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URL:http://web1.kcn.jp/hal/
Title: 萌えイラストの心理学
Genre: 今日の一言->コラム
Date: 2002/11/16
Option:

 はい、ネコ耳サイトHALですよ〜。

  ゆつきさん、宣言は果たしましたよ〜。

 (注:当時トップ絵にあくまでも一時的にネコ耳イラストを飾っていた)


 ある意味命懸けの咲村ですこんばんは。
 もちろん懸けているのはサイト生命ですが、サイト生命が終わるよりも先に、あんな絵をトップにでかでかと飾ってる時点で普通の人としてすでに終わってるなんていう突っ込みは無しの方向で。

 自覚してますから。



 そもそもトップ絵は全身像だったんですが、あまりの下手さに絶望してついでに衣服への着色も面倒くさがったおかげで上半身だけになっちゃいましたごめんなさい。……それにしても見返すとツッコミどころの多い絵ですね。アニメCGらしきものを書くのはこれで3度目ですが、その割に巧くなってないというか。まぁ書いているうちに色々と発見がありましたし、良しとしましょう。

 例えばどんな発見をしたか、ですね。そう、具体的にいえば、何故キャラクタ化された人物の目は無駄に大きいかとか、でしょうか。アニメイラストは特にそうですね。例えば今までで一番驚いたのは、勢い良く輪郭から目がはみ出していた絵ですが、何より恐ろしいのはそれを許容できてしまう人間の認知。



 アニメイラストにおけるキャラクタは眼球が頭部の5割を占めるほどに肥大しており、鼻及び口が小さいです。加えて感情の表現、例えば焦った時などはいくつかの謎の水滴を撒き散らして表現するようですし、怒りを表すときなどは、恐らく血管が浮かび上がっているのであろう記号が、なんと髪の毛の上に出現したりもします。二頭身三頭身七頭身八頭身は当たり前、稀に1.5頭身や十頭身のキャラクタまで現れるしまつ。

 現実に現れ得ないこれらの「人物」を、何故人は許容できてしまうのでしょうか。

 その答えは印象にあります。
 具体的にいうならば、認知のバランスでしょうか。人は、誰かと話をするとき、見るとき、顔を見ます。目を見ます。そのとき、目に注意が行きますよね。そのために、それ以外の口や鼻への焦点はぼかされてしまうのです。

 絵心の無い幼児が人物の絵を書くとき、顔が異様に大きくなり、目鼻口の各部分が部品として描かれるのもそれに似ています。これはあくまで印象をそのまま絵にしただけであり、人が許容できる認知的なバランスとは少し違いますけどね。印象と、自覚を昇華させ、技術を極めていった結果、現れるのがアニメイラストなのです。

 これが、例えばあくまで写実主義に徹するならばこのような進化をすることはなかったでしょうが、遍く全ての絵には、写実の限界があります。物理的な原因についても勿論そうなのですが、例えば壮大な景色を写真に撮ったのに、現像してみるとチャチな、思ったよりもちっぽけな風景になってしまっていることがあります。これは人間の認知の問題ですね。例えば壮大な山を見たとき、山に焦点が集まり、雰囲気など諸条件も交わってその他の風景は圧倒され、普通よりも小さく見えます。周りの風景が小さく見えるのならば相対的に山が大きく感じられるのは当然といえるでしょう
写実的な絵を排し、従来の遠近法を無視し、感性のおもむくまま、認知の、印象のおもむくまま、アニメイラストを最初に描いたのはフランスの画家ポール・セザンヌです



 それはまぁ冗談で、その時の風景を写実的にかつ、その時の感動を甦るように絵を描いたのがセザンヌというだけなんですけどね。つまり、写実的な絵には自ずと限界があるのです。ならばということで、写実的な絵を最初から諦めてしまった時に現れる手法。それが、アニメイラストなのですね。人物像において印象に残らない部分を切り捨て、印象のある部分をアピールし、極端なデフォルメと、洗練された「魅」の要素をふんだんに盛り込んだ、ある意味無駄の無い形態。常識的なものとして記号化された「怒り」「汗」は必要最小限の形を持ってイラストに盛り込まれます。もちろん、デフォルメに撤する一方で必要な部分は現実を忠実に再現します。衣服の皺、家具や調度品の光沢、などがあげられますね。もちろん、それらもデフォルメされたキャラクタの後から存在する以上、キャラクタとの調和を図らねばなりません。余計な質感や、圧倒的なリアリティは排除されるべきなのです。
写真、あるいは実際の風景を背負ってアニメのキャラクタが歩いている姿が異様なのはこのためです。実際の風景を背負って歩かせたければ、同じ世界の人物を歩かせねば違和感が甚だしく増大します。3DCGの世界にも同じことがいえるでしょう。

 つまり、アニメイラストとは、人を認知するときの知覚的なバランスを重視した、あえて心理学的な角度から表現するならば、それは人が人を認識する際の認知的感覚地図だといえるわけです。実に学術的ではありませんか

 しかして残念な事にそのイラストがアマチュアの手によって実践されるとき、それは局地的な嗜好形態、あまり宜しくない言葉を使って表現するならば、それは『萌えを実践する人』。すなわち『オタク』として認識される傾向が高いように見受けられます。理由は簡単ですね。

 認知的な感覚地図なのですから、その人の認知が最大限に発揮された部分が最大限に描かれるわけです。つまりそのまま欲望の権化なわけです。男性から見た女性のインパクトのある部分、女性から見た男性のインパクトのある部分。理想像。願望。それらの熱き魂を自らの情熱に乗せて叩き込んだイラスト



 該当者が引かない訳ないじゃないですかって話。学術的であると同時に歪な心の投影機。アニメイラストとは奥が深いです。(会社に行くための勉強と、勉強のための勉強があるのと同じに、全ての技術には目的のための技術、技術のための技術、が存在する事もお忘れなく)。……でもまぁ逆に言えば、どうすれば理想像ガリガリ持ってる人にモテることができるか、という嫌な答えも導き出せそうな気もしますけどね。
そうだそうだ、せっかくですし学術ついでにちょっと公式でも作り出してみましょう。



 【でじこの定理】

 C{R×(T-S)}=A



 R=リビドー
 T=テクニック
 S=セルフコントロール
 C=カルチャー
 A=アニメイラストの萌え度(%)




 文字に変えると『描き手の技術から描き手の理性分の技術を減じた後に欲望を乗じた上で、さらに見る人の文化的許容度を乗じたものがアニメイラストの萌え度である』ということですね。うん、素晴らしい。自分や、知り合いの誰かさんを当てはめてみると不幸になること受けあいです。がんばれっ。公式を変形する事で相手の欲望や理性の強さが測れることも忘れるなっ



 たまにネジが緩んだかのように長い文章を書くことが売りのHALですが、今日はまだ続きます。実は先ほどの文章では髪の毛の色について瑣末なことでしたのであまり言及していませんでしたが、アニメには信じられない色合いの髪の毛が多々登場しますよね。下手をするとプロアマはともかく、奇抜なミュージシャンに見えかねない髪型色合いが、日常生活に溶け込んで自然に生活しています。赤に橙、黄色に緑、青に藍に、紫に〜。しかもどうやら虹の色は全部ありそうな感じですヨ



 現実には存在しない髪の色。当然デフォルトではありえません。それではこの異常な色はどこから涌いて出たのでしょうか。一瞬悩ましげなこの問題ですが、答えは簡単です。



 デフォルメされたということは、バリエーションが減ったということである。



 ちょっと格言っぽく書いてみましたがそのままです。デフォルメというのは洗練を極めるという性質上どうしても、キャラクタの顔がみんな同じに見えてしまうというデメリットが存在するのです。それを回避するために生み出された打開策こそが、髪型の変形、髪の毛の色の変更ということだったのです。
 そう、キャラクタはもはや髪の毛で判断する時代に突入したのです

 髪の毛でキャラクタを立たせなければ行けないにもかかわらず、同系色の色の髪型を持つキャラ同士は印象が同じになってしまうというジレンマ。ならば色を変えてしまえばよい。色の数だけキャラが増えるわけなんです不思議ですね。ようは見栄えの問題でしょうか。映像全体のカラーリングに溶け込むと同時に、必要な識別記号としての役割を担っている。だから不自然に見えないのかも知れません。

 現実でそれを実戦する困ったさんが、世間さまに白い目で見られてしまう理由もこのあたりにあります。現実の人間には同じ顔の人間は一人もいないんです。ようするに存在するだけでキャラが立っているってことなんですから、迂闊に髪の毛の色を青なんかにしてしまったら最後、キャラが立つというよりはむしろ浮く。リンゴとトマトが並んでても十分違うのに、あえて違いを強調するためにトマトをブルーにしたら食欲は減退する一方ですよね。とても喰えません。
でもまぁトマトとリンゴが並んでいれば確かに、個々の見栄えが良くないというのも事実。なら少し未熟な青リンゴとか青いトマトを用意するという手段はどうでしょう。これなら自然ですし、見栄えも少しはよくなりますよね。……実は、これこそが今の茶髪の理由なんです。黒い髪の人間が100%を占めるよりは余程綺麗です。茶に染めた髪があるからこそ、黒い髪に価値が出て来、黒い髪という地があるからこそ、茶という髪が映える。過ぎたるは及ばざるが如し。適材適所。世は相身互い。相互作用の大切さがここにあるのではないでしょうか。



 さてさて。アニメ談義のはずが何故か訓戒みたいになりましたけれど、それはさておき。ものごととは、かくのごとく文化的に認知されうる許容域とバランスが何より大切なんですね。
これは、たぶん何事にもいえることではないでしょうか。死んで花実が咲くものか。知識は使えるうちに使うべきだと思います。世の中には無駄な知識などないのですから。



 (ゆつきさん、速攻の情報提供ありがとうございます♪以下引用です)




これだけってのもなんですので、情報系サイトとして上記の更新でふれられているマンガ・アニメキャラの顔のパーツバランスの件について、関連性のある情報提供を少しだけさせて頂きますね(役に立つかどうか分かりませんが…)。

日本のオタク文化については、岡田斗司夫さんが論者として有名ですが、彼が「オタクは江戸文化の正当な継承者である」というようなことを言っています。その論拠として挙げられているものの一つに、江戸時代の浮世絵師写楽の大首ものに見られるデフォルメ(目や鼻など顔のパーツバランスを任意に変えている)が、現代のアニメ・マンガに見られるキャラ造形に通じている、というものがあります。

さて、この写楽の作風についてはエイゼンシュタインという人が『映画の原理と日本文化』という文章の中で次のように述べています。「この彫刻された能面の方はかなり正確な解剖学的な釣り合いによって構成されているが、似顔の版画の方の釣合いは全くあり得べからざるものである。目と目の距離は、健全なセンスをあざけり笑うほどの広さをもっている。鼻は…(中略)充分に意識した上で彼は常態を退けたのである。といって、目鼻だちのひとつひとつは濃度の極めて高い写実主義をたよりにして、描かれている。ただひとつひとつの釣合いが、純粋に知的に考慮されて、決められているのである。そして彼が、目鼻だちのひとつひとつの大きさを決める規範として確立したものこそ、精神表現の実体をなすのである」

そうそう、あとサッチャー錯視で有名なトンプソンという人が「目・口の認識は顔の輪郭の認識とは別のチャンネルでできている」と言っているので、それもデフォルメという行為に繋がっていくのかもしれませんね。




 さてこの情報を無駄にしないためにも追記です。
 僕は寡聞にして岡田斗司夫さんという方は知らなかったのですが、日本の浮世絵におけるスタンスと、アニメイラストの相違については若干意見を異にします。実際的な意見を知らないわけで、きちんとした異論になるわけではないのですが、例えば上記のエイゼンシュタインという人の引用によると写楽の絵は「充分に意識した上で彼は常態を退けたのである。といって、目鼻だちのひとつひとつは濃度の極めて高い写実主義をたよりにして、描かれている。」とか。

 ひとつひとつは写実主義を頼りにして描かれている

 この部分ですね。僕の感覚としては、……というか、あくまでも個人的な意見なのですが、先に書いたように、アニメイラストとは写実的な絵を最初から諦めてしまった時に現れる手法なんですね。絵画の基礎を踏襲するより前に描かれる。つまり基礎を固めた後にデフォルメを撤した写楽とは、根本的に違うのではないかと思うわけです。これは先ほどのセザンヌのこととも関わってきますよね。セザンヌは絵画としての実力を十分に蓄積した後に、応用として認知的な印象を強化するという技術を導入しているわけです(『アニメイラストは基礎を踏襲する前に描かれる』などといってるものの、勿論、それ自体の技術が発達した結果としてのアニメイラストの基礎というべきものが存在するのも一方では注目すべき事実です)。

 これは割合レベルだけの違いじゃないですよね。ベクトルそのものが違うんです。例えば印象に特化した絵。写実を印象として生かす絵。写実を印象という技術を以って生かす絵。目指すところがそれぞれ違うんです。包丁、刀、カッターナイフの違いといったところでしょうか。欧米のアニメもそういう点では立脚点が違いますよね。文化的な感情の表し方自体が違うから仕方無いのかもしれませんが。



 そうだそうだ。それから表情について言及するのを忘れていましたね。人の表情としてアニメキャラの顔で重要な役割を担うのは、目、眉、口、だけのようです。先のゆつきさんの引用からも窺えるように、目、口の認識は別のチャネルを通じて行われるようですが、もしかしたらそれは眉にも同じことがいえるかもしれませんね(密かに実験してみたいなと考えたり)。ところで目といえば、絵における人の目はなぜ、両端が解放されているのでしょうか?

 これの答えもやはり焦点によります。人は目を見て話す。そして目とは黒目部分を指すのです。だから黒目部分の大きいイラストが多く、黒目より遠い両端は認識が薄くなるんです。

 最終的な感想ですが、アニメイラストを参考に人が人に受けようと思ったならば、アニメイラストで強調されて描かれている部分はすでに強調されて認識されていることに他なりませんから、それをさらに強調する真似は止めた方が良いと思います。過ぎたるは及ばざるが如し、ですね。

 以上、追記でした。
 何というか、その。天邪鬼で申し訳無い



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