないよ」 「それならとっくにわたしは殺されているさ」 少年の少し笑った声が聞こえた。 「実は貴方に来てもらったのは他でもない、一つ相談があるんだ。忌憚のない意見を聞かせて欲しい」 「相談?」 「うん、相談だ。実はね、先の短い僕だけど、今から道連れに人を殺すかどうか悩んでいるんだよ。具体的には貴方をね。これって今の僕には 少年の名は冬扇という。 天使が飛ぶのを目撃され、今日この世を去る予定の少年だ。 目が慣れることのない闇というのは、例えば壁に向き合っているような圧迫感がある。もっといえば地面に埋められたような身動きの取れない不安な圧迫感とでもいうのだろうか。 人間が過去から現代に至るまでに、夜を明るくする努力を重ねてきた理由が美奏には解るような気がした。 美奏はソファに深く座り、両膝の上に腕を乗せる。 「わたしの意見を言わせて貰っていいなら」 美奏はそこで言葉を区切った。 「なるべく人は殺さない方が良いだろうね」 「ふふ、誰だってそう答えるだろうね。……いや、実のところ、僕は別に貴方を殺したいと思っているわけじゃないんだ。勿論、人を殺したいわけでもない。多少性格が変わっていることは認めるけど、 「もし君が 「逃げるつもりなら、とっくに逃げているんじゃない?」 「そうかも知れない。どうやら足が震えて動かないようだ」 「美奏さん、貴方は嘘つきなんだね」 くすくすと笑い声が部屋に響く。 「でも、安易に人殺しを否定するのは頂けないな。例えば戦争が始まれば人は正義の御旗の元に人を殺すだろう? 「それなら到底わたしの意見も参考になるとは思えないな」 「命のかかった状況で殺人を否定する人の意見が聞きたいというのは本音なんだ。なぜなら僕自身が納得できる答えを得ていないからだ。もし誰かに人を殺してはいけない理由が何かと聞かれたら、僕だって『解らない』と答えるしかないし、じゃあ人を殺して良い? と聞かれたらそれは『駄目だよ』と答えそうだしね。論拠なんてなくて、ほとんど何となくなんだ。だからこそ答えが知りたい。だからこそ、半端な答えは聞きたくないんだ。そのためならば他人の命を天秤に掛けても良いと思っている……逃げようとする場合も含めてね」 「なるほど」 美奏は降参したように両手を挙げた。 冬扇から見えているかどうかは解らないものの、逆に言えば立ち上がって逃げ出そうとしない限りは安全だともいえる。飛び掛ってくるならともかく、闇の向うから仮に 美奏はソファに浅く座り、もたれるように身体を伸ばした。 「といっても、所詮は個人の考えだよ。誰だって一度は考えたことのあるような内容だけど、それでもいいのかな。いわば自己満足になる」 「自己満足! 結構じゃないか。僕たち人間の中に、自己満足以外を求めて生きている人間が一体どこにいるっていうんだい。他者利益や自己犠牲だって結局は自己満足のためなんだ。是非聞かせて欲しいな」 「そうだね……。まず、この場合の『殺人が良いか悪いか』というのは、質問する方される方、両者にとって合目的的であるかどうかでしかないといえる」 「……ごうもくてきてき?」 美奏の回答が冬扇の予想を上回ったのだろう。戸惑うような気配が感じられた。 「比較的目的に合ってるのはどちらかということだよ。例えばスープを飲むという目的があるとしたら、箸を用意するのとスプーンを用意するのとどちらが目的に合ってると思う?」 「そりゃスプーンだ」 「そうだね、つまりこの、目的に合ってる、というのが『良いこと』で、目的に合ってないのが『悪いこと』なんだよ。スープを飲むのにスプーンよりも箸が良い? と聞かれたら、誰だって良くないと答えるし、何故スープを箸で飲んだら駄目なの? と聞かれたら、別に駄目とは言わないけど、飲みにくいし常識的に考えればお勧め出来ないと答えるだろうね。同じことが殺人にもいえて、ようするに『目的』によって人を殺すのが良いか悪いかの答えは変化するってことなんだ」 美奏はいったん息を吐き出す。闇の向うの冬扇は静かだ。 「わたしが『人殺しは駄目だ』と答えるのは、お互いの健全な未来に殺人は不適切だからと考えたからだし、仮に赤の他人が『人殺しは良いか』と問われて『駄目だ』と答えるのは、良いと答えることで、変な責任が発生してしまうのが嫌だからだね。自殺を止める場合とかもそうだけど、金銭的、感情的、精神的な我彼の損得を意識無意識に考慮した結果、人間はそれはいけないと否定したり肯定したりするんだ」 冬扇はふぅんと声を漏らした。 「なるほどね、アドバイスみたいなものか。それは確かにそうかも知れない。でもそれってアドバイスではあっても、世間で『悪い』といわれてるのとは意味合いが違うよね。例えば」 闇の中、衣擦れの音がする。少しすると椅子に座るような音が聞こえた。直後、ゴボッと苦しそうな咳が聞こえた。 「……失礼。さっき言ったみたいに、戦争とかで『目的に合っているか』という価値観は変わるし、それぞれの目的だって違うよね。そういう状況でも殺人は悪だ! と声高に掲げる人がいる。これはアトバイスじゃないよね」 「人殺しの是非について問う場合、二つの視座が考えられるんだ」 冬扇に見えているとは思えなかったが、美奏は闇の中で腕を組んだまま指を二本立てた。そしてすぐに一本の指を下ろす。 「一つは今話したみたいに合目的的かどうかだ。そしてもう一つは倫理観としての位置づけになるんだが、それが今まさに君が質問した内容だよ。ただし、最初の問いとはかけ離れてしまうね。君はわたしに、わたしを殺すことの是非を相談したんだろう?」 「なるほど、確かにその通り」 冬扇が笑いを堪える。 「美奏さん、実は僕の両親はとある通り魔に殺されたんだ」 「そうだったね」 美奏が知っている限りでは、冬扇の両親が命を落としたのは十年も前のことだった。犯人はすぐに捕まったはずだ。 闇は深い。訪れた沈黙の中、外で降る雨音すら聞こえてきそうだった。 しばらくして冬扇は呟くように声を出した。 「ねぇ、貴方には僕が光を嫌っている理由はわかる?」 「さぁ、……人には好みというものがあるから」 「美奏さん、貴方はやっぱり可笑しい。調べて知っているんでしょ」 冬扇は少女のように笑う。 「僕の顔はね、ちょっと酷いことになっているんだ。原因は両親だね、悪魔を祓うためだとか適当な理由をつけて散々やられたよ。児童虐待と呼ぶのか家庭内暴力と呼ぶのかは良く解らないんだけど、この顔も火でやられたんだよね。とにかく見れたものじゃなくなっちゃった。おかげで僕は親のことを物心がついたときから恨んでいたよ」 「一般的にそういう暴力というのは衣服の下の見えない部分に振るわれるものだが」 「ずっと家に篭らされていたからね、その辺の躊躇はなかったみたい。つけた名前まで 美奏は無言で肩をすくめた。 「僕は人に顔を見られたくないんだ。悲鳴を上げられると流石に辛いからね。別に光があっても顔を隠せばいい、と思うかも知れない。ただ僕は自分の顔を見るのも嫌だけど、人の顔も見たくないんだ。とはいえ他人にマスクを被れと言うわけにもいかないし、……結果がこの部屋さ」 「確かに、闇は誰にも平等だ」 「悪い意味で光も平等なんだけどね。まぁそういうわけで、僕は両親を殺してくれた犯人には感謝しているんだ。でも世の中にとって犯人は悪だという。僕がそもそも貴方を殺すことについて相談しようと思ったのはそれが原因なんだ。何故犯人は捕まったのか、あんな酷い親を殺すことがダメなのか。人殺しは何故ダメなのか、美奏さん、貴方は答えを知っているね?」 「それを知ることに意味はないと思うよ」 「ある。それだけが僕の心残りだからだ。知ってるんだろ、両親を殺したのは、僕を助けてくれたのは、斜向いに住んでいたお姉さんだったんだ」 冬扇の声が震えを帯びる。 「眩しいくらい仲良くして貰ったよ。小さな頃、時々遊んでくれたことを覚えている。今は塀の中で、僕の死に目にすら会えないけどね。……ある意味、僕は貴方を殺すことで社会に復讐したいのかもしれない。だから、僕が貴方を殺すことに一体どういう意味があるのか、もし知っているなら教えて欲しいんだよ」 美奏はソファにもたれたまま目を瞑った。この部屋の深い闇は、まるで冬扇の感情を顕しているようだった。静かで穏やかで、でも重い。 しばらくしてから、美奏は一つ溜息をついた。 冬扇はその間、じっと待っていた。 「倫理観としての『人殺しの是非』の前に、まずは善と悪について話そうか」 「善と悪?」 「まず君は、世間的な善とは何で悪とは何だと思う」 「難しいね……善は良いことで悪は悪いこと?」 「世間的にはそれを 「解っているよ」 冬扇は闇の向うで楽しそうに笑う。 「突然そう聞かれても気の利いた答なんて中々出せないよ。そうだなぁ、『善は世のため人のためになること』で、『悪とはその逆』というのはどう?」 「オーケー。一般的な意見に近付いたし、それを土台にすすめようか。まず、世のため人のためというのは全て客体の認識であるのは解るかい?」 「残念ながらさっぱり解らない。出来るならもっと噛み砕いて欲しいな」 「ようするに、これをしてくれると世のためになるのに、とか、ああして欲しいとか、こうしてくれたら助かるのに、だとか、つまりそういうのは全て受け手側の思考なんだよ。簡単に言えば『世のため人のため』というのは、世の中や人に評価されて始めて意味を持つ言葉なんだ」 美奏の言葉を受けて、冬扇は少しの間沈黙した。 「確かに『世のため人のため』を自分で行ったらお仕着せだよね。この辺は善人も同じかな。自分で善人だといってる人はたいてい、独りよがりで思い込みの強い人か、誰かに善人だといわれたその言葉を信じている人くらいだからね。例え善人でも評価されない正義の味方というのは 「君の両親が善人だったかどうかはともかく、善悪の基本というのは、相手に評価されて始まる。その相手というのは国家かもしれないし、民族かもしれない。集団かもしれないし個人かも知れない。善悪を決めるのはつまりはそういう客体なんだよ。だからある集団のためになるからと別の集団を攻撃するのも善だし、攻撃された集団が自らを守るために反撃したりする場合も善なんだ。互いにとって相手は悪で、自らは善なんだね。これもまた良くある当たり前の善悪だといえる」 「哀しいことに戦争もね」 「そうだね。さて、それじゃあここで殺人に話を戻そう。先程の観点に立てば殺人は悪だ。何故なら殺人は多くの場合、社会にとって余計な混乱や経済的損失、人々の精神状態の不安定化など、ためにならない影響を及ぼすからだね。そして個人にとっても悪だ。これは殺される本人はもちろん、親類縁者にとっても非常に多くの物理的、心理的損害が発生するからだといえる。何故なら人間は価値を持ち、共感する才能があるためだ。君を助けた女性のようにね」 冬扇の戸惑う気配が感じられた。 「人間が価値を持つ、というのは解るけど、共感する才能って何?」 「あまり指摘する人はいないけど、人間は自分だけではなく『他人が死んだり傷付いたりするのも嫌なんだよ』。何故なら『生物として共感してしまうからだ』。学術的にいえばリッツォラッティの実験によって発見されたミラーニューロンの働きだといえる」 「ミラー……何だって?」 「名前は何だって良い。大事なのは、人間には、他人が傷付いた時、自分も身を斬られるように感じる脳の働きがあるということなんだ。比喩で表現されることもあるが、実際に脳も反応しているんだよ。君は自閉症という言葉を聞いたことはあるかな」 「聞いたことはあるけど説明は難しいな。コミュニケーション障害の一種だろ。僕は専門家じゃないからその程度しか答えられないけど」 「この場合はその程度の理解で充分だ。自閉症についても、先程のミラーニューロンで説明する人もいる。ミラーニューロンの機能障害と症状が酷似しているからね」 「それで、それが殺人の悪とどう繋がるのかな」 「多くの人間は他人の感情に共感する才能がある。自分も他人も同じく大切に思えるんだ。だからこそ、生物として自分がされて嫌なことをしてはいけないと否定し、人を助けようと思うんだね。そして喜びや楽しさに共感する。だから、それ故に、多くの場合にとって殺人は容赦されない悪となるし、情状酌量の余地がなければ極刑となる。ようするに自分及び他人を守るという意識が風潮に反映されて、その風潮が個人に還元された結果、世の中的には殺人というのは、悪いから悪い、ということになるんだよ」 「ふぅん。……アドバイス云々はなしにしても、位置付けとして殺人は駄目、いけない、ってことになるわけだね。僕の両親を殺したお姉さんが捕まったのも同じか。なるほど、社会の枠組みの中、システムに則って逮捕されただけで、そこに個人的な善悪は関わらない。あくまで社会の風潮としての悪があるだけってわけだ……笑えるね。それなら僕を助けるために無茶をして捕まった彼女はまるで道化じゃないか。さしずめ僕は 闇を揺らせるような冬扇の笑いに、美奏はゆっくりと立ち上がった。 空気が一瞬にして緊張を孕む。 「逃げるの?」 「逆だよ。この距離じゃ、君はわたしを殺しにくいだろう」 「だから?」 美奏は暗闇の中、冬扇の声を頼りに、足元を確かめながら歩を進めた。絨毯の感触が美奏の足首に絡みつく。 冬扇の息遣いが感じられる距離まで近づくと、美奏は両手を挙げた。 「これくらいの距離なら何でも出来る」 美奏のお腹くらいの高さから冬扇の声が聞こえた。 「美奏さん、貴方はいったね。社会の風潮で人殺しは悪だからこそ悪だと。僕が社会の意思を汲み取って暴力的な行為には手を出さない、貴方はそう思っているのかな」 「いや、社会の風潮や 「へぇ……」 面白そうに語尾があがる。 「つまり美奏さんは僕が貴方を殺すことに賛成するというわけだ」 「わたしの意見は一貫して、止めておいた方が良い、だよ。ただ、個人の判断が社会の判断に縛られる必要なんて全くないといいたいだけだ。人を殺すことで社会を敵に回すのも、逆に味方につけるのも、反感を買ってやりづらくなるのも、人気を得てやりやすくなるのも、復讐されるのも、恩返しを受けるのも、全て確率論的な結果にすぎない」 「でも法律というのはあるだろう。特に人が人を殺すなんて最大の刑量が課される。お姉さんがやられたのもそれなんだ」 「法律ね。当たり前の話ではあるけど、何かできるとしたらそれができるのは自分だけだし、それを止めることができるのもまた自分だけだと思うよ。解ってると思うけど、法律や約束や宗教的価値観がどれだけ重く大量にあろうと、それがあるのは所詮、自分の頭だけなのだから」 そういいながら美奏は闇の中、自らのこめかみをつついてみせた。 「あらゆる行為についてやるやらないは自由。ただし、だ。あらゆる結果を受け取るのもまた自分なんだということは忘れてはならない」 「責任を持てと」 「そう聞こえたかもしれない。でも実は責任も別に持たなくて良いんだよ」 「これは傑作だ! 責任もだって!?」 「責任だけじゃない、覚悟もだよ。結果は結果だ。事態を覚悟して 「辛いね。光も闇も人には平等なのに、運命だけはそうじゃないっていうんだね」 「だからこそ社会の 「成し遂げた……」 「それでも君は、わたしを殺したいのかな。まぁ、どうしてもというならば止めはしないが」 「ああ……」 闇の向うで気配が揺らぐ。突然、水気を帯びた咳が部屋に響いた。 しばらくえずくようにした後、冬扇は唾を飲み込み、諦めたように呟いた。 「いや。殺すのは止めるよ。何だか馬鹿ばかしくなっちゃった。そっか。何を成し遂げるかか。僕が貴方を殺すのは、お姉さんが僕の両親を殺したことに比べてあまりに意味がなさすぎるんだね。……ねぇ美奏さん」 「ん」 闇の中、いきなり美奏の手が強く握られた。 美奏の手を掴んだその手は、思ったよりもずっと小さくて、頼りなかった。 「びっくりした?」 「死ぬかと思った」 「やっぱり美奏さん、嘘つきだ。全然力が入ってないし」 美奏の右手を押し広げて何か四角いものが渡される。 「僕の小さい頃の 美奏は無言で冬扇の言葉を待った。 「本当に単なるお願い。……出来るなら、僕のことを憶えていて欲しいんだ。そしてもし彼女に出会ったら伝えて欲しい。お姉さんのおかげで、僕は決して不幸じゃなかったと」 美奏は冬扇の手を握り返して少し屈むと、声を漏らすようにして笑った。 「大丈夫だよ。君は気付いていなかったかもしれないけれど」 美奏は冬扇の顔にさらに唇を近づいて囁いた。 「実はそれがわたしの仕事なんだ」 「ああ……」 少年はゴボゴボと笑う。生暖かい飛沫が美奏の頬にかかった。 「そうだったんだね。全然気がつかなかった……。看取ってくれるのが美奏さんで良かった。ああ、いつかまた会って……お姉さんも含めて三人で話をしたいね。彼女は凄く賢いんだ」 「いつか話をしよう。今度はどんな話が良い?」 「そうだな……。永遠について、なんてどう」 「永遠か、ニーチェの永劫回帰を中心に話を回すと面白そうだ」 「それは面白そうだね、そっか、僕も勉強しておくよ……」 そういうと、冬扇の手から力が抜けた。美奏の手を握っていた手が滑るように解かれる。 美奏は屈みこみ、少年の手に触れると、静かに目を閉じた。 「約束だ」 美奏のその声だけが、静かに部屋に響いた。 |
▲IndexListに戻る |
Top>Novel>天使篇第一巻 |