朱鳥元年(686)、道明上人は、天武天皇のおんために銅板法華説相図を安置、のち神亀四年( 727 )徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために十一面観世音菩薩を祀った。上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれである。
奈良時代以降、戦国末期までは東大寺や興福寺の所轄となり幾多の変遷を経てきたが、その間藤原氏(現在の廊坊氏の祖先)が別当として門前の居を構え、寺役を勤め守護の任に当たってきた。
戦国時代の社会混乱期における経済的基盤の危機には、豊臣秀吉の擁護を受けて復興した。その時、廊坊氏は寺物いっさいを専誉僧正に引き継いで山を下った。この頃長谷寺は観音霊場であると共に、真言宗豊山派の総本山として再出発し、また学問寺として多くの学僧を生み育てた。
右上図(長谷寺境内図)にあるように、かつては現在の大鳥居跡の場所まで一帯が境内であった。
西国三十三所第八番札所として、檀信徒はおよそ三百万人いる。全国各地から信仰をあつめ、特に元禄時代以降は牡丹の初瀬として名高く、桜、紅葉を加えての観光地としても全国に名を知られている。
国宝の本殿は小初瀬山の中腹にぐいと張り出した懸造り(舞台造り)の大建築で観音堂、大悲閣ともいう。舞台からの眺めは素晴らしく、山々に抱かれた初瀬のまちが一望できる。
本尊は、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩であり、像高三丈三尺六寸(1018.0cm)と、我が国で最も大きな木造の仏像。重要文化財。ほかにも多くの寺宝を所蔵している。