今月の言葉
 

(過去ログ)


平成26年6月
世間では、幸福とは「めぐりあい」といいます。又、私たちも良き巡り合いを求めて生きてい

ます。しかし、巡り合いが良いと仕合わせになり、巡り合わせが悪いと不幸になるとするなら、

私たちは一生仕合わせになれないのではないでしょうか。

何故なら、どんなに健康な人でも、明日の生命の保障は何処にも在りません。一瞬のうち

に交通事故や天災地変で亡くなるかも知れません。 しかも、この世は無常ですから、誰も

が老いて、好きな仕事も楽しい趣味も出来なくなるときが訪れてきます。

そして、何時かは親と別れ、愛する妻や夫・子供とも永遠の別れをしなければならない時が

必ずやってきます。

世間では「めぐりあい」が「幸福」と言いますが、全ての人は、最後には平等に巡り合わせが

悪くなるのです。

むしろ問題は、巡り合いの良い人が幸福で、悪い人は不幸と区別するのではなく、めぐり合

わせの悪い人間が、如何に生きていったら幸福になれるのかということだと思います。

この原点に立ち、本当の「しあわせ」を求めに求められたのが浄土宗の法然上人です。 

法然上人は、巡り合わせの悪い人間こそ、幸福にならなければならないと願われたのです。

そして、万人救済の道を求められ、その唯一の方法として選び取られたのが、「お念仏を

申す」ということです。お念仏は、いま現実に眼の前に起こる悩み苦しみに、即効性がある

わけではございませんし、たとえ即効性があって悩みが消えたとしても、また沸き起こって

くるものでございます。そういった意味でも、一過性のお念仏ではなく、絶え間なく称えるべき

ものであります。本当の「しあわせ」探しをするために、ともに、お念仏を称え、私達の行く末を

考えてまいりましょう。 
平成26年4月 
 4月8日は、お釈迦様のお誕生日であります。この日の前後、日本の仏教・各宗派におきま

して、花祭り行事が行われます。少子化に伴い,子供の数は減っているものの、昔から盛大

に行われています。通称、花祭りと呼ばれていますが、宗派によっては、降誕会(ごうたんえ)

とか花会式(はなえしき)とも呼ばれております。正式には、灌仏会(かんぶつえ)と言いまして、

灌(かん)という言葉は「そそぐ」ということであり、仏さまに注ぐと書きます。


日本では、様々な草花で飾った御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏用の桶を置き、

甘茶を満たします。そして、その桶の中央にお釈迦様がお生まれになった様子を表す誕生仏

の像を安置し、柄杓で像に甘茶をかけて、お祝いします。先に申した、仏様に注ぐというのは

この動作の事であります。それに、甘茶をかけるのは、お釈迦様がお生まれになった直後、

産湯を使わせるために、9匹の竜が天から清浄の水を注いだ、という伝説に由来しています。

甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじ

ないを作ったりする地方もあるようです。


『長阿含経』というお経の一節に、お釈迦様は、誕生したとき、四方に七歩ずつ歩き、一方の

手で天を、一方の手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と、仰いました。一見すると、「この

世で一番尊いのは自分である。なぜなら自分という存在はこの世に一人しかいないからで

ある。」という風にとらえられますが、実は、そうではなくて、「自分という存在は、誰にも変わ

ることのできない人間として、生まれており、この命のまま尊い。」ということが本来の意味な

のです。現実の世界に置き換えますと、人間の命の尊さは、能力、学歴、地位、名誉、財産

などの有る無しを超えて、そのままで尊い「自分」を見だすことの大切さを教えている言葉な

のです。世の中は、大人も子供も競争の社会に生きています。とかく何事にも優劣をつけ他

人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に陥ってしまいがちてす。しかし、この言葉の意味を、

よくよく理解しますと、他人と比較して傷つく必要など全くないものであると同時に、他人より

優れたものがあったからといって、おごり高ぶるものではない、ということに気づくはずです。

天上天下唯我独尊、それぞれの存在が尊いのであります。
平成26年3月
「転ばぬ先の杖」と言う諺があります。 前もって用心していれば、失敗することがないという喩え

ですが、私は一昨年の夏、自分の不注意から足を骨折しまして、転んだ後に杖を使うこととなっ

た訳です。決して頑丈とは言えない、たった一本の杖が、不自由な身体の一部となり、本当に

頼もしく随分たすけてもらいました。杖という道具は、人間の身体を支えるものではございません

ので、それ自体が重いようでは負担になってしまい、常に持ち歩くことは難しいのです。

悪い方の足にかかる圧力を軽減し、身体全体のバランスを取る道具なんだと、リハビリの先生

より教わりました。身体の持つ自然治癒力というより、この杖の助けを借りて、割合早く回復させ

て頂いたことであり、まさに如来様の杖であったように思います。


外国には、「愚者の杖」という話があります。ある大金持ちが、召使いの中で一番愚かな者を見

つけて、からかってやろうと思い、一本の杖を渡して、「これは愚か者の杖だから、おまえより愚

かな者を見つけて渡すのだ」と言いました。 その召使いは主人の言い付け通り、自分より愚か

な者を求めて国中を捜し回りました。 しかし、見つけることができず途方に暮れていた処へ、主

人が危篤だという知らせが入ります。 あわてて駆けつけてみると主人が「もうお別れだ」と言い

ます。 「なぜ?」と尋ねると、「遠い処へ行くから」というので、「何処へ?」と尋ねると「わからん」

と言いました。また、「旅の支度は?」と尋ねると「何も無い」と言います。長旅をするのに、行き先

もわからず、旅支度もしないとは何と愚かな人だと思い、その召使いは持っていた杖を主人に渡

した、というお話です。

さて、現代に生きる我々の行く末は何処でしょうか? それは、元祖法然上人がお示しくださって

いる通り、西方極楽浄土であり、旅支度はお念仏であります。

六字の御名号を心の杖として、娑婆世界を渡り切った人にのみ、阿弥陀如来さまが果報として、

極楽へ救い取って下さるのであります。

暦の上では、早くも春彼岸が近づきました。彼の岸お浄土の世界に思いを馳せ、念佛精進して

参りましょう。 
 平成26年2月
 2月15日は、お釈迦様がお亡くなりになられた日であります。 お釈迦様は、王子という身分で、

この世に生まれ、地位も名誉も財産もあり、妻も子もいましたが、人の一生は苦であり、どうすれ

ば、その苦しみから抜け出すことが出来るのか? ということを追い求め、そのために自分に関

わりのある物すべてを捨てて29才の歳で出家されました。29歳から6年間の荒行をし、菩提樹

の樹の下で49日間座って悟りを開かれ、その後、仏の教えをみんなに説いて、80年の生涯を

閉じられました。


雑阿含経というお経の一節に、「4人の妻の話」というのがあります。


あるところに、4人の妻を持った富豪がいました。ある日、国の王様から遠い国まで使いに行く

よう命ぜられました。旅の道中の不安や寂しさを考え、4人の妻の誰かに同行させようと考えま

した。そして、4人の妻たちに、愛する順に声を掛けて誘いました。彼は、第一番目の妻を溺愛し

ていて、高価な美しい服を買いあたえ、おいしい物もたくさん食べさせ、どこに行くにも一緒だっ

た妻に向かって「私と一緒に行ってくれるか?」と尋ねました。 すると、「わたしはこの国にいて、

思い通りの生活が出来るから幸せなんです。」と、あっさり断られました。次に、美貌の持ち主で

ある二番目の妻に向かって、「お前を手に入れるために、大層苦労をしてきた。寝食を忘れ、時

には人をだましてまで、お前をかわいがった。一緒に行ってくれるな?」 すると、この第二婦人、

せせら笑い「第一夫人が同行したくないという旅に、この私がご一緒するわけにはいきません。」

と冷たく断られてしまいました。今度は、第三夫人に向かって、「お前こそ・・・」と言いかけた途端、

この第三夫人、身をよじって泣き崩れました。第三夫人は、近くに来ると手を固く握りあい、別れる

時は見えなくなるまで手を振り合う間柄でしたが、たまに気が向いたときだけ愛する夫人でした。

「私は、いつまでも、あなたと一心同体ですが、村外れまでの、お見送りといたします」と断られま

した。最後に残っている第四夫人、いつも影から夫に仕えてきた夫人で、優しく言葉を掛けてやる

ようなこともなく、愛されたこともなかった夫人でありましたから断られると思い、力なく目で尋ねる

と、意外にも「私で良ければ、どうぞ旅に連れて行ってください。どこまでも喜んでお供しましょう」と

言ってくれたのです。富豪は、ここで初めて、自分がもっと愛すべきであったのは、第四夫人であ

ったと悟ったのでした。


実は、これは富豪が、あの世への死出の旅に出ようとしていた話なのです。第一番目の妻という

のは、私達の肉体のことであり、二番目の妻は地位や名誉や財産のこと、三番目の妻は、家族や

友人のこと、そして四番目の妻は、私達の徳を喩えているのです。「徳」とは、その人のすべての行

跡で、他人を思いやる気持ちで、陰で善い行いをする、決してひけらかさない、ということで徳を積

むといいます。あくせく金儲けをしたり、地位や権力を求めたり、肉体に執着しても、所詮は空しいこ

とで、そんなことより、「善い行いには、善い縁が生まれ、善い結果が出る」という無限の連鎖を目

指して「善き徳」を積み重ねる修行が大切である、ということを記しています。

現在の私たちは、お釈迦さまが捨てたられた、地位や名誉や財産等を、あくせく、コツコツと追い求

め、拾い集めています。お釈迦様と相対する行動に、なんとも言いきれない思いが起こりますが、

これが私たち凡夫の悲しい身の上なのです。このことに早く気づき、念佛精進して参りましょう。
平成25年12月 
今月12日、恒例であります京都の清水寺での森管長さんによる今年の漢字が

発表されました。2013年を表す漢字は「輪」。2020年東京五輪の開催決定や、

富士山の世界文化遺産登録、サッカー・ワールドカップへの日本代表の出場

決定など、「日本中が輪になって歓喜にわいた年」であり、台風など相次ぐ自然

災害にも支援の輪が広がったことなどが理由に挙げられました。


森管長さんのコメントは、『輪』には、大勢の人が手を握りあい円滑に回転して

いく、という意味がある。皆が譲り合い支え合って、来年も震災復興など輪の

つながりに努力していきたい」と話されていました。


輪という言葉を、仏教の言葉に振り替えますと、一蓮托生という言葉になろうか

と思います。最近は、どちらかというと悪い方の喩えで、「悪いことをするのも一

蓮托生」などと使われることがありますが、行動や運命を共にするという意味で

あります。日々、お念佛の行を実践する私たちが、阿弥陀如来や諸菩薩のお導

きによって、極楽浄土の同じ蓮華のもとに往き生まれることを表す言葉であります。


宗祖法然上人は、お念仏の行について、ご法語「一紙小消息」の中で

「行は一念十念、なお虚しからずと信じて、無間に修すべし」と仰っています。

一遍や十遍のお念仏でも必ず往生できると信じながら絶え間なく称えなさい。と

お示し下さっています。


日々、生き死にを繰り返している私達です。  いつ、その時が来ようとも、

今この一瞬のために、一遍のお念仏を称えて下さい。そして、一瞬一瞬の

お念仏を続けるということが絶え間なくということになるのです。
平成25年11月 
 
台風の到来が気になる今日この頃ですが、ようやく秋らしい季節になりました。

次第に山の色づきも変化を見せ、私達の眼を楽しませてくれることでしょう。

しかし、その一方、落ち葉の掃除に追われる時期でもあります。

掃いても掃いても、掃いてる、そばから落ちてきて、やっと綺麗になっても

風が吹けばアッ!という間に元通りであります。「どうせまた落ちるし放って

おこう」などと、怠慢な態度でサボろうものなら、サボった分だけ、そのツケは、

しっかり、次の掃き掃除に上乗せされ、労力も時間も掛かります。


先日、知恩院での用事の帰り道、近くを流れる高瀬川のほとりで一服していた

時のこと。何とも、けたたましいエンジン音とブゥオォーンとかゴォーーと響く風の

音に驚いた場面がありました。見ると京都市の清掃作業員の方々が、通りの

清掃作業をされていました。

その内の一人が、エンジン付のブロアという機械を操作され、落ち葉の吹き飛

ばしと吸引をされていました。その機械のおかげか、ものの数分で私がいた周

辺を掃除され次のポイントに移動されて行きました。あぁー便利な時代になって、

あれがあれば、面倒な掃き掃除が解消されるのになぁーなどと考えていました。


ただ、ふと気づいたことがありました。ある人が、「便利なものは、不便なもの」と

言ったことを思い出しました。合理的な利点は有るものの、万能性である便利な

ものは無いからです。よく考えてみると、便利さゆえの不便利さは必ずある訳です。

こう考えると、機械に比べ、人力による掃き掃除のいい処は何だろう。


一つに、落ち葉から香る匂いに季節を感じ、気持ちが不思議と安らぐ。

二つに、黙々と取り組む落ち葉掻きには、心を鎮める作用がある。

三つに、為し遂げた時の達成感と綺麗になった後の爽快感。

と、こんなところでしょうか。

禅宗の寺院などでは古来より、落ち葉掻きは「掃き清める」という作務で、修行の

一つになっています。掃くという行為が単なる動作ではなく、 心の浄化に繋がる

のだそうです。例えば、この落ち葉が我々の欲、すなわち煩悩だとすれば、それを

掃き清める箒が、お念仏であります。掃けども掃けども落ちてくる煩悩の木の葉を、

面倒でも繰り返しお念仏の箒で掃き続けるのです。どうぞ、ご精進ください。 
平成25年7月
暑さが日ごとに増してまいりましたが、皆様いかがお過ごしでございましょうか?

用事で村の中を回りましたら、色紙で折った飾り物や短冊を付けた子笹が見えました。あぁ〜

今日は七夕なんだと、自分も子どもの頃、色とりどりの短冊に、沢山のお願い事を書いて、

七夕飾りを作ったことを思い出しました。


日本人は古来より、神仏を始め、さまざまな物に願いを託すことで、心に安らぎを得てきました。

日常の信仰の面でも、菩提寺の年間行事で幾度となく塔婆回向に臨まれていることでしょう。

信仰の無い人に言わせれば、単なる板切れに文字を書いてるだけじゃないか? などと嘲笑

されそうですが、私たちにすれば、たとえ板切れでも亡き人のことに思いを傾け、その俗名なり

戒名で御回向して頂き後生安楽を祈る、という大変に有難い行いであることは言うに及ばない

ことであります。


ところで、この「思いを傾ける」ということ。日常わたしたちは、朝おきてお仏壇の阿弥陀様や

ご先祖様に手を合わせ、一日おわるまで無事に過ごせますように、などと祈願をされる方も多い

かと思います。一見、私達が仏様に一方的に願いをかけているように思いますが、実は、眼には

見えませんが、仏様の方からも私達に願いをかけ働きかけて下さっているのです。佛教の言葉で、

「往相・還相」ともうします。阿弥陀如来さまやご先祖さまを頼りとし願いをかけ、しっかりとお念仏を

申す。それだけでいいのでございます。

いろいろな所に「お願いできるところがある」、「頼れるものがある」ということは大変心強いことです。 
平成25年4月 
お彼岸が終わり、いよいよ春の到来、地元吉野のサクラも咲き誇る頃でございます。

さて先日、お檀家さんの法事に出向いた時のこと。親戚の方から「おっさん、今日も有難い

お経をお願いします」と言われました。はて? 有難いお経とは? と悩むところでしたが、

すかさず「いえ私ひとりでは少々無理ですので、お参り下さった皆様もどうぞ一緒にお願

いします」と伝え、共にお勤めいただきました。

通常、菩提寺の和尚さんに来てもらって、お経をあげてもらうのが一般的な法事でありま

すが、では、なぜ、お経を読むのか?  疑問に思われたことはありませんか?


ある調査で、仏教関係者に聞いたところ、「亡くなった方に、ご回向するため」という回答が

大かったそうです。

しかし、そもそも、お経というのは、お釈迦様が沢山のお弟子さん達に説かれた仏法を、

お釈迦様の死後、お弟子さん達の手によってがマトメられたものが、「お経」であります。

お釈迦様は生前、ただの一度も亡くなった方に、仏法を説かれたことは無いのであります。

だから、住職・施主は勿論のこと、法事にお参りくだされた方々と共に勤めてこそ、意味が

あるものなのです。



浄土宗の日常勤行は、香ゲから始まり送仏ゲで終わります。 法然上人御法語の部分は

省略いたしますが、それぞれのお経の意味としては、香ゲ(自分の身と心を清め)、三宝礼

(仏法僧の三宝に帰依し)、四奉請(法要を営む場所に阿弥陀様をお迎えし)、懺悔ゲ(過

去・現在の一切の悪業を悔い改め)、開経偈(お経に出会えたことに感謝し)、四誓偈(経

典に記された教えを再確認し)、本誓偈(お経を読んだ人が、皆で極楽へ行けるように願い)

摂益文(念仏を申す者は皆、阿弥陀仏の光明に迎えられ)、念仏一会(阿弥陀仏の教えに

基づき「お念仏」を実践し)、総回向偈(その功徳を多くの人々に回向して、皆で往生を目指

すことを宣言し)、総願偈(自身の仏道成就と実現の手段としての往生を願う気持ちを表明

し)、三唱礼(往生実現のために改めてお念仏をお称えし)、送仏偈(仏様に、私たちの仏

道修行を見守ってくれるようにお願いし、仏様を見送る)という内容でございます。、


法事を始めとする各種法要は、基本的に、この日常勤行式を用いますので、

「いま生きている方々」と「亡くなられた方々」の双方に、『阿弥陀如来さまのお救いをお願

いする』お勤めになっている、ということになります。ですから、お経を読むことで、自分の

あるべき姿を再認識する場が生まれ、立ち止まることができる場がお経の中に示されてい

るのであります。ご自分の家や親戚の法事などの機会もありましょう。どうぞ、和尚さんと

ご一緒にお勤めいただきますようお願い申し上げます。
 平成25年1月
それ、朝(あした)にひらくる栄花(えいが)は、夕べの風に散りやすく、

夕べに結ぶ命露(めいろ)は、朝(あした)の日に消えやすし。

これを知らずして常に栄えん事を思い、これを覚らずして久しくあらん事を思う。

しかる間、無常の風ひとたび吹きて、有為(うい)の露(つゆ)永く消えぬれば、

これを曠野(こうや)にすて、これを遠き山におくる。屍(かばね)はついに苔の下に

うずもれ、たましいは独り旅の空に迷う。

妻子眷属は家にあれども伴わず、七珍万宝(しっちんまんぼう)は蔵に満てれども

益(えき)もなし。ただ身にしたがうものは後悔の涙なり。

ついに、閻魔の庁にいたりぬれば、「罪の浅深(せんじん)」をさだめ、「業の軽重

(きょうじゅう)」をかんがえらる。法王、罪人に問うていわく、「なんじ、仏法流布の

世に生まれて、何ぞ修行せずして、いたずらに帰り来たるや」と。その時には、

われらいかが答えんとする。すみやかに、出要(しゅつよう)を求めて、むなしく三途に

帰ることなかれ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
これは、法然上人勅伝第32巻「登山状」の中の一文で、皆様に馴染みのある所では、

法然上人御法語〔前編〕第22章「無常迅速」の言葉です。   簡単に訳しますと、


そもそも、朝に開いた栄華の花も夕べの風には散りやすいもの。

夕べにひっそりと結んだ命の露も、昇り始めた朝日のもとに消えやすいもの。

この理(ことわり)を知ろうともしないで「いつまでも栄えていたい」と望み、

この理(ことわり)に目覚めずして「いつまでも命があるだろう」などと思い込むのだ。

そうこうするうちに、全てを滅ぼしてゆく無常の風がひとたび吹けば、憂いながら

生きてきた命も、永遠にこの世より消えてしまい、あとの我が身は“荒野”へと捨てられ、

或いは“野辺の山”で焼かれることとなる。

やがて“苔の下”に埋もれてゆき、魂が一人ぼっちで冥途への旅の空を、さ迷うのだ。

妻も子も、縁のある者も、家に大勢いたとしても連れて行くことは出来ない。貴重な宝の

数々が蔵を満たしていても、それが何の役に立とうか。

ただ、我が身に従うものは「後悔の涙」ばかりなのだ。

そして死後、〈閻魔法王〉のもとにたどり着いた時には、「己が罪の深さ浅さ」を定められ、

「悪業の重さ軽さ」を判断される。閻魔法王は罪人たちに、こう問いかけなさるだろう。

「おまえは幸いにして、尊い仏法が広まる人の世に生まれたというのに、どうして何の

修行もすることなしに、無意味に六道の世界に帰って来たのだ!」と。

その時に、我々は何と答えればよいのか。速やかに「輪廻を抜け出る道たる仏法」を

求めて、虚しく三途(地獄道・畜生道・餓鬼道)へと帰っていってはならない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

俗に、有意義な人生を送るとか人生を全うする・・・と申しますが、仕事やお金儲け、

遊びや趣味といったものは、人として生きている間に行われる行為であり、限り有るも

のであります。

この御法語の意味する所は、もっと深いものがありますが、自分の行く末を考えていく

中で絶対きもに命じておかなくては成らない文章であると思います。

最後の部分の「すみやかに、出要(しゅつよう)を求めて」というのは、輪廻を抜け出る

道たる仏法と言いましたが、つまりは、ここで言う仏法とは、お念仏を申すということです。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と言った六道の中で、この人間界だけが唯一、

お浄土の世界へと生まれかわれる世界なのです。

本当の意味で、有意義な人生を送り、人生を全うするということは、この理を、頭だけで

なく身体全体で会得しておくことと考えます。

 平成24年11月
朝晩の冷え込みが身にこたえる時節となりましたが、みなさま、お風邪など引いて

おられませんでしょうか、お伺い申し上げます。

つい先日、関係団体の行事の下見で、天理市柳本にあります真言宗の長岳寺

というお寺さんに行かせていただきました。

こちらは関西花の寺としても知られているようですが、広い境内にところ狭しと

季節の花々が植えられてあり、移ろいゆく季節感を味わい、諸行無常を感じさせて

頂ける環境づくりを展開されております。 お花以外にも、毎年10月中旬〜11月

下旬にかけ、地獄絵のご開帳が目玉行事として行われております。 

1枚の絵を9本の軸に分けた地獄絵図の前で御住職さんが絵解きをされる訳ですが、

絶妙たる話術と描かれている地獄の様子を見ていますと、何とも言えぬ不気味さが

伝わってまいります。

さて、地獄と言えば閻魔さま。最近の子ども達に言わせれば、単なる想像上の作り

物などと、そっぽを向かれますが、私どもの子どもの頃は、悪いことをしたら地獄に

堕ちて、閻魔さんに舌を抜かれる・・・と道徳的なことを躾られたものでした。

このお寺の地獄絵図を見ますと、人の死後、49日の満中陰を迎えるまでに

亡くなった方の行き先が決まり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上といった六道を

輪廻し、いつまで経っても苦しみの世界から抜け出せないのか、お念仏のある生活

を営んだオカゲで無事、極楽世界に救い取られるのか・・・二つに一つ。

そのリアルな絵を見るにつけ、やはり悪いことをせず、正しく仲良く明るく日暮らしする

ことが大切だ・・・と感じました。地獄絵に興味のある方、今月末まで開帳されています。

足を運ばれては如何でしょか。
 平成24年10月

寒さが次第につのり、そろそろ紅葉の季節を迎えようとしております。

みなさま如何お過ごしでございましょうか。

私ごとですが、6月中旬、自分の不注意から右足関節を骨折してしまいました。

入院中、お見舞いに来てくださる方々に怪我の説明を繰り返す度、自分のしで

かした愚かさに苦しんだことでありました。

骨折などの怪我は「日にち薬」と言われるように、日増しに回復の兆しあり、

術後35日の入院だけで、何とか復帰させて頂くことが出来ました。



元祖法然上人御法語の後編27章の「転重軽受」一節に、


「仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受と云いて、宿業限りありて重く

受くべき病を軽く受けさせ給う。況や、非業を払い給わんこと、ましまさざらんや。

されば念仏を信ずる人は、たとえいかなる病を受くれども、『皆これ宿業なり。

これよりも重くこそ受くべきに、仏の御力にて、これほども受くるなり。』とこそは

申すことなれ。」とありまして、簡単に説明しますと、


「阿弥陀仏の御力は、念仏を信じる者を、転重軽受と云って、悪業の報いが

定まっていて重く受けるはずの病を、軽く受けるようにして下さいます。まして、

いわれのない禍いを防いで下さらない筈はありません。ですから念仏を信じる人

は、たとえ如何なる病を受けても、『すべてこれは過去に私が犯した悪業の報い

である。これよりも重く受けるはずが、仏の御力で、この程度に軽く受けられたの

だ。』と、言うものなのです。」 ということです。


この度の私のような場合や、また加齢による怪我、それに身体の内面的な病も

色々あります。人には説明の出来ない痛みや苦しみを伴う病気もある訳で一概

には当てはまらない御法語のように思われますが、俗に、「病は気から」と申し

ますように、考え方ひとつで良くも成り悪くも成る場合も多々あるように思います。


法然上人は、お念仏のある生活は勿論のこと。病気になっても、焦らず心おちつ

けて病気と向き合う、そして病気と上手く付き合っていく。そんな生き方を送るよう

にと仰っているのではないでしょうか。
平成24年8月
 

先日、お檀家さんに、「お盆の時には、先祖は何処に帰ってきているの?」と

聞かれました。私は、何を聞いているのか意図が分からず、「どういうことで

すか?」と聞き返すと、「お盆には、お和尚さんが来てくれて、家の仏壇で

拝んでくれるでしょ? でも、お墓参りにも行きますよね? よく、お盆には、

家に帰って来るというけれど、どっちに戻るのかと思って・・・」ということでした。
 

お仏壇に帰ってきていらっしゃるか、お墓に帰ってきていらっしゃるという実質

的なことではなく、お参りする皆様の心の中に帰ってくるのだと私は感じてい

ます。

年間行事や、法要の時だけ、お仏壇や、お墓をきれいにするのでなく、普段の

生活の中で、お供えやお花を手向ける気持ちで、手を合わせることができるか

どうか?  ということが大切だと思うのです。

今、自分が出来ることを一生懸命することが、ご先祖様を敬い、自分自身を高め

ていくことに繋がるのだと思います。

また、このような親の姿を見て育った子どもたちは、少なからずとも昨今のような

悲しい事件に惑わされることはなく、家族の心のつながりを感じ、自尊心を培っ

ていくのではないでしょうか?

よく、「子は親の鏡」と言います。みなさんの普段の仏様に対する気持ちが、自然

と子どもたちに伝わり、その家の家風として受け継がれていくことでしょう。

だからこそ、いつでも家族揃って、お仏壇をきれいにし、お墓を訪れ、お線香をあげ

手を合わせ、お念仏もうしてください。

そして、ご先祖様、仏様がご家族にとって心のより所になることが何より幸せなこと

だと思います。
平成24年6月 
朝露を通した日の光が輝き、すがすがしい朝を迎えられる頃となりましたが

反面、そろそろ梅雨の時期にも入ろうかという時節であります。


定期的に京都の仏具店が、お寺を訪問くださいます。そして必ず、仏教に因んだ

言葉のポスターを置いていかれます。

今回の内容は、【 朝は希望に起き 昼は努力に生き 夜は感謝に眠る 】という

ものでした。

端的ではありますが、実に明瞭に書かれた言葉に興味を覚え、作者はどなたか

と思い調べてみましたが不明でありました。


朝は、鳥のさえずりや木々の音。また、登校していく子ども達の声、時間を急ぐ

車の音などを感じ、いろんなものが光り、一日の活動をスタートさせる時間帯で

あります。

昼は、個々それぞれに日々の勤めに励み、淡々と、こなしていく事ではありますが

一日とて同じ内容では無いことでありましょう。

夜は、一日の勤めを終え帰路につき、家族との団らん、個々の趣味などで休む

までの時を過ごし、一日を無事に過ごせたことを喜ぶとともに、また新しく迎える

翌日への計画を立てられることでありましょう。


さて、私たちは何のために生きるのか?  

希望も起こらず、努力したくもならず、感謝の思いも募らないとすれば、その人生

とは、きっと虚しいことでしょう。

阿弥陀如来さまは、どうしようも無い凡夫でも、お念仏を称える者を見すてず、お

救い下さると、お経に説かれてありますが、このポスターの言葉に示されるように、

日々を大切に生きるという基本的な姿勢を忘れず精進して行きたいものであります。
 平成24年3月

鳥取県の浄土真宗の信者で足利源左さんという、幕末から昭和の始めまで生きられ、

生涯を、お念佛の生活で生きぬいた方がおられました。

ある時、京都から偉い説教師さんが講演に来るというので、源左さんも講演を聴きに

行くのですが、何かの事情で遅れてしまい、会場に着いた頃には、もうすでに講演は

終わっていました。やれやれ残念な事じゃ、と思いながら帰路につこうとしたところが、

講演の関係者から説教師の宿を教えてもらい、お出会いに行かれたそうであります。



説教師さんから「源左さん、折角お越しになったのに、間に合わなんだそうで悪かっ

たナァ。歩いてきたそうで、しんどいことはないかなあ」と、ねぎらいの言葉を頂くと、

源左さんは、「ありがとうございます。自分は、あなた様に比べたら近い所だが、先生
こそ遠い所から見えて、皆に良いお話をなさったそうで、さぞ肩がお凝りでしょうから

肩を挟ませてもらいます」と、こう言って、肩を挟みながら二人の会話が始まりました。


「先生、今日のお話は、どういう内容で?」と、問いかける源左さんに、

「いや別に難しい話をしたのではない。歳が寄ると気が短くなって、よく腹が立つように

なるものだが、なんでも堪忍して、こらえて暮らしなされや。そのことを話したんだが」と

説教師さんは答えたのです。

すると源左さんは、「自分は未だ、人さんに堪忍してあげたことはないんです。人さんに

堪忍してもらってばかりですから。」と、独り言のように、つぶやいたのです。


説教師さんには、その意味が分かりかねたようで、「源左さん、何と言われましたか。

今一度きかせてくれんかな?」と問い直しました。

源左さんは「ハイ、私は、人さんを堪忍してあげたことは全然ないのです。私の方が悪い

から。人さんに堪忍してもらってばかりおります。」と答えたのです。

これを聞いた説教師さんは、「なんと、偉い人がおるもんじゃ。私が肩をもんでもらうような

お方さんではない」と、おっしやったということです。



社会生活を営む上で「何事も、辛抱しましょう」、「迷惑を、かけないようにしましょう」、

「親切にしましょう」といったことは大事なことですが、時と場合により、

相手が喜ばなかったり、当たり前のような顔をされたらどうでしょうか。

「これだけ辛抱しとるのに、少しは感謝したらどうや。誰のために辛抱しとると思うとるんや」と、

腹を立てると思います。そうでなくても、立派なことをしているという意識が私たちには有りま

すから、少しばかり辛抱するだけで、「こうして、何事も順調にいくのは、私の辛抱があるから

や」と自惚れて、しまいには「こんな立派な自分に比べ、皆は何と自分勝手なんじや」と、他

を見下してしまうものです。

このように、ちょっと立派なことをしようとすると、すぐに思い上り、人を見下すようなことをして

しまう私たちではないでしょうか。


妙好人と慕われ、阿弥陀如来さまの存在を確信されていた源左さんであったからこそ、ご自

身の心を偽ることなく、ありのままに告白されたのでしょうし、

浄土宗の21世紀劈頭宣言の冒頭にもありますが、なによりも、自らのいたらなさを見つめる

「愚者の自覚」が仏教徒の出発点であることを再確認したことであります。
 平成23年12月
先日、お檀家の子どもさんの会である児童教化連盟と、若いお坊さんの会である浄土宗

青年会の合同行事があり、橿原神宮前駅での震災の募金活動に参加してきました。

あいにくの曇り空で寒さも尋常ではなかったですが、30数名の子ども達が参加し、

駅の近くのお寺でお勤めをした後、お念仏を称えながら駅に向かいました。


大人・子ども併せて50人ほどになりましたので、中央口・東口・西口と3班に分かれて、

托鉢を行いました。

初めのうちは駅前という場所柄か、電車に乗る時間にあわせ足早に通り過ぎる方が

おられましたが、次第に一人二人と募金くださる方が増えてきました。小一時間つづけた

間に、やや不思議に思った光景がありました。

一人の外国人男性が、片言の日本語で、「みんな寒いのにご苦労様、どうも、ありがとう」

と言って募金くださったのでした。子ども達も周りの大人も「キョトン」としましたが、慌てて

御礼を言った始末でした。

さて、この外国人は、どういう意味で「ありがとう」と言われたのでしょうか?


私たちは、普段の生活の中で買い物をします。お店に行って、お金を払って物品を

買います。お店の方は、お買い上げの御礼の言葉を述べます。どこにでもある当たり前の

光景であります。

しかし、買った側が御礼を述べることなんて殆ど無いでしょう。御礼を言うことなんて

可笑しいと考えます。


人間は、善いことをすれば、それを手柄とします。そして、おごり高ぶる心と、それをしない人

を見下す心が起こり、自分のなした善にとらわれてしまいます。


お経に、「 財法二施 功徳無量 檀波羅蜜 具足圓満 乃至法界 平等利益 」とあります。

施しをする側も、受ける側ともに、見返り無く、という心が、この世の中に充満すれば、

その利益は計ることのできない大きな功徳である、というような意味であります。

さきに申した外国人が、この経文を知っていたとは思えませんが、冷えつつある現代社会でも、

せめて、買い物をして「ありがとう」という言葉が、お客さんの口から自然に出るようになったら、

社会は大きく進歩するでしょう。 
平成23年9月 
3月の東日本大震災で大自然の猛威に恐れおののいたばかり、だと言うのに、またもや先日の台風

12号で紀伊半島が大きな被害を受けましたことは皆様も周知の事であります。より身近に起こった

災害でありますので、いまこのページを御覧の中に、被災された方々のお知り合いが居るかもしれま

せん、お見舞い申し上げます。



さて、身を焼くほどの猛暑が薄らいで、朝夕に涼しさを感じるころになると、やがて、お彼岸がやって

まいります。彼岸とは、幸せな理想の岸という意味ですが、現実のこの世は、苦しい、いやな事の多

いのが此の岸であります。 だからこそ、彼岸が望まれることであります。その彼岸へ渡る方法の一

つに、『忍辱』(にんにく)という修行がございます。「よろこんで耐え忍ぶ」という意味ですが、同じ我

慢でも、やせ我慢は血圧を上げるだけですが、その中に喜こびの種が発見されれば、それは彼岸

の世界へ渡る橋となります。



二宮金次郎こと二宮尊徳の歌に、

「音もなく 香もなく 常に天地(あめつち)は 書かざる経を 繰り返しつつ」とあります。

「自然は常に、音も立てず、香りもせずして、天地いっぱいの命の営みを続けている」ということで

しょうか。


先に申した災害によって、雨や土が魔物のように襲いかかり、家や畑や人々の財産を奪っていき

ました。長い年月で築き上げてきた財産を元通りにするには、また大変な時間と労力がかかるこ

とでしょう。

被害に遭われた人たちの心境は、そんな言葉じりで納められる程、生半かなものでは無いでしょ

うが、その現実を、いつかは受け容れなければなりません。私たちの暮らしてきた、そして暮らし

続けていけるのは、この大地しか無いからです。ただ幸いなことに、大勢の心ある人々の手によ

り復興への足がかりを付けて下さっています。


書かざる経というのは、お経の「経」でありますが、「つね」ということであり、「時代を経てそれを貫

き、変わらないもの」という意味があり、真実そのものであります。

大自然が命の営みを繰り返す中に、時として荒れ狂う時があり、そこに共生(ともいき)している私

たちがいるのであります。

そのお経は、どんな苦難に遭っても立ち直り、更なる進歩を続けようという志です。被災した人も、

そうでなかった人も、「あれは苦難ではなかった。今日の自分のスタート地点だった」と思えるよう

に、今は、ジッと堪え忍び、少しずつ、気持ちを立て直して参りましょう。

 
平成23年8月 

残暑きびしゅうございますね、皆様いかが、お過ごしでございましょうか。

さて、お盆まっただ中でございます。いうまでもなく、亡き父母や先祖が、お浄土からこの娑婆世界に

帰っておいでになる「霊まつり」の大事なお祭りです。

お釈迦さまの弟子の目連尊者が、餓鬼道の世界に落ちて 苦しんでおられた亡き母を、お釈迦さまが

仰った
「7月15日に修行僧が懺悔修養する日に供養して、苦を払う回向をお願いして、三世の諸仏、一切

の三寶、過去七代の父母に供養するなら、母は勿論、多くの人たちも苦しみを免れ福樂が得られる」

との教えにより、母の苦を救ったのがお盆の始まりです。


吉水流詠歌の中に、「霊まつり和讃」があります。



1.無常の風に誘われて花の浄土に旅立ちし     

  親兄弟や愛し子を里に迎えて想い出の

  涙あらたに回向する今宵うら盆たままつり
   


2.精霊棚に海山の百味飲食供養する         

  ウーランバーヌのこころざし無縁の餓鬼も永久の

  いのち水えて蘇える陀羅尼の功徳ありがたや



3.祖先の墓に詣でつつ七世の父母の恩徳を

  念仏修して感謝する、これぞ真の孝の道

  光明遍照と打つ鐘は摂取不捨とぞ響くなれ



4.盆提灯を、かざしつつ、みたまを迎え、また送る  

  習いゆかしき、この夕べ濁世の闇に泣く人の

  心に誠の灯をともす南無や、うら盆たままつり




最近は、経済状況の関係から、お盆の時期に故郷に帰らない人々が増えつつあるらしいですが、

故郷から遠く離れて生活する人たちにとって、生まれ育った我が家ほど、いいところは無いと思

います。特に、親御さんにとって元気な我が子に会うと一番喜んでくださいます。ですから、お盆

は親孝行の日とも言えるのでございます。

お盆の行事は、深く正しい生活の智慧が込められています。南無阿弥陀仏のお念仏の中に、

ご先祖さまと向かい合い、命の尊さ、日々の暮らしや慈悲の教えに目覚めさせて頂き、生かされ

ている喜びを感じる意味深い大事な行事、大人も子供も有意義に過ごしたいものです。 
平成23年6月 
梅雨まっただ中で非常に蒸し暑く、東日本の震災以来、節電ブームも相まって過ごし難い毎日

でございます。その昔、世間には「停電の日」という習慣があったと聞いています。ことの意図

までは聞いていませんが、当時は、電気製品も少なかったし、余り影響が無かったようだ、と

いう風に聞きました。

そう考えますと、電気関係の普及と同時に、自然環境に対する恩恵や有り難みを感じることが

少なくなってきているのでは無いでしょうか?

田舎の農村部なら兎も角、自然環境が著しく減っている都市部では尚更かと思います。

科学の進歩に伴い、私たち人間が本来もっていた感覚を見失ってきたことは確実かと思います。

現在は震災のことで私たちに出来ることに集中していますが、のど元すぎれば、また元の木阿

弥とならぬよう心がけなければなりません。


ところで、総本山知恩院の御影堂の軒裏(のきうら)に、骨ばかりになった番傘が有るのを

ご存知でしょうか。知恩院の七不思議の一つにもなっている「忘れ傘」であります。

当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉

霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなる

ので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいとお願いし、それが出来たお礼に、この傘を置い

て知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。

これは、いわゆる知恩・恩を知るとか報恩・恩に報いていくと言うことを表している、と聞いて

おります。今日、知恩とか報恩ということは、日常の感覚から非常に遠のいた事柄になって

いるように思われますが、恩の文字を見ますと、原因の因の下に心と書いてございます。


もともと「恩」という意味は、「なされたる」「作られたる」という意味をもちます。ですから

「なされたることを知る」ことが「知恩」であり、「なされたことに恩返ししていくこと」が「報恩」

であります。「なされたこと」、たとえ、それが明瞭に見えなくとも、誰かによって、なされたこ

とを知る、自分に直接関係なくとも感謝するという意味であります。


また、ほかの言葉で『冥加』とも言います。冥加とは、目に見えないけれども私に対して与え

られている宗教的な加護の力を言い、「おかげ」とも言われます。私たちが日常、「おかげさま

で」と挨拶を交わす言葉の元であります。ですから、報恩ということは、「おかげさま」という有

り難く思う心を顕わしてゆくことになると言えます。先に申した「私たち人間が本来もっていた

感覚」とは、まさに此の事でございます。 
平成23年4月
東日本大震災発生から、3週間が経過し、4月1日時点で、死者・不明者あわせ2万8000人、

避難者、16万6570人という数字が出ております。実に、諸行無常であります。

テレビを見ますと、被災者の現況や原発問題を繰り返し報道し、CMは、「私たちに今できる

こと」と何か含みを持たせたようなコマーシャルが流れております。

他所で発生した地震とはいえ、実に、心苦しく、今あらためて、この言葉を投げかけられた時、

私たちは一体なにが出来るのでしょうか? いや、何をすれば良いのでしょうか?

地域や諸団体では、義捐金や物資の募集を行い、被災地へ送る支援をされておられます。

節電すること・無闇な買占めをしないことも勿論でありますが、これらは全て、生きている人たち

への支援であります。

少なくとも宗教者の端くれの私が考える疑問は、亡くなった方々への支援はしなくても良いの

か? ということであります。いやいや、生きている人間の方が大事だ!という考え方もあるで

しょうが、残念ながら亡くなってしまった方は、二の次、と言わんばかりのテレビ業界の報道は

何とも虚しい限りです。


先日の春彼岸で、私のお寺では被災され亡くなられた方々の御回向をさせて頂きました。

宗祖法然上人さまは、「亡き人のために南無阿弥陀佛とお念佛を申して回向すれば、阿弥陀

さまが光を放って、亡き人の苦しみをぬぐい去り、極楽浄土に導いてくださる。」 と仰いました。


他所で発生したこと・他人だから・関係ないから・・・などではなく、同じ人間として。ややもすれば

私たちも被災するかも知れない、私たちが被災していたら?どんな思いだろうと、こういう風に考

えていくと他人事では無いでしょう。

私たちが今できること・私たちが今すべきこと。震災により、お亡くなりになられた方々の往生

極楽を願い、お念佛をお称えする。

私たちの思いは、阿弥陀さまに届き、阿弥陀さまのお救いは、縁の有る人にも無い人にも必ず

届くと信じています。 
 
平成23年2月 
先日、本屋さんで、大津秀一という終末期医療のお医者様が書かれた「死ぬときに後悔する

こと25」という本を目にしました。多くの末期患者さんの死を見届け、その人々との対話の内容を

25種類の話にまとめた本であります。


みなさま周知のことですが、「死」という現実から免れることは出来ず、すべての人に訪れます。

人は、生まれた時から一歩一歩、死に向かっています。明日をも知れぬ我が身を考えるとき、

「生きる」と言うことは、後悔しないで死ぬことだと言えます。

高齢になると殆どの人が少なからず死を考えるようになり、ほとんどの人は死を前にすると後悔

するといわれます。しかし、死をいたずらに恐れるのでなく、また病気になってから死を考えるの

でなく、元気なうちに死について考えて生活することも大切だと思います。

健康である時には、心の余裕がございます。病気になれば余裕が無くなり、悪い方に考えがちに

なりましょう。普段から死を意識して生きると、「生きる」ことの意味合いが深まり、毎日の日暮らし

が充実したものになるでしょう。死を通して生を考え、死と向き合ってこそ生き方を深く考えること

ができる、と、この本には書かれてあります。加えて、「生きる」ことの大切さを考えられるように

なれば、さらに「生きる」ことは、「生かされている」ということにお気づき頂けるかと思います。

俗に、「人間一人では生きて行けない」と申しますように、誰かに何らかのお助けを頂いて日を

送っているのではありませんか。目には見えねど、この私を育て、見守って下さっている不思議

な力が、何らかの形で働いているのです。何度も申しますが、「明日をも知れぬ我が身、我が

命」であります。このことに気づくとき感謝を思い、生かされているんだと実感いただけることと

思います。 
 
平成23年1月
大晦日、これまでに無い大雪に見舞われ、大変な思いをなされたことでしょう。まさに自然の

猛威に恐れおののいたことでございます。さて昨年は、さまざまな「新しいこと」に期待し、希望

を抱きスタートした年でありましたが、すぐに定着することも難しい世相でありました。

皆様におかれましては、平成23年の新年を迎え、それぞれ願いをお建てになったことと思い

ます。ご自身の健康は元より、それぞれの願いを叶えるために御精進ください。


佛説無量寿経の下巻に、

       天下和順(てんげわじゅん)    日月清明(にちがっしょうみょう)   

       風雨以時(ふうういじ)        災歯s起(さいれいふき)   

       國豊民安(こくぶみんなん)     兵戈無用(ひょうがむゆう)

       祟徳興仁
(しゅとっこうにん)    務修礼譲(むしゅらいじょう)


という一説がございます。各宗派で、年頭や目出度い時にお勤めされるゲモンでございます。


天下和順(てんげわじゅん)とは、天下泰平の世の中を意味します。

日月清明(にちげつしょうみょう)とは、季節ごとの天候が安定していて、異変が起きないこと

を意味します。風や雨は季節にあったものでよい、そうすれば天災も異変も起こることはない。

国は豊かに栄え、人々は安心して暮らすことができるだろう。兵や軍隊は必要がないし、戦争

はあってはならない。それよりも徳を高め、愛情を持って人に接するべきである。できるだけ

礼儀をつくして謙虚な態度で過ごしなさい。 という、お諭しであります。

今年が、皆様にとって、本当に良き年でありますよう祈念もうし上げます。 
 
平成22年12月 
今年も残りわずか半月となり、何かと気ぜわしいことでございます。


「 つくりおく 罪は山ほど あるなれば 閻魔の帳に つけどころなし 」 臨済宗の名僧、沢庵

和尚さまの句でございます。


浄土宗では、12月になると、一年最後の法要として仏名会を営むところがあります。

仏名会とは、さまざまな罪や知らず知らずのうちに作ってしまった罪などを懺悔し、阿弥陀如来

さまに礼拝し、身も心も綺麗になるように祈る法要のことであります。


ある御寺で、檀家の青年に、懺悔を勧める和尚がおりました。しかし青年は、「私は悪い事を

したら、その都度すみませんと謝っているので、もう懺悔は済んでいますよ」と言いました。  

そこで和尚さんは、青年に、「境内にある、大・中・小の三種類の石を拾って、ここに持ってき

なさい」と言われました。 青年が言われた通りにすると、和尚さんは、「今度は、それを元あっ

た場所に戻してきなさい」と言いました。


大きな石は、今まであった所に跡がはっきりと残っていたので、すぐ戻すことができました。

中くらいの石も、かすかに跡が残っていたので戻すことができました。 しかし、小指の先ほど

の小さい石は、跡が全く残ってないので戻せませんでした。青年は、「小さい石は、戻せませ

んでした」というと、和尚さんは、「私たちには、罪を犯していても意識しなかったり、忘れてしま

っていることが沢山あります。だから君は、まだ懺悔が済んでないんだよ」と仰いました。


このお話からも判るように、気づかぬ内に沸き起こる煩悩から逃れられないが、煩悩をあるが

ままの姿として捉え、阿弥陀如来さまに、おすがりし、さらなる懺悔のお念仏を繰り返し申すこ

とが大切であると考えます。

もうすぐ新年を迎えます。今年よりも少しは、スッキリとした年を迎えたいものです。御精進ください。 
 
平成22年10月 
渋柿の そのままなれる 甘露味や 昨日の闇も 今日の明るさ

彼岸花の時期が終わり、柿を作っていらっしゃる農家の方は忙しくなる頃ですね。

青い渋柿が赤い甘柿になるのには、幾日も太陽の光に照らされて、中の渋が

そのまま甘みに変わっていくのだそうです。渋を注射器で抜き取って、甘いブドウ糖を

注入して甘柿にした、なんて話は聞いたことがありませんよね。

人間の煩悩の渋も、滝に打たれたり、断食したりと辛い修行をしても取り除かれるものでは

ありません。渋柿が、あるがままに甘柿に変わっていくように、人間の煩悩もあるがままに

良いものに変化していくのだと思います。来いよ来いよ、称えよ称えよと仰る阿弥陀如来

さまの、み光に照らされて、お念仏申せばいつの日か必ず生まれ替われる我々であると

信じます。


法然上人は、苦しみの世界に悩む人たちが救われる道は無いかと長年ご苦労なされ、

中国の善導大師の観経ショの中に「一心に専ら、阿弥陀さまの名号を称え、歩いている

時も、止まっている時も、座っている時も、寝ている時も、いつでもどこでも、その称える

お念仏の長さ短さに関係なく、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と続けて称えることが極楽

に往生するための正しく定められた実践、即ち正定の業というものである。

なぜかと言うと、それは阿弥陀様の御本願に誓われているからである」という文章を発見

され、心に深く感銘を受けられ、ただひたすらにお念仏を申すことを、オススメになったので

ございます。 
 
平成22年9月
先日、所用で出かけた電車の中で、60代ぐらいのご婦人と隣どおしに座りました。一人の

ご婦人が、「仕事をしながら、三人の子供を育てたけど、仕事も退職して、子ども達も独立

した今かんじることは、がむしゃらに働いていた時間は何であったんだろう・・・って思うわ。

」と言い、それを聞いていたもう一人の方は、「これからは、のんびりと好きなことを見つけ

て、有意義な時間を過ごしたらいいわ。」と受け答えされてました。

よくよく考えてみますと、この世は常に移り変わり、不安定で、どうなるかわかりません。

自分自身も老化の一途で、自分自身がどう変わっていくのか分からず、不安です。どうなる

かわからない世の中で、辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、腹立たしいことなど、さまざまな

苦しみや不安を抱えながら生きていくには、なにかしら安心させてくれるもの、「よりどころ」

となるものが必要となります。

さきほどのご婦人にとって、若い頃の「よりどころ」は、仕事や子ども達だったのでしょう。

しかし、死ぬまで続けられる仕事ならともかく、多くの人は退職を迎えますし、一生続けられ

る仕事を持っていても病気や怪我などで患った時には続けられるかどうか分かりません。

子どもも、いずれ親離れします。よりどころとしていたものを失ったとき、人は不安に襲われ、

迷ってしまいます。このような、どうなるか分からない不安定なものを「よりどころ」としている

と、元々頼りにならないものなので、それに死ぬまで、しがみつきたくても、そうはいきません。

何が起こるか判らない世の中で、どうなるか分からないこの身を、不安定なものに頼って生き

ていると、頼りにしていたものが頼りにならない時、自暴自棄になってしまいます。人生は苦で

ある、とおっしゃたお釈迦様は、他の人や他の物をよりどころとするのではなく、確かなもの、

真実なものをよりどころとしなさいとおっしゃいました。

この世は、辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、腹立たしいことで一杯だけれども、確かなものに

支えられて生きていくとき、辛いけれども生かされて有り難いと気付かせていただくことができ

るのです。

その確かな支えこそが、「阿弥陀如来さまの願い」であり、「南無阿弥陀仏」なのです。私の命

を支えて下さる確かなものに気が付くとき、自分が生かされている大きな命の働きに気が付く

とき、何が起こるかわからないこの世でも、迷うことなく、しっかりと自分の人生を歩むことが

できるのです。たった一週間の彼岸の時期ですが、一遍でも二遍でも普段より多くのお念仏を

申し、自分たちの行く末を考えてまいりましょう。 
 
平成22年8月 
この時期にかかせないものの一つに「蓮」の花があります。

中増安養寺さまの近くでは休耕田を利用して蓮の花を育てておられ、近くを通りますと芳しい

蓮の花の匂いの中に見事な花が咲いています。仏教では、この蓮のことを「分陀利華」と申し

ます。インドの古い言葉、サンスクリット語の「プンダリーカ」の音写語で、特に白い蓮の華の

ことを指します。泥の中に咲く花ですが、泥に染まらず白い見事な花を咲かせることから、もっ

とも気高く、尊い華とされてきました。


金子みすゞさんの詩に「蓮と鶏」というのがあります。


   泥のなかから蓮が咲く。     それをするのは蓮ぢやない。

   卵のなかから鶏が出る。     それをするのは鶏じゃない。

   それに私は気がついた。     それも私のせいじやない。

                                           

この詩の最後の「それも私の せいじやない。」とは、どういうことなのでしょうか。

それは、「自分は生きているのではなく、生かされているのだ」ということ、大きな力・・・

つまり、阿弥陀如来のお力によって生かされているのだという風に私は受け止めました。


お施餓鬼やお盆のお話にありますように、餓鬼の心が巣くう私たちの心、消せども消せ

ども餓鬼のような心が生じる私たちでありますが、しっかりとお念仏を申し、阿弥陀如来

さまのお力でもって、さらに向上していきたいものであります。 
 
平成22年3月
この時期、総本山知恩院や大本山を始め、多くの浄土宗寺院で、法然上人が師僧と

仰がれた善導大師の御遺徳を偲び、ご命日である3月14日に、善導忌の法要が営ま

れております。

浄土宗のお仏壇でしたら、正面向かって右側に祀られているのが、善導さまの像であ

ります。善導大師は、中国において浄土教義を大成されました。浄土宗では善導大師

を高祖さま、法然上人を元祖さまと、お呼びしています。

法然上人は、43歳のとき、この善導大師が著した『観経疏』の「一心にもっぱら弥陀の

名号を念じ、行住坐臥、時節の久遠を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づ

く、彼の仏の願に順ずるが故に」という一文を見て、お念仏こそすべての人々が救われ

る教えであることに間違いはない、との確信を得、浄土宗を開かれました。

また、私たちが日々つとめます「日常勤行式」の約半分は、善導大師の『法事讃』という

著書から取り入れてあります。浄土宗のおつとめは、大きく分けて3つの部分に分かれ

ます。最初の部分は、お釈迦様の説かれたお経を頂くために、身や心を整えて、仏様と

仏様の説かれた教え、そしてその教えを護る人々に敬意をあらわしすべての仏様を道

場にお迎えいたします。

中ほどでは、お釈迦様のおさとりの中から阿弥陀様の「み教え」を読誦し、お念仏をお称

えいたします。ここがおつとめの中心であります。

後半の部分は、どうぞ私たちが仏道を正しく歩めますように、この「み教え」が正しく伝わ

りますように、という誓いをいたします。

そして最後に、道場にお集まり頂いた仏さまに、それぞれの国土にお送りして法要が終

わります。こういうことで、毎日の「おつとめ」を通して、善導大師の、み心に日々ふれてい

るということになります。ますます御精進ください。
 
平成22年2月 
「そんかとくか 人間のものさし。 うそかまことか 仏さまのものさし」

詩人の相田みつおさんの言葉であります。この言葉は、損得勘定だけで世の中を見ると

いけないよ、ということでしょうか。

しかし、そんなに単純な理解で良いのでしょうか。損と得は良く分かるが、嘘と真には良く

分からないところがある。おそらく、人間には精神と物質という二つの面があり、物質面で

は損得勘定を働かせ、精神面では嘘か真かのものさしを働かすことになるのでしょう。


一時期、「モンスターペアレンツ」という言葉が世間に流行りました。教育機関に理不尽な

要求を行う保護者のことを指した言葉だそうです。ある教育関係のテレビ番組で、進路

指導の先生と母親の面談の場面がありました。その母親の言い分は、「我が子には骨を

折らせたくない。」、「我が子には一生安楽な生活をさせたい。」、「途中で会社の倒産な

んて不安な思いをさせたくない。」ということでした。

要するに、自分の子供だけは楽していっぱいお金を貰って、カッコいい生活をさせたい。

この母親の心の底には『親の苦労は子にさせたくない』と言う切ない気持ちが有る訳で

一概に否定出来ませんが、こう言う母親のエゴが結果的には、子供自身をみんな駄目に

していると思います。

果たして、「楽してカッコよければ幸せか」、「骨を折る事は不幸か」、「人間の本当の幸せ

は何か」。 

私は人間の本当の幸せとは『充実感の有る生き方』だと思っています。

骨を折らない,努力を必要としない仕事に充実感は有りません。たとえ親よりも苦労する

事が有っても、粘り強く人生を生き抜いてゆく力と知恵を子供に与えておく、それが一番

正しい親の愛情であり義務で有ると思います。



最後に、相田みつおさんの言葉を、もう一つ。

   「どう、もがいても駄目な時がある。

        ただ手を合わせる以外には方法がない時がある。

                        本当の眼が開くのは、その時だ



自分の思いのままに生きていると思っている私たちですが、思いのままの人生が思うよ

うにいかない、どうしようもない時があります。私たちは、煩悩があるが故に、自分の都

合で生きて、罪を作り続けている。なんと愚かで弱い人間なのか、と

こんな私を、どうか救って下さいという思いから「手を合わす」という行動が起こるのだと

思います。良い時もあれば悪い時もあるのが人生です。その人生の中でシッカリとした、

お念仏のある生活があれば、何より「充実感のある生き方」が送れると考えます。
 
 
平成22年1月 
年明けに少し雪が降りましたが、やはり温暖化のためか、すぐに溶けてしまいました。

私が子どものころは膝ぐらいまで積もり、学校の校庭で雪合戦を楽しめたことに懐かしさ

を感じます。白銀の世界という表現もありますが、あまりのマブシサに心あらわれる思い

がいたします。


宗祖法然上人さまの御歌に、

   「雪のうちに 仏のみ名をとなうれば つもれる罪ぞやがて消えぬる

とあります。

雪は静かに降り、消えては積もり、積もっては消えていきます。 私たちの煩悩は途絶

えることなく、心静まることさえありません。人は誰しも罪を犯さずには生きていけない

存在であります。 

しかし、その私たちの心も、雪の中、静かに称えられるお念仏によって清め改められて

いきます。たとえ清められても、また煩悩は起きてきます。そしてまた、お念仏によって

また清められていくのです。 

私たちの心は移ろいやすく、集中すること難しく、妄念ばかりが湧いてきます。しかし、

お念仏を称えることで、欲望を抑えられないことも、怒りを離れず迷うことも全て、阿弥

陀さまのお力で、私たちの心の内面的な罪を消して下さいます。ですから、怠ることなく、

毎日しっかりとお念仏を続けることが、何より大切なのであります。
 
 
平成21年11月 
先日、本棚の整理をしておりますと子どもの頃に買ってもらった「地獄と極楽」という仏教

漫画が出てきました。小学校の低学年の頃でしたが、知恩院さんにお参りした記念に父

親が買ってくれたものです。表紙には大きな口を開けた閻魔大王と鬼が描かれています。

その表紙に何とも言えぬ恐ろしさを感じ、せっかく買ってもらったのに、あまりの怖さに暫く

の間、ページをめくることが出来なかったことを今でも覚えています。

懐かしさの余り読み返してみました。その本は、地獄の世界の話が殆どで極楽世界の話は

少しでありましたが、地獄に迷い込んだ主人公が八大地獄を見学し、娑婆からの供養が

届いたお陰で極楽へ辿り着けるという内容でした。


日本の文化史の中で、地獄思想というものが流行したのは鎌倉時代からと言われています

が、その時代は、源氏と平家の覇権(はけん)争いや天災飢饉(ききん)などで、人々は生き

た心地もなく、夢も希望もない日々を過ごしていました。生きていても地獄、死んでも地獄、

死んだら地獄に堕ちるのだろうかという人々の大きな不安は現代の我々からは計り知れな

いものだったでしょう。こういった観念が蔓延(はびこ)っていた中、この不安を取り払われた

のが法然上人であり、浄土宗のお念仏だったのであります。


混迷を深めていく一方の現代社会ではありますが、総本山知恩院では来る平成23年に

迎える「宗祖法然上人800年大遠忌」に先駆け、いろいろな記念事業を計画実施されて

おります。その根底となる教えは、「万人平等救済・共生・非暴力」です。

この教えを忘れずに、いつも意識していれば、いつかきっと実現する日がくるでしょう。
 
 
平成21年10月 
 暑い夏が終わり、これから山の木々は日に日に色づきを増し、すべてのものが移り

変わって行く様を、私たちの眼に焼き付けてくれることでしょう。また、心地よい

秋の虫の音が聞こえ、月夜が美しく、本当に心洗われる良い季節であります。

昨夜は中秋の名月、今夜は満月。晴れていれば大変きれいに見えることでしょう。


さて、お月さまと言えば、皆さんご承知のお歌に、法然上人が詠まれた浄土宗の宗歌で

あります「月影」がございます。


月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ


大まかな意味は、月の光は全てのものを照らし、人里にくまなく降り注いでいるけれども、

月を眺めるひと以外にはその月の美しさはわからない。

もう少し詳しく解説するならば、この歌で法然上人が仰っている「月影」とは、阿弥陀

如来様の光明のことを喩えておられます。

ですから、阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、

手を合わせて、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀如来様の救いを、

こうむることができる・・・という意味なんです。


と言うものの人間なかなか、「阿弥陀様が照らしていてくれる。こんな私でも往生しろよと

願ってくれている。」という事には気付きませんね。

多くの人は「自分で生きている」「自分だけの力で頑張っている」と思っているのでは無い

でしょうか。

しかし、月の光がなければ夜道が暗闇であるように、仏様の光が無ければ生きる事は

暗闇です。仏様のお慈悲の光があればこそ、時に辛い人生も「どんなに惨めな時も、

仏様だけは私を照らし、お前も生きて行っていいんだよと言ってくださる」 と照らされて

生きる事が出来るのです。

大きなものに照らされ願われ生きる。そこに「生きている自分」という一般的な常識から、

「生かされている自分」という本来の自分の姿への気付きがあるのではないでしょうか。

どんなに辛い時も、どんなに惨めな時も、誰にも平等に「生かされて生きていく道」があ

ります。念仏者の人生に絶望はありません。有り難いことであります。
 
平成21年9月 
先日の選挙以来、世の中は大きく変わっていくのか、新政党の今後の動きに興味津々と

いった状況であります。その渦中の政治家さんが過去に発言された中に「一蓮托生」とい

う言葉がありました。本来の意味合いを、どこまでご存知なのかは別としまして、あまり良い

意味でお使いでなかった記憶があります。


辞書を引きますと、「仲間の者たちが、結果の良し、悪しにかかわらず、行動や運命を共に

すること」とありました。この世で善い行い、つまりは、お念仏の功徳を積んだ者は、その

死後、無事に極楽浄土することが出来たならば、みんな共々に同じ蓮華の上に生まれ変

われるという仏教の教えからきた言葉であります。

法然上人のお言葉を元に作られた吉水流詠歌の中にも

先立たば送るる人を待ちやせん 花のうてなの半ば残して、とか

つゆのみは ここかしこにて 消ゆるとも 心は同じ花のうてなぞ、というお歌もござい

ますから、この世で善根の功徳を積み、半座を分かちて共に極楽往生を願うという、ささや

かな思いが観て取れます。


加えて申しますと、お浄土へ迎えとられた人は、その中の、どれかの蓮の花の上に生まれ

かわって阿弥陀さまのお慈悲のもとで、自らも佛さまとなるように修行をするのであります。

ところで、どうして蓮が大切に扱われているのか、何故、蓮なのか? と思いますか? 

私的には、一つ目の理由として、水の中に生えているのに、水に濡れないんです。葉っぱの

上に水を落とすとコロコロ転がることをご存知でしょう。あの水のようにコロコロ・フラフラせず

毅然とした心でしっかり生きていくことを勧めてくれているように思います。


二つ目の理由として、泥水の中で育つのに、花は泥色に染まることはありません。自分の

悪いところを周囲のせいにしてはいけないぞ、と教えてくれてるように思います。

三つ目の理由として、ツボミのうちから、花の中に実があります。だれでも、仏さまという実を

元々、持っているんだよ。だから出来るだけ早くから信仰に目覚めてくれよ、と励ましてくれ

てるように思います。

だから、仏さまはだいだい蓮の上に載っているんです。この蓮が象徴するものをしっかりわ

かっていれば、私たちだって、蓮をイメージしただけで心がきよらかになっていきます。 
 
平成21年8月
「施餓鬼会」は、

「救抜焔口陀羅尼経(ばっくえんくだらにきょう)」というお経に依るもので

お釈迦さまのお弟子の一人、阿難尊者が坐禅瞑想しているとき、一匹の餓鬼が現れ、

『お前は三日後に死んで、醜い餓鬼に生まれ変わる』と言われ、それから逃れる方法を

どうすれば良いかお釈迦様にお尋ねしますと、

『餓鬼道にいる苦しみあえぐ衆生に対して飲食物を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、

助かるだろう』という指示を受け、言われる通りにしたところ、阿難尊者の命も

多くの餓鬼たちも救われたという、施餓鬼の起源をお聞きになったと思います。



今週は同じく夏の行事であります「盂蘭盆会」のことについてお話させて頂きます。

これは、「盂蘭盆経」に説かれてありまして、お釈迦さまの十大弟子で神通第一と称される

目連尊者が、ある日、先立たれた母親は今どうしているかと思い、神通力により行方を探すと、

亡き母は餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。

目連尊者は、またもや神通力で母を供養しようとしたが、食べ物はおろか、水も燃えてしまい

飲食できない。


目連尊者は、お釈迦さまに何とか母を救う手だてがないか尋ねた。すると、お釈迦さまは

『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』と仰り、

そんな母親を救う方法として『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、

ご馳走を用意して経典を読誦し、心から供養しなさい。』と仰った。早速その通りにすると、

目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされています。


この2つのお話は、お釈迦様のお弟子が登場することと、餓鬼に因んだ内容であること、また

地方によって盂蘭盆施餓鬼法要として2つの行事をミックスして営まれる地方もありますから、

施餓鬼会も盂蘭盆会も同じものと誤解されがちですが、全く別のものであります。


しかしながら、どちらの行事にも共通して言えることは、私たち人間には貪り(むさぼり)の心

があって、それを戒め、他人に施す心を養うという内容が含まれているように思います。

例えば、食べること一つをとらえても、私たちは毎日、自分の命を繋ぐために、魚や牛や

鳥や豚、また野菜など多くの命を奪い、それを頂いて命を長らえています。人間だけでなく、

それらの生き物たちにも生きる権利がある訳です。お互い命のあるもの、そして命は尊い

ものなのです。物事を考えられる人間だけが好き勝手に生きて行っていいのではありません。

多くの命を自分の身体に取り込んでいるにも関わらず、感謝することもなく、自分本位に生き

ていく、これが貪りの心であります。

また、こう言った心が私の中に巣くうていると気づき反省することで、周りの状況が見えてきて、

人に優しく接し、物心両面において人に施すという気持ちが現れてくるのだと思います。

いかんせん頭の中では解っているが、欲張り、腹立ち、愚痴の煩悩の心でいっぱいで、

愚かな凡夫の私たちであります。だからこそ、日々お念仏を称えることが大切なのです。

もうすぐご先祖さまや亡き人々がお帰りになりますが、お念仏の功徳によって小欲知足の思い

に至り、こころよく、お迎えいただければと思います。