音楽と私

想い出の曲、17曲による私の物語です。(S君の25歳の誕生日にささげます。~11年2月)

   @ 雑木林に月が出た

 あれは私が小学校5、6年生だった頃だと思う。6つ年上の兄は、(あとで小学校の教師になったくせに)音楽だけはニガテのようだった。楽器はおろか鼻歌も聞いたことがなかった。ところがある日、ラジオでこの曲が流れているのにあわせて、あの兄が低い声で歌うのを聞いた。 "雑木林に月が出た、月が出たならそっと来な、抜き足差し足そっと来な、〜〜"。年が離れていたので一緒に遊んだ記憶はないが、この曲はそのまま兄を思い出す歌になった。彼は小学校の校長在職中、定年まで2年残して他界してしまった。
(右の写真は、カメラ好きだった兄の撮った大山の冬景色)

   A ジェルソミーナ(映画"道"のテーマ)

 中学でブラスバンド部に入った。1年生は楽器にさわらせてもらえず、ドラムのバチを2本もらって毎日リズムをとる練習を3ヶ月やらされた。そんなある日、映画の団体鑑賞で"道"を見に行き、ストーリーはよくわからなかったがテーマ音楽が階名と一緒に耳に残り、その帰りに一人で学校の音楽室に行き勝手にトランペットで吹いてみた。すると不思議なことにスラスラと曲が吹けた。そしてブラスバンド部の3ケ月の見習いが終わって希望どうりトランペットを吹くことにになり、私の音楽とのかかわりがスタートすることになった。その出会いがこの曲である。

   B  士官候補生

 その年の秋、十数校でブラスバンドの演奏会があった。その時の合同演奏の曲が有名な行進曲"士官候補生"だった。ところが練習してもなかなか高い音が出ない。そこで、尊敬するY先生は、なんと、誰の楽譜にもないオリジナルのパートを書いてくれた。高い音符のところを3度くらい下げてあるので、楽に素晴らしく良くハモった。Y先生と私だけの秘密である。この曲を聴くたびに思い出すエピソードである。そして、歌でも楽器でもハモろうと思えば、そのコードの中の音を適当に選べばいいというコツを、こんなに早く教えてもらった。
  C 未完成交響曲

 Y先生は音楽の時間にクラシックのレコードをよく聴かせてくれた。いつでもその中の旋律を黒板に書き、生徒に覚えさせるやりかただった。この曲は短いテーマが沢山あり、私は全部気に入った。しかし一つずつの曲想があまりに違うので、中学生の私は、これは題名の通り作曲の途中の未完成のままの曲なんだ、と思い込んでいた。何年もたってからテレビ番組の演奏をちゃんと聴いて、やっと勘違いに気がついた。今でもこの曲は口笛とハミングで最初から音をたどっていけると思う。罪滅ぼしである。  
  D  乙女の祈り

 ブラスバンドの3年生の先輩でフルートのHさんという素敵なお姉さんがいた。練習が終わった後、体育館のピアノで良く響く音で聞こえてきたのがこの曲。あのHさんが一人で弾いているではないか。何度も何度もおなじメロディーを繰り返して練習しながら、自分で編曲しながらの熱演にしばらく聴き惚れてしまった。でもあの曲は、繰り返しや編曲ではなく元からそういう楽譜であることを知ったのは、ずっと後に化粧品メーカーのCMに使われだしてからである。それにしても、あの曲は最初の出だしが一番よい。

   E アフトンの流れ

 高校時代は音楽のエアーポケットの時代だった。せっかく中学でいい先生に出会い、ブラスバンド活動を通じていい音楽環境がスタートしたところだったのに。ただ、高校の選択科目の音楽の時間は、何故か、この曲が好きな先生で、皆で斉唱(合唱ではなく)ばかりさせられた。ちなみに、この先生の一番お気に入りは、そのままニックネームになった、サンタルチアであった。手塚治虫のひげおやじによく似た、気のいい先生だったが、音楽の楽しさはほとんど教えてもらうことがなかった。そしてこのアフトンの流れだけが記憶に残った。

   F 白銀は招くよ

 高校2年の時、確か80円だったと思うが、この映画を見た。そのころ映画館や喫茶店は許可なく行ってはならない所だったが、何故か、一人で見に行った。主演はオリンピックでスキー三冠王のトニーザイラー。なるほどスキーはうまいしストーリーも良かったが、歌が大変へたくそ、歌を歌うような声ではない。普段の話し声と同じ発声で歌っている上に、全部スタッカートでこまぎれに歌っているので感情がこもっていない。スクリーンの中でも口の動きと声が全然合っていない。ところが変なものだ、あのサウンドトラックのままが気に入り、他の歌手や編曲では全く物足りない。

   G  禁じられた遊び

 大学では混声合唱団に入った。そこで出会ったA君がギター同好会にも入っており、下宿に遊びに行くとよくこの曲を弾いていた。ミドラミドラの右手のトレモロの音色が、A君が弾いているとは思えないほど妙なる音の世界に響き、忘れられなくなった。数日後、本代の追加分だといって仕送りしてもらったお金でギター(確か3500円)を買い、いまだ手放さず家に置いている。禁じられた遊びの映画はその後何度も見たが、あの頃下宿で、左手の人さし指と右手の親指に大きなマメを作りながら、Amでミドラミドラ弾いていたことを思い出す。

    H 美しき青きドナウ

 合唱団の指揮者のS先輩が好きだった曲だが、その秋の定期演奏会のメニューには入らないことになった。でも、練習だけでもいいから振らせてほしいということになり、その熱意で、3ヶ月間くらい練習した。そして、いつもの練習会場〈御所の横の教会だったと思う〉の観客のいないステージで、S先輩の指揮で最後の合唱をした。出来は良くなかったが、あの軽快なウインナーワルツは忘れられない。何故か、ヘッセの"青春は美し、されどそははかなく過ぎゆく、楽しからん者は楽しめ、明日の日は確かならず"という詩を連想してしまう。

   I バラが咲いた     

 入社してまもなく、会社の合唱団に入った。その年の秋に"第一回定期演奏会"をやることになった。そのステージの幕間のイベントとして、四人の男声でギターを弾きながら、会場のお客さん(京都会館の第二ホールだから500人くらい)と一緒に歌った。マイク片手に、はい右側の人だけ、はい男のひとだけ、はい美人と思う人だけ、なんて言いながら歌ってもらった。その年(昭和42年)マイク真木で大ヒットした曲である。ほんとにいい世の中で、誰の心の中にもバラの咲いた 時代だった。

    J 月光とピエロ

 大阪のフェスティバルホールで産業人合唱コンクールがあった。同じ会社の京都、大阪で百人位の合同合唱団で参加した。ピアノ伴奏の曲ではないので、最初の音だけ女性が ポンポンポンとたたき皆ハミングで音をとり、指揮者の合図で合唱が始まった。ところが何と会場がざわめき始めた。実は音を4度低くスタートしていたのだ。(ピアノの黒鍵の並びから確かに4度は見まちがいやすい)。まもなく皆気がついた。それでも何故か指揮者はタクトを振り続けた。審査員の講評も指揮者のコメントも全部忘れてしまったが、この曲に強烈な思い出が残った。

   K  真夜中のギター

 H嬢の好きな歌だった。
"街のどこかに寂しがりやがひとり、今にも泣きそうにギターを弾いている。 愛をなくして何かを求めて、さまよう似たもの同士なのね。
ここへおいでよ、夜は冷たく長い。黙って夜明けまでギターを弾こうよ"
千賀かおるの歌。グループサウンズの大流行の合間に、単調なギターとハスキーなソロで大ヒットした曲。下宿で夜ひとりでギターを弾きながら歌ったものだ。H嬢は、今私の愛妻である。

   L 結婚行進曲

 自分の結婚式で、司会進行は音楽仲間のMさんにやってもらったが、BGMだけは是非自分で準備したかった。なかなかいいレコードやテープが見つからず、結局、式の前日に自分でエレクトーンを弾いてテープ録音した。この曲は楽譜通りに弾くとタタタターン、タタタターン、の次のメーンテーマのところのコードが大変な不協和音なのである。特にベースの音が気になる。それを変えるかどうか随分迷ったが、その音を小さくして譜面通りに録音した。他のBGMも20曲ほど弾きテープに録音して、確かに会場で流したはずだが、苦心した割りには当日の記憶に音楽は残っていない。

   M  白い恋人たち

 昭和47年札幌オリンピックで日の丸飛行隊と転んだジャネットリンが話題になったが、その時のテーマミュージック。そしてこの歌詞のない単調なスローワルツは朝から晩までテレビで流れていた。数日後の2月27日、浅間山荘に籠った赤軍派が機動隊に逮捕された。家が壊されピストルが発射され犯人達が逮捕されるまでテレビは1日中ナマ中継していた。雪の降る寒い日であった。鳥取にも大山にも雪が降った。この日が私たちの結婚式の日だった。披露宴で流す自作のBGMテープにも白い恋人たちを勿論録音した記憶がある。

   N  あなた

 会社で係長になった時、職場のチームワークを盛り上げようとして、自分のギターで休憩時間に歌をうたった。その時一番人気があったのがこの歌だった。小坂明子のヒットソングである。
"もしも私が家を建てたなら、小さな家を建てたでしょう。大きな窓と小さなドアーと、部屋には古い暖炉があるのよ"
それから10年後、人事異動で私の上司になったSさんが、何と、小坂明子の叔父にあたる人だった。一緒にカラオケに行っては、昔の懐かしさとゴマスリの一石二鳥で、よく歌った。

   O  白いブランコ

 カラオケでは、一人で歌うより誰かの歌に一緒にハモルのが好きで、この歌をH君とよく歌った。彼は声もいい音程も確かだが、この歌を私が3度下げてハモっていると突然メロディーをやめて私と同じ音に変えてくる。そうなると私はすぐにメロディーに戻るか、オクターブ上げて裏声で歌う。一番はいいが二番はよくそうなった。でも何度もやっているうちにタイミングが合ってきて、自他ともに?好評の曲となり、仲間からリクエストされたものだ。そのH君と職場が遠く離れて5年経ったある日、突然訃報を聞いた。46歳の若さで旅立ってしまった。

   P  第九

 数年前、会社の宣伝部でナイスミーティングというキャンペーンを考えた時、メーンイベントとして120人のアマチュア合唱団を募集し、半年間練習し、京響のオーケストラに協力してもらい、京都会館で第九の演奏会を開催した。
 本番の前夜、我々のスタッフ3人で京響指揮者のDシャロン氏と会食した。私が、合唱団はアマチュアなのでよろしく、と言うと彼は、"アマチュアは音楽が好きで歌も真剣に熱意をこめて歌ってくれるから、明日の演奏会はとても楽しみにしている"、と言ってくれた。当日ステージで歌い終わった時、感激で涙が出た。その後も何度か第九を歌う機会があるが、あの感動のレベルは越えていない。   

(終わり)