114.「ドレッサー」

主なキャスト:平幹二朗・西村雅彦・松田美由紀・久世星佳・勝野雅奈恵
作:ロナウド・ハーウッド 訳:松岡和子 演出:鈴木勝秀 舞台監督:徳永泰子
公演記録:2005.9.16〜17@シアター・ドラマシティ(大阪)
あらすじ>>1912年。第二次世界大戦下のイギリス、ロンドン郊外の劇場。あるシェイクスピア劇団が『リア王』を上演しようとしていた。主役のリア王を演じるのは劇団の座長。サーの称号が与えられているほどの名優だが、何もかも自分の思い通りにならないと気がすまない、文字通りワンマン座長だ。
その日の午後突然、座長は街の中で衣服を脱ぎ捨て精神錯乱の状態に陥った。ちょうど通りがかった、座長のドレッサー(衣装係兼付き人)のノーマンがあまりの異常さに驚いて、彼を病院へ連れて行く。知らせを受けて座長夫人も病院に駆けつける。彼女もまた劇団の女優であり、『リア王』のコーディリア役でもあった。医者が言うには、座長は静養しなければならないのだ。座長が疲れ切っているのも無理はなかった。若くて健康な役者は戦争に駆り出され、契約した劇場は次々に爆撃を受ける。そのうえ道化役者がスキャンダルを起こして警察に引っ張られてしまう有様で、追いつめられて神経がすり切れていたのだ。
劇場に戻って来たノーマンと座長夫人、そして20年近く劇団に打ち込んできた舞台監督のマッジらは、今夜の公演をどうするか話し合う。開演時間は刻々と迫り、座長夫人とマッジは公演中止という結論を出した。しかし、ノーマンはもう少し様子をみるように懇願する。
その時、重い足音が響き、座長が現われた。顔面蒼白で疲れきった様子、病院を抜け出して来たのだ。公演は中止にするという夫人に、それはできないと言いはり、準備に取りかかる。「そばを離れるんじゃないぞ、いいな、ノーマン」かくしてドレッサー、ノーマンの孤軍奮闘が始まる。

座長は虚脱状態から抜け出すことができず、おびえる哀れな老人のままだ。すすり泣く彼をノーマンが励ます。「今夜は大入り満員。世間はあなたのことを忘れちゃいない。みんな座長の芝居を見たがってるんですよ」ところが、今夜は何を演じるのかも座長の頭には入っていなかった。メイクもままならず、最初の台詞すら出てこない。焦るノーマンは、弱気になって投げ出しそうになる座長をなだめたり、軽くあしらったりと、あの手この手で奮い立たせようとする。問題は彼の混乱だけではなかった。留置場に入れられた道化役者の代役を立てる必要があるし、裏方の仕事を頼んだ役者には断られる始末。しかし、何としても『リア王』を上演しなければならない…。

ノーマンの頑張りによってどうにかこうにか準備も整い、あとは開演のベルを待つばかりとなる。若い女優のアイリーンが開演5分前を知らせに来た。座長と夫人が部屋を出ようとした時、空襲警報のサイレンが鳴る。座長は再び震え、泣き出すが、公演を中止にするわけにはいかない。
やがて幕が上がる。それは座長にとっては、227回目の『リア王』だ。いざ舞台に立った座長は、全身の力をふりしぼって、いつになく力のこもった『リア王』を演じきるのだった…。

舞台裏でのどたばた劇(コメディではないけれど)ってことでなんとなく三谷幸喜の「ショー・マスト・ゴー・オン〜幕を下ろすな〜」みたいな感じになるのかなぁ?と思ってたんですが。時代背景とかもかなり古い設定だし翻訳モノってことでかなり雰囲気も違ってたかな、と。(当たり前)翻訳モノってぢつはそれほど得意じゃなくてどっちかっつーとそんなに好きではないんですが。(爆)しかもこの舞台に関しては映画化もされてるらしいですがそっちも全然観たことなかったし無知極まりない。(黙)でも役者ってテレビドラマだの映画だのとかは何とかなるにしても(え?)舞台って生物だしかなり無謀っつか大変だと思うんですよねー。森光子さんだっけ?も「放浪記」だったかが記録的な公演回数だったりするわけですけれど何回同じ舞台やって台詞は完璧に思われてもふとしたことですっかーんっ!と忘れちゃったりとかお客さんの反応のタイミングだって毎日絶対同じってわけにはいかないし慣れでは演じられないものがあると思うんですよね。何回やったって初めて観に来る人もいるわけですし。舞台はいつも1つ1つの公演が最初で最後で一期一会で二度とホントに同じ物は観られないわけじゃないですか?年取ったからそれだけ上手くなるかって言ったらそれは違うと思うし。そりゃ演技力とかは上手くなるだろうけどそれに反比例して身体が動かなくなって来たり物忘れが酷くなってきたり人間としてどうしようもないことだってたくさんあるわけだし。それでも人前で演技して舞台の上に立ち続けるっていうのは物凄いことだなーなんて。ま、それは役者だけで成り立ってることじゃなくて当たり前だけど裏で働いてる人だっていっぱいいるわけで。普段公演してる最中はそんなこと考えたこともないし照明さんとか音響さんとか衣装さんとかもっともっと下で働いてる人たちのこととかほとんど気にも留めてないっつか。パンフ買ったりして何回も観てればなんとなく見たことある名前の人とかは増えてくるわけだけどそれも見る前か終わった後に「あーこの人ー…」ってちょこっと思う程度で。ま、それがいいか悪いかは置いといて舞台の裏がどうなってるか?なんて極力感じさせないのが舞台でもあるわけで。「こんなに大変なことがあってそれを乗り越えて今日の幕が開いたんだ」なーんてことはお客さんには分からない方がいいはずだし。そこには観に来るお客さんと舞台の上で演じる役者がいるだけで充分で。体調が悪くて役降板とかはあったりするけど代役だからって適当な演技が許されるわけじゃないしそれはそれで出来上がったひとつの舞台なわけでさ。座長(平幹二朗さんの役どころ)はもう自分が長く演じられないこともきっとどこかで分かってるんじゃないのかな?自分の舞台の幕引きは自分しか出来なくてステージの上ではどうにだって演じられるけど自分を演じられるのは自分だけで代役はきかなくてそれをどうしたらいいのか分からなくてパニックに陥ってるのかな?なんて。寄る年波には勝てないっつかさ。それでもちょっとでも若い女優がよかったりするのはもう何とも言いようが。(苦笑)でも座長はワンマンだったかもしれないけど1つの劇団を立ち上げて引っ張っていくってことに関してはエキスパートだったわけでその強引さも仕方ないっつかある程度魅力がないとみんなついてこないわけだしそれはそれでみんなに愛されてたんじゃないのかなー?演技に関しては舞台で魅せて行くのが全てだっただろうしそれを観れば「こんな奴気に入らない」と思っててもその演技の前にはひれ伏すっつかそればっかりは認めないわけにもいかなくてついつい裏方の仕事にも徹しちゃったりなんかして。ノーマン(西村雅彦さんの役どころ)だってそりゃぁ座長に拾って貰ったとかそれなりの恩義とかあったのかもしれないけど人間的魅力がないとここまで徹底的に尽くすなんてこと出来ないと思うし。でもそれで最後座長の自伝に自分の名前が書かれてなかったのなんか見ちゃったらショックだよねー。(苦笑)「え?え?えーっ?!」みたいなさ。でも座長は確かにノーマンには感謝してるとは思うけど半面うざいっつかうっとうしいとも思ってたんじゃないのかな?座長は何も言わないし楽屋で準備する分にはノーマンに対して「お前がいてくれてよかった」みたいな感じで頼りにはしてるけど「あのブタどものせいだっ!」とか「ブタどもが私を悩ませる」とかそのブタって言うのは誰のことですか?って何度もノーマンは聞くけどそのブタこそノーマンだったんじゃないのかなー?なんて。ノーマンっていわゆる今で言うところのマネージャーみたいな仕事もしてるわけでしょう?そのー「今日はもう舞台に立ちたくない」って時も無理矢理舞台に立たされてたのはノーマンのせいだみたいなとこも無きにしも非ずみたいなさ。本人にも座長にも自覚はなかったかもしれないけどどこか心の自分も全然気づかない奥底ーなところで「こいつさえいなければ…!」みたいなとこがあったんではないかな、と。舞台に立つのが嫌いだったわけじゃないだろうしそれだからサーの称号も受けるような偉大な役者だったわけだけど(どうやら前の奥さんのおかげってのもあるみたいだけど。苦笑)そりゃ何回も繰り返してれば嫌気が差す時だってあるだろうし。なんて思ったらブタどもの中にはお客さんも含まれてるような気がして来たりなんかして。(おい)でもお客さんは基本的にその舞台に対してお金払って観に来てくれてるわけだし自伝の中でもちゃんと感謝する対象として書き記されてたわけだからただ普通に忘れててノーマンの名前がなかったっていうんじゃなかったんじゃないかなー?って思ったりとか。こんなに近くにいたのに。故意にってわけじゃなくて感謝する対象としてスルーしちゃってるっつか。感謝と憎しみとごちゃ混ぜになった感じっつーのかな?舞台に関しては奥さんよりも近くで尽くしてたはずなのにね。可哀想っつか永遠に叶わない片思いみたいなもんかしらん?(え?)

と。今回もちらし先行で3列 27番なんつーとっても真ん中ーないいお席だったりなんかして。にしてもいつも観てるようなお芝居とは明らかに客層が違った感じ?平さん目当てな人が多かったのかちょっと高年齢層な。(おい)だってさー平さんが登場してくるシーンってこう座長が病院から抜け出して劇場に帰って来ちゃう(詳しくは楽屋に)ってとこなわけだからそんなに威厳があるわけでもないしどっちかっつーと「なんでここに今いるわけ?!」なちょっと情けなさ漂うシーンだったりするわけだけど。それなのに拍手起こってましたもん。何?ここってそういうシーンじゃないんじゃないの?そりゃシェークスピア劇とかで主役だったらそれなりに拍手したりなんかしてもシーンとして成り立つっつか合うと思うけどこの座長の登場シーンに関してはなんか違うと思うのねん。お目当ての人が出て来たーっ!ってのは分からないでもないけどそれなりに空気感とか読んで欲しいー。ま、少数派でしたが。でも旅劇団一座ってなんとなく家族っつかもう旅がひとつの家みたいになっちゃってるような気がするっつか。客演公演とかだとメンバーも全然違うし初対面ーな人とかもいたりなんかして家族ってほどには到底いかないと思うんですけどそれでも長く一緒に公演してれば合宿ぐらいの雰囲気にはなってくるんではないかなー?と。それがずーっと一緒にいる劇団の公演だったらもうそれは家族っぽいですよね。座長夫人(松田美由紀さんの役どころ)って立場もいっぱい劇団にいる女の人の中で夫人の座にふさわしい女の人だったってだけなような。(おい)だって劇団ってやっぱり座長が気に入った人しかいないわけでしょ?究極ハーレム状態じゃないですか。(違)でも夫人っていう立場にしたって同時に女優っていう立場もあってどうやったって座長と比べられるし仕事の上ではライバルだったりで大変なんだろうなーとか。舞台監督のマッジ(久世星佳さんの役どころ)もそりゃ若かった頃は座長に恋もしてただろうし憧れてきらきらーって感じもあったのかもしれないけどお互い年取って来ちゃった今になっては恋とかいうのとはもっと違うなんつーか戦友?みたいな気分っつかひとつの舞台を成功させるべく努力する、主役の座長がいかによく見えるように最前を尽くすみたいなとこがあったりして引き立て役?みたいな感じでしょうか。座長が今頃優しくしてもらったところで「はい、そうです」なーんてラヴラヴ〜な感じになったりなんかしないでしょうね。なんかそうされたら余計冷めちゃうような。いつまでも「座長、大好きっ!」だったのはノーマンだけだったんだろうなー。家族って大好きって話の介入しようがない場所っつか。ビジネスライクとまではいかないけど好きとはまた違う何かで成り立ってるような。家族同士で「好き」だなんて感情があったらかなりうざいじゃないですか。(淡白)や、嫌いじゃないですけども。家族愛は恋愛感情じゃないわけだし。いなくなったら淋しいし死んじゃったら悲しいとは思うけどいなくなっちゃったから一緒に死のうとまでは思わないですよね。でもノーマンはそれもしかねないなって感じで。座長のドレッサーを降りた後の自分なんて想像もつかないしそれはもう半分自分が死んでしまったような感じなんでしょうねい。死んじゃったことは分かってるけどどこかが受け入れられないっつか受け止め切れないっつか。あたしもその昔マネージャーになりたいなーと思ってたことがあったりなんかして。ま、それは半分以上不純な動機でそうすれば好きなタレントとずーっと一緒にいられる大義名分があるからってのがその理由なんですが。(おい)ま、そんな奴にマネージャーされたってそのタレントは絶対伸びないだろうし共倒れどころか完全さげまんだなって感じなんですけど。(苦笑)あたしみたいに「自分大好きっ!」でなんだかんだ言いながら「あたしって可愛いなー」って思っちゃったりするような(だからって別にナルシストってわけじゃないですけども。こほん。こう思うのにだいぶ長くかかってるし…)奴はどうやったってマネージャーなんかなれないとこのお芝居観て余計強くそう思いましたよ。(苦笑)「もうお前なんか俺の目の前からいなくなっちゃえっ!」的なシビアなこと言われたらどーんっ!と落ち込んでただめそめそ泣くばっかりになりそうですもん。そこから立ち直ってくるなんてこと考えられない。(弱)やっぱり誉められて伸びるタイプだわ、あたし。(おい)つかさー。斜め後ろぐらいだったかな?観劇ちうに携帯がマナーモードで「むー。むー。むー」って鳴り出しやがりましてねー。(怒)うもー。そういうのは気になるから元から断てっ!電源は完全オフだっ!分かったかー。(何)つーか切れない携帯だったら持って来るな。家置いて来い。(爆)その辺ホントマストでお願いしますー。