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丸い煎餅の欠片が友人の口の中に放り込まれるのを見ながら、僕は茶を啜った。 「つまるところね、君。議論ってようするに何なんだい?」 「相変わら、ず、唐突だねぇ」 口の中の水分を吸収したであろう煎餅を飲み込みながら、友人はもぐもぐとそういった。そのまま手を伸ばしてお茶を口にする。 「だいたい何で家庭教師の話から急に議論の話になるんだい?脈絡が無いだろうに」 言われて始めて流れ的に不自然になってしまったことに気が付いた。僕は座布団の上であぐらをかいた足を組替えながら、確かにそうだ、と呟いた。 一番上の煎餅を手に取る。 「僕が教えてる親戚の子が、これが困った奴なんだよ」 「困った奴?」 「うん。中学生なんだけど、どうも人の言う事を聞かないというか、言ってることが支離滅裂というか」 「ふぅん、それはそれで良いんじゃない?子供だし」 「まぁね。でも僕としては言ってることは理解したいし、出来れば対等に話したいと思う。その方が意思の疎通は巧くいくんじゃないかなと思うんだよ。テレビで見た理想論の影響かもしれないけどさ」 そういって僕は煎餅を齧った。友人はふぅんと呟く。 「立場を同じにするのは不可能だよ。そう錯覚させる技術を君は持つべきだろう」 「まぁね確かにそう思うよ。ただ、というか、とりあえず最初はまぁ巧く話が出来ていたんだよね。でも僕が三流私大に行ってることが解かってから、かつて無いほど話が噛み合わなくなってきたんだ。僕はちゃんとまともなことをいってるつもりなのにねぇ。相手はすぐにはぐらかすというか」 「ふぅん」 友人は茶を啜って、熱いなぁといった。 「それで、原因は分かっているのかい?」 「一応、その子は有名な私立中学に行ってるらしいんだ。まぁその学校の中での成績自体はかなり悪いようなんだけどね。あとは、その子の親御さんも自分の子供に誇りを持っているらしい」 「なるほど。君はその子の話が噛み合わなくなった理由を『その辺』にあると見てるんだね」 「うん。たぶんその子は負けを認めたくないんだと思う。僕に」 「あぁいるねぇ、そういう子も」 友人は足を崩した。 「実力を比較するんじゃなくてステータスを比較して優劣を決めたがるんだ。小学生とかに多いかな」 「うん、そんな感じだよ」 僕はパリッと音を鳴らせて煎餅を齧った。 「親御さんは僕が何故私大にいってるかは了解してるから僕に家庭教師を依頼するのは抵抗無かったらしいんだけど、その子は事情を知らないから・・・」 「君の事情はともかく、そこからどうやって『議論って何だい』っていう台詞に到達するんだ?」 「そうそれだよ。この間、その子とちょっとした受け答えの態度について口論になったんだ。後半は落ち着いて議論っぽくなったものの、結局あやふやなままで帰ってしまってね。こちらのいいたいことは解かってるはずなのにすぐはぐらかしちゃ、議論にならないと思うんだよなぁ。で、しかもそういったら、その子もはぐらかしてることすら誤魔化して、自分の方がちゃんとした議論をしたいなんていいだすし・・・」 僕は再び煎餅に手を伸ばしながらそう愚痴った。 「噛み合わない議論に意味はあるのかな。議論って何だろう。それがさっきの問いになったわけなんだ」 「ふぅん」 気の入らない返事をして、友人が煎餅を口にくわえる。 「ひょもひょも議論ってひうのはね」 「だらしないから、ちゃんと食べてからいえば」 バリッと音を鳴らせて半分に割れた煎餅を手に持って、友人はあごを動かした。 「悪い」 噛み砕いた煎餅を飲み込んだ後、お茶を啜って、改めて友人は口を開いた。 「そもそも議論っていうのは、相手の頭の中に自分と同じ考え方の『形』を作り出して、それに対して様々な評価を加えてゆく事だろう。互いの意見を交換する事でそれらの『形』への最善の処理を導き出そうという過程が議論の本質なんだ。これは誰だって無意識の内に理解してると思う」 「確かにね。例えば人生とは何ぞや、っていう議論の場合は、相手の人生観を理解して自分の人生観を照らしあわせた上で、その答え、というか自分の結論に修正をかけていくんだろうし」 「そうだね。殺人は何故ダメかという議論も同じだ。あれは両者の殺人という言葉の定義を理解しあった上で、それにまつわる両者の時間と空間と文化を考慮して、そこからようやくその是非を問うて行くものだからね。だから価値観の相違までを視野に入れた議論であれば、大抵はちゃんとしたものになるといっていいはずなんだ」 友人は微妙な言い回しをした。 「いえない何かが、あるんだね」 「うんその通り。何でかっていうと、議論の形っていうのは討論や論争、口論みたいに勝敗を持ったいわば戦いのようなものでもあるから、とでもいえばいいかな」 「どういうことだい?」 「そうだなぁ。さっきいった殺人の可否を問う議論の場合、片方が別に構わないという意見、もう片方が絶対ダメだという意見をもってたとするね」 「あぁ、なるほど」 そこまで聞いて僕はやっと解かった。 「勝敗が出来る、つまり負けたくない人もいるっていうことか」 「そういうこと。実に単純明快なことだよね。例えば喉が渇いたとき自動販売機の前でコーラとカルピスどちらにしようか迷ってるときに、嫌いな相手に『自動販売機で買うならコーラをにしろ』っていわれたら、別にどちらでも良いはずなのにカルピスを選んでしまうだろう?議論にしても、もし認めていない相手に、これはこうだ君も従え、なんていわれたら理性では解かっていても従いたくなくなってしまうからね」 ・・・たしかに僕はそれに似たような体験をしたことがあった。 「原因を探ってみれば色々理由もあるんだろうけど、特にこれに影響してるのは自尊心だと思う。誰々に負けたく無いから自分の意見を通す。議論をしたいものとしては、これは本末転倒だよね」 「ううん。本当だ。それじゃ議論をしたい人は、そういう人を見分けて議論を吹っかけない事が大事なのかい?」 「違う違う。そういう余計なしがらみも含んで議論と呼ぶんだからそれはそれで構わないんだよ」 「じゃあ、つまりそれを踏まえた上で議論しろってことかな?でも今の状態じゃちゃんとした議論は望めない状態なんだ。結局もとに戻ってしまうよ」 「甘いねぇ」 友人は湯飲みに手を添えて、ちょっとだけ持ち上げた。 「まっとうなだけが方法じゃないんだよ。相手の目的が議論の回避だろうと何だろうと、君がそこから何を学ぶかが大切なんじゃないか。議論の結論ってやつをね」 「それは解かるけど、難しいなぁ」 「例えば、うーん、そうだなぁ。例えば相手が議論を放棄してしまった場合、君は議論を引き戻すための説得というスタイルを取らなければいけなくなってくる」 「説得?」 「みたいなものだね。議論自体に価値があることを知らせたり、感心を持たせて、ちゃんとした議論に引き戻す作業のことだよ」 「あぁなるほど」 「何故相手が議論を放棄したかというと、それは議論を続けることでその人の自尊心を僅かなりとも傷つける可能性があったからだろう?」 「確かにその通りだ。そういえば、テレビなんか見ていると実際それの影響で、議論をはぐらかす技術も発展してるみたいだしね」 「そうそう。避けようとするものにいくら議論を投げかけても無駄なんだよ」 友人はニヤリと笑みを浮かべた。 「でもここで問題になるのは、それだけじゃないんだ」 「というと?」 「引き戻すために、マンガでは挑発するような台詞を見かけることがあるだろう?強い調子で言ったりね」 「あぁ、たまに見かけるね。でもあぁいう風にバシッと決めた方が、議論も気持ちよく進むというものなんじゃないかな?」 「ところがそれは場合によるのさ。そういうのはあくまで稀有な例だということを知っておいた方が良い。プライドの高い負けず嫌いの奴にいささか強い調子で言ったって、反発して議論に戻ってくるかもしれないけど、それは勝負としての議論、戻ってきたその人が勝つための議論になってしまって、答えを求める議論ではなくなってしまうんだ。・・・ようするに議論が無効化してしまうわけさ。余程の話術を持たない限りね」 「じゃあ、逆に優しく問い掛けるというのはどうかな」 「確かにそれも有効な手段だけど、丁寧だったり優しく話し掛けるだけじゃダメだろうね。第三者から見ればフェアだけど、相手を正式な議論に引き戻すのは、あくまで対等な立場でお互いが認め合ってる場合だけだ。自尊心が傷付くリスクを背負ってまで戻ってくる可能性はどう考えても低いだろうしねぇ。たぶんそういう人は、自尊心が高ければ高いほどギリギリまで議論から逃げて粘ろうとすると思うよ」 「粘った方が最終的にはその人の不利になることが明白でもかい?」 「言い訳なんかいくらでもできるからね。目をつぶって耳をふさいで逃げる事もできる世の中なんだから、そのままちゃんと議論の場に引き戻すのはむずかしくもなるだろうさ」 「そんなの困るじゃないか!」 僕は啜ろうとした湯飲みを机の上に置いて、天井を仰いだ。 「それじゃあ、折角話していた僕の立場がなくなるよ」 「まぁ話せてるだけ良いんじゃないかな。実際この世間には反応が返ってこなくなって心の中で自己解決する人もいるんだろうしさ」 「でもそれじゃ議論に呼び戻すのは不可能だってことなのかい?」 「まさか。そんなことないよ」 友人が肩をすくめるようにそういった。 「どうすれば良いんだ?」 「あのねぇ。もう少し考えてみたらどうだい?議論の場から逃げた理由は自尊心を守るためだろう?だったら呼び戻す議論について、その自尊心を傷つけないことをアピールすればいいんじゃないか」 「あぁ、なるほど」 そのままである。 「でもそんなことが出来るものなのかな?」 「自尊心とは何か、ということが関係するね。自尊心って何かわかる?」 「プライドの事だろう?・・・さぁ、人より秀でていることに対して自信を持つ事かな?」 「ちっち。それは微妙に違うなぁ。人より秀でていないことに自信を持って、それをプライドとする人もいるし、秀でてる事に自信が無くてもプライドのある人もいるだろう?」 そういえば、そうかもしれない。 分からなかった。 僕は腕を組んで首を傾げる。 「自分を、尊ぶ気持ち?」 「言葉のままだねぇ」 友人は微妙に笑うと、煎餅を手にとった。 「まぁ君の言う事もあながち外れじゃないんだけどね。自尊心ってのはつまり理想的な自分への、達成度に対する自信のことだよ」 「なんだって??」 「自分の目標となるものに対して打ち込む自分がいるとして、その達成度に対する自信、それこそが自尊心の意味さ」 僕は腕を組んで首を傾げた。 「うん?」 再び逆方向に首を傾げる。 「それは、つまり、さっきの僕のいったことと、同じ??」 「そうだねぇ」 友人は反り返って煎餅を口にくわえた。 「まぁその通りかな。君のいってることも間違いじゃないとは今いったね。これはだから補足だということになる。方向性と目標の問題だよ」 「方向性?」 ちょっとだけ齧った煎餅を手で遊びながら友人は頷いた。 「うん。君は私の話を聞いても別に腹が立ったり、プライドが傷付いたりしないだろう?」 「まぁ、ね。確かに。微妙に馬鹿にされてたりする感じはあるけど」 「そうそう。君の目標が私の台詞や考え方よりも高い所にあるならば、私のいうことには我慢なら無いと思うよ。例えば、こういう会話を議論の専門家が見たら憤慨するかもしれない。同じように――」 友人は煎餅を持った手で、ゆっくりと僕を指さした。 「私が拙い知識で、しかも訳知り顔でゲームについて語ったら、君は訂正もしたくなるだろうし、それが支持されているようだったら腹もたつというものだろう。そしてそれが正しくて、しかも君の知識がただの思い込みだったりしたら、君はショックを受けることになるんだ」 それはそうかもしれなかった。 僕はその昔、自分で発見し自信を持っていたゲームの知識が他愛もないものであったことを知ったとき、ショックを受けた事があった。なるほど、他にも例えばつまらないサイトが絶賛されて、しかもそのサイトから自分のホームページがつまらないと評価されたら腹も立つかもしれない。指摘が客観的に事実だと分かったらショックも受けるのだろう。 ところがしかし、これらは自分がジャンル的に関わっていなかったら、だから何?で済む問題なのだ。 僕は頷いた。 「分かったよ。あるジャンルに対して自分が秀でているという自信。それが自尊心ということだね」 「そういうことだね。言葉は違えど、意味は同じだ。すると議論において、自尊心が傷付くことを回避するために逃げる相手を呼び戻すためにはどうすればいい?」 「あぁ」 忘れていた。そういえば、その話題だったのだ。 僕は座布団の角を触りながら考えた。 「自尊心を傷つけないことを相手に知らせるんだね」 「そうそう、どうすれば良いと思う?」 「解らないなぁ、低姿勢で話し掛けるとか?」 「たしかにそれもあるけれど」 友人は笑いながらそういった。 「方法は問題じゃ無いよ。大切なのは気持ちさ」 僕はちょっと目を丸くした。 「へぇ。君にしては随分殊勝な事をいうんだね」 「そういう君は随分失礼な事をいうんだね」 友人はそういって頬を膨らませた。 「まぁ正確にいうなら、大切なのは伝わる気持ちなんだけどね」 「あぁ、なるほど。つまりいくら低姿勢だったり丁寧だったりしても、競合する相手にそのジャンルの話題を振る場合、自信を損なわせる様子が見え隠れしては無駄だっていうことか」 「そうそう。そんなのが見え隠れしては教えようと思っても聞かないよ」 「うぅん。なるほど・・・。でも何かなぁ。ようするに真摯かつ低姿勢で語れってことだろう?ちょっと嫌だなぁ」 「嫌だと心で思うのは自由じゃないか。議論がしたいなら、それくらいは我慢しないと」 モグモグと口を動かしつつ友人はそういった。 「確かにね。でも相手は中学生だし。そこまでへりくだるのは抵抗があるなぁ。他に何か方法はないのかい?」 「自尊心は方向性と目標と達成度の問題だとさっきいっただろう?」 「いったね」 「自尊心っていうのは不思議なものでね。競合するジャンルにおける相手の意見は聞きたくないものなんだ。ただ、例外はある。そうだな、例えば取るに足らない相手による、達成度の上昇に貢献する意見、とか」 「あぁ、僕がさっきいった低姿勢で話す、ってことだね」 「うん。そして例外は一つじゃない。お互いがお互いに好影響を及ぼす意見を言い合える、同格のものの意見も、自尊心には影響しないんだ」 「ああ、ライバルというやつ?」 「そういうね。後は、そう、相手の目標とするところをオーバーするところにいる人の意見とか」 「オーバー?」 「そう。尊敬できる人ってことになるかな。名詞でいうなら。まぁこんなところだろうね。相手を議論に引き戻す事のできる意見。というか立場」 「なるほど」 僕は腕を組んで頭を捻った。 「つまり、結局はどっちにしても相手にとって都合の良い立場を僕がとらなければ行けないわけだ」 「そうだよ。相手にとって望ましくない状況をもたらす立場をとるなら、相手が戻って来る筈が無いよ、逃げた方が楽だし」 「そうかぁ。ただ、やっぱり相手のためというのがどうもヤダなぁ」 「あのね」 気の進まない僕に対して、友人は湯のみを触りながらそういった。 「君がその子と本当にしたいのは何だい?議論?」 「そりゃあ、議論そのものだけど」 「だろうね。私が今まで長々といってきたのはそのためのいわば『ツール』だ。議論において相手を論破する方法じゃない。これ以上何を求めるのかな」 「いわれてみれば、そうかもしれないけど」 僕は何だか怒られているような気分になって、誤魔化すように茶を啜った。 「でも確かにそうなんだよねぇ。本当にしたいのは何か、か」 「そう。相手とまっとうな議論をしつつ、自分が必ず勝ちたいなんて贅沢だからね。贅沢したいならせめてそのための実力がないと」 「実力?」 「相手の目標を上回るような、ね。そう。曲がりなりにも君はその子の先生なんだから、それを示す事も出来るはずだよ」 「そうか。さっきいってた、尊敬、ってやつだね。僕にできるかな」 「さぁね。そんなことは私には解らない。まぁ相手の理想とするところを見抜くことができれば楽なんだろうけど」 「君ならそう云うと思ったよ。まぁ、頑張ってみようと思う。ところで――」 僕は最後の煎餅を手に取りつつ口を開いた。 「君は最初の方で、議論の相手と共通の概念を頭の中に作り出すことが、議論の最初の状態になるみたいなことをいっていたよね」 「いっていたね」 「ふと思ったんだけど、君の話法というか、例をひいてクドクド話すやり方って、もしかしてその共通の概念を出来るだけ簡単に作るために――?」 「あぁ」 友人はニヤリと笑みを浮かべた。 「最初から相手の頭の中に概念を構築していくよりも、相手の頭の中にある類似の概念を援用した方がすんなり頭の中に入るだろうし、納得もするだろうからね。どうだい、君も試してみては?ただ相手の忍耐も必要になってくるのは確かだとは思うけど」 友人はそういって、お茶をくいっと飲み干した。 |
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