Title:
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適当なこといってみました |
Genre:
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今日の一言 |
Date:
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2004/09/11 |
Option:
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感動時の「鳥肌が立つ」に違和感
アテネ五輪の水泳で金メダルを獲得……選手がプールサイドのインタビューで「鳥肌もんです気持ちいいです」と語っていた。また柔道の解説者は「感動しました。鳥肌ものです」と言っていたり、この「鳥肌が立つ」はさまざまな場面で聞かされた。 従来の常識では「鳥肌が立つ」とは、恐怖や急激な寒さに対応して皮膚が変化するときの言葉として「総毛立つ」とか「肌にあわを生ずる」と同義語で、感動時の表現は誤用とされてきた。 ところが近年は、スポーツ時の感動の表現としてよく出てくる。言葉のプロのアナウンサーもよく使うということは、感動の表現としての市民権を得たということなのだろうか。 しかし鳥肌とは文字どおり「ぶつぶつ、ざらざらの肌」であり、勝利後の達成感、そう快感とはむしろ逆のイメージしか、私には浮かんでこないのだ
『毎日新聞 9月11日(土) 4面 みんなの広場』 より
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色々ツッコミどころのある文章だとは思いますが、この『鳥肌が立つ』という言葉にたいする違和感。ちょっと変ですよね。僕はそれ自体に違和感を覚えましたよ。こんにちは。
何が変か。
そもそも、感動時の表現として『鳥肌が立つ』と表現することが誤用であるのは常識です。 はてなの辞書にも『感動したときに「鳥肌が立つ」と言うのは間違い。』とはっきり明記されています。
誰でも知っているくらいに紛う事がないほど常識ですよね(はてなをもって常識というのも変ですが)。 でも待ってください。 よく考えたら鳥肌が立つって明らかな生理現象じゃないですか。
実際に、素晴らしい芸術的な何かを脳が確認して『鳥肌が立つほどに感動した』状態になることって、少なくとも僕はあるように思えるんですよ。
それを誤用という。 むむ。何か変ですよ。 なんというか、漫才をみて「爆笑しすぎて涙がこぼれた」という感想に対して「そもそも涙が出るのは哀しくて泣いたときだ、だからその表現は誤用だ」といってる人を見る感じ。
そしてそれが常識だといっている人を見る感じ。
おお!何か変な感じだ!
生理現象をそのまま表現した言葉を「誤用」だと主張する点で、鳥肌も同様です。反論自体が、なんだか見ていて痛々しいといいますか。
でも。
でもです。そもそも、そんなことは老若男女かかわりなく解ってると思うんですよ。 非常識なことを常識だと主張する人がどれだけ見ていて恥ずかしいものかくらい。
こういうのって、本人は気付いていない場合が多いのですが、大抵そのうち気がつくものなのですよ。
しかし、この『「鳥肌が立つ」という誤用』の主張に関しては、もはやどちらが常識かわからない。投書の方もおっしゃってます『従来の常識では』と。 これは言葉の裏に「私達にとっては非常識だ」という意味が含まれているんですよね。投書の方にとっては「感動したときに鳥肌が立つ」というのは最早常識の範囲から逸脱している。
ぶっちゃけありえないと思ってるんですよ。キュアキュアですよ。
長々と書いてきましたが、「漫才を見て涙が出る」ことに対してありえないという主張がありえないのと同じように、「感動して鳥肌が立つ」という表現がありえないというのはありえないのにありえないといっている。
な ぜ か。
答えは簡単。
当人が漫才を見て涙が出たことがないからこそ、笑ったときに涙が出るというのは共感できない。 感動して鳥肌が立ったことがないからこそ、感動して鳥肌が立つという表現に同意できないのです。
ここ重要。テストにでます。 僕は、『「感動して鳥肌がたった」というのは誤用』という人は感動したことがない、なんて狭いことをいっているのではありませんよ。
感動した結果としての、鳥肌が立つという現象自体が発生していないのではないか、といっているのです。
そういう概念がなかったが故にそういう現象が起こっていない、もしくは、鳥肌が立っていることを別の状態として認識しているのではないか。
言語文化人類学者のPaul
Kayはいっています。 「私たちは自然を切り分け、それを概念に纏め上げ、意味づけする。私たち自身が、そうした取りまとめ方を決めた当事者なのだ。この取り決めは私たちの言語社会すべてに有効で、言語のパターンに体系的に組み込まれている」
彼の提唱する言語相対性とはこういうものです。 新米の水夫には単なるボートにしか見えないものが、熟練した水夫には大型船か小船か平底船かを区別して表現できる。 英語圏の人にとってはいずれも「Snow」にすぎないものが、日本では「小雪、粉雪、綿雪、牡丹雪、小米雪、細雪、花弁雪、粗目雪」様々に比喩的に表現される。言語こそが、同じものを違うものと認識させている。違うものを、同じものと認識させている。
そもそも、生理現象であるはずの『鳥肌が立つ』ことが、『感動したときに用いることときだけ誤用』ということになぜなったのでしょうか。『鳥肌が立つ』という言葉と、現象としての『鳥肌が立つ』ことが同じであるならば、そもそも区別する意味がありません。
だからこそ、それはこの言葉ができた当時の人たちは『感動した結果、鳥肌が立たなかった』か、それとも『感動して鳥肌が立ったときに用いられる別の言葉があった』のかいずれかだと思うわけなのですよ。
そういう意味で僕は、『「感動して鳥肌が立った」というのは誤用だ』と主張するだけというのは、思考停止しているだけの単なる感情論であり、片手落ちではないのではないだろうかと思うわけです。
そこのところも考えないまま是非を論じた場合、きっと水掛け論に終わるんでしょうね。多分(←弱気。
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