@思いつく単語・なつかしい言葉
・父は兵隊の時、衛生兵をやっていたとかで、満州で撮った写真を何枚か見たことがある。 しかし、どういうわけか父から戦争の話は全く聞いたことがない。 写真といえば、父の出征の前に家族全員で撮った写真があったが、祖母の表情は 長男を兵隊にとられてこれ以上はない心配と悲しみでいっぱいの顔であった。 祖母は「りん」という名前で、笑うとかわいいおばあさんであった。 「か」を「Kwa」と発音するので、私は入れ歯のせいだと思っていたが、明治時代にはそれが普通だったらしい。
・田舎の村でもめごとがあった時、何人かの人が大声で怒鳴り込みに来たとき、落ち着いて対応していたのが、そのまま祖父のイメージに残った。
・20世紀梨は甘くて美味しいが、袋かけ・消毒・取入れ・剪定と大変手間がかかる。 昔、かける袋は、新聞紙を切っていちまいずつ糊はりして作った。家族みんなで夜、内職であった。 長いホースで梨畑を消毒している間、私は発動機が止まらないように見張った。 古い機械だからプラグがつまったり、燃料タンクにごみが入ったりして、時々エンジンがとまる。 父に直し方を教わって、私も修理をやったものだ。
・田んぼ 田植えも稲刈りも脱穀も、何でも子供が手伝った。 稲刈りの時、2〜3条刈れば道ができるのが面白く、複雑な「迷路」を作るのが楽しかった。
・ 昔の農家は、母屋の中に牛小屋があり、牛を大事にしていた。 小学生のころは、学校から帰ると、500メートルほど離れた川まで牛を連れて散歩させるのが日課だった。大きな牛は体力があり、機嫌の悪い時はあばれ回るので、泣きべそをかいて引っ張って帰ったものだ。
・小学生の頃、家で勉強などしなかったから机もなかった。ただ、鞄を置く場所がいるので、梨を詰める木の箱を一個、部屋の隅に置いていた。読みもしない本を立ててみたりした。
・その頃、人は死んだらどうなるのだろうと考えだして、何日も眠れない夜が続いた。
・小学校の校庭に「忠魂碑」ができた時、除幕式の白い布がひらひらとまぶしかった。時々そこで朝礼があったが、あのころは、あれがいったい何のシンボルかまったくわからなかった。
・小学校高学年になり、電気や機械が好きで、鉱石ラジオを手に入れて、イヤホーンから音が聞こえた時、意味はわからないのに嬉しかった。
・親友のY君と、真空管ラジオを改造して無線機をつくり、無線通信をして遊んだ。屋根の上にアンテナ線を張り、2キロほど離れたY君の家と交信できた。大きなノイズの中からかすかに聞こえてくる声は、どんな嬉しかったか。