昭和23年 4月 | 岐阜県関市立倉知小学校入学 | |
昭和29年 3月 | 同上卒業 | |
昭和29年 4月 | 岐阜県関市立緑ヶ丘中学校入学 | |
昭和32年 3月 | 同上卒業 | |
昭和32年 4月 | 岐阜県立関高等学校入学 | |
昭和35年 3月 | 同上卒業 | |
昭和36年 4月 | 京都大学理学部入学 | |
昭和38年 4月 | 京都大学理学部化学科分属 | |
昭和40年 3月 | 同上卒業 | |
昭和40年 4月 | 京都大学大学院理学研究科修士課程化学専攻入学 | |
昭和42年 3月 | 同上修了 理学修士 | |
昭和42年 4月 | 京都大学大学院工学研究科博士課程燃料化学専攻入学 | |
昭和43年 2月 | 同上退学 | |
昭和43年 3月 | 神戸大学理学部助手 | |
昭和47年11月 | 理学博士(京都大学) | |
昭和48年 9月 | 英国ケンブリッジ大学・サセックス大学にて、ラムゼーフェローとして研究に従事(〜昭和50年9月) | |
昭和52年 7月 | 神戸大学理学部助教授 | |
昭和56年 4月 | 分子科学研究所助教授併任(〜昭和58年3月) | |
昭和60年 4月 | 神戸大学理学部教授 | |
平成13年 4月 | 神戸大学分子フォトサイエンス研究センター教授 | |
平成13年 4月 | 神戸大学分子フォトサイエンス研究センター長併任 | |
平成17年 3月 | 神戸大学定年退職 | |
平成17年 4月 | 神戸大学名誉教授 | |
賞罰 なし |
岐阜県武儀郡関町にて、雑貨商加藤三郎・スミの長男として昭和16年9月4日に出生した。日本は同年12月に太平洋戦争に突入し、 父は昭和18年12月に出征した。母スミは私を連れて生家である岐阜県美濃市 山中金市・ぎん宅へ疎開したが、昭和22年2月24日 に病死した(結核であったことは成人してから知った)。母が臨終の床で幼い私の行く末を案じ泣いていたこと、大事な後ろ 盾をなくしたと感じたことを幼い日の思い出として強烈に覚えている。この頃の体験は、生涯を通じて私の人間形成に影響を及 ぼした。昭和22年12月に父が無事帰還した。(右写真は加藤三郎 91才)
倉知小学校に入学する直前に父が再婚した。その後、二人の弟と一人の妹ができた。良い母と弟・妹にめぐまれ感謝している。
小学校1年生から5年生までは、関市巾で暮らした。友達の家はほとんどが農家で、学校以外では勉強することもなく、野・山・川で
遊んでくらした。この時代、父母だけでなく、学校の先生、友達や近所の人々によって育てていただいたと思う。
倉知小学校は一学年49名で、六年間同じ友達と学び遊んだ。小学校2年生のとき湯川秀樹先生がノーベル物理学賞を受賞され、
子供心にもヒーローであった。小学校6年になったとき、関市山の手町一丁目に移転した。この移転先の隣人が蝶の採集をされていて、
その標本を見せていただいたとき、多種の蝶が身の回りにいるのに関心がないと気がつかないのだと思い知った。
(上は小学3年生の記念写真)
緑ヶ丘中学は近在の小学校の卒業生を集めて、一学年が六クラス、一クラスが56名であった。このうち高等学校へ進学した
のは約四分の一。成績が良くても、家業をつぐため・家計を助けるためと大半の友達が就職する時代であった。
中学二年の末頃からは勉強に全力を注ぐようになった。
関高校に入学してからは、大学めざして勉強した。一生懸命努力し、関高校ではトップから5番目以内くらいにはいたと自負する
のであったが、京都大学を受験し敢え無く敗退した。
自宅で再受験をめざして、浪人生活に入った。何としても再受験で合格しなくてはならない。合格して初めて意味があるん
だと心に命じて努力した。再受験の間際には、合格の境界線までたっしたが、ギリギリだなと自覚できるくらいになった。
そして、幸運にも京都大学理学部に入学できた。この浪人時代の経験は貴重なものであった。
小・中・高等学校時代は人間形成にとって大事な時期であり、友達・先生の影響は大である。多くの人間として魅力ある人達
に恵まれて育てていただいた。特に、日野誠憲先生には中学時代から他界されるまで薫陶を受けた(右の書は、86才の誕生日
に震える手で書いてくださった)。
しっかり勉強して優れた研究者になろうと決意を新たにして京都大学理学部に入学した。湯川先生のような立派な学者になる ことを目標として・・・。当時の理学部は三回生になるときに物理とか化学とかの学科を選択して分属するシステムであった。 入学当初は物理学科に進学したいと考えていたが、多くの学友が物理学科を希望しており、この中で頭角を現すのは困難と 感じた。他方、化学の講義は、経験的な化学反応の説明、簡単な速度論等で、もっとしっかりした理論が構築できるのでは・・・ 量子力学が原子の諸性質を説明できるなら、これを化学に適用することにより、しっかりした理論による化学反応の説明・理解 が可能ではないか・・・と考えるようになり化学科に進学した。この頃、初恋のひとに求婚して断られた。 四回生になるとき量子化学研究室(教授は山本常信先生)を選択した。この研究室は卒業研究は無く、もっぱら物理学科の講義 に出席し、基礎学力をつければよかった。修士課程の前半もそうであった。この時代に A. Messiah 著 Quantum Mechanics を 徹底的に読破した(全ての練習問題を解いた・・・解けるまで一問に3日も4日も費やした)。これは、後の研究生活に大いに役立った。 修士課程一年の後半頃から工学部燃料化学科の福井研究室より独立された米沢先生の研究室でのセミナー(重要と思われる論文 の読書会、毎週土曜日の18:00-20:00)に参加させていただいた。非常にざっくばらんに議論し、研究への情熱に燃えた雰囲気 があった。修士論文は"固体メタンの回転相転移"に関する研究であった。 博士課程進学にあたって、米沢研究室に入れていただいた。米沢貞次郎先生が教授、加藤博史先生が助教授、助手が森島績、 川村尚さんで学問的情熱・活気に満ちた研究室であった。当時、最先端であった半経験的分子軌道法による分子の電子状態に 関する研究をさせていただき、分子の電子状態に関する理解を深めさせていただいた。福井謙一先生は「不変的に残る良い研 究をめざせ」とおっしゃっていた(右上はMulliken教授が京都に来られたときの記念写真で、上記の先生方が全員いらっしゃる) 。昭和43年2月に尾山聡子と結婚した。
磁気円二色性分光の研究
博士課程一年の11月頃、神戸大学理学部化学科の助手としていかないかとのお話をいただいた。まだ研究をはじめたばかりで
研究実績もなく、研究者として一人前になれるかどうか不安であったが、生活が安定するという魅力もあって奉職させていた
だいた。構造化学研究室所属で、加藤義文先生が助教授、橋本真佐男さんが助手としておられた。加藤義文先生は核磁気共鳴
や赤外分光のスペクトル解析の理論計算、橋本真佐男さんは核四極子共鳴装置を製作されていた。さて、私は何をするのだろ
うと思っていたが、加藤義文先生は何も指示されなかった。京都大学と比べて神戸大学の計算機は随分劣るので、分子軌道
法による計算では太刀打ち出来そうも無いと思った。何とか特色のある研究をするには、計算機の性能に左右されない研究を
しなければ活路は無いので、より理論的な研究を模索して苦悩した。赴任して半年ほど経過したとき、加藤義文先生(右の写真)
が「研究室で500万円ほどの装置が買えることになった。何かないか?」とおっしゃった。私は磁気円二色性分光装置を提案し、
まだ台頭期であり理論解析も開発期で、特色ある研究が出来ると説得した。加藤義文先生も興味を持たれて、磁気円二色性分
光装置の購入が決定した。ところが、その直後に大学紛争が勃発した。学生側に共鳴する助手と管理者責任者としての教授会
との対立が始まった。「助手を一人前の研究者として認めてほしい。研究費は教授、助教授、助手の差別無く等分配してほしい。
等」の要求を掲げて激しく対立した。そして、構造化学研究室内でも、橋本さんと私は加藤義文先生から独立してしまった。
しかし、磁気円二色性分光装置は導入され、加藤義文先生は希土類錯体を、私は遷移金属錯体を、と互いに独立して研究を推
進した。上記の要求を認め、若者の勝手な振る舞いを寛容してくださった当時の教授の方々と加藤義文先生には深く感謝して
います。
装置が導入されるまでに、磁気円二色性の理論は十分理解していたが、実験は学生実験で経験した以外に無かった。文献を参
考にしながら、実験をした。遷移金属塩と配位化合物を混ぜるとさっと色が変わるのを見ると、これは理論で予想するのは難
しい・・・と、感動しながら実験をした。一緒に実験している学生(谷口真日東君)は呆れていた。磁気円二色性スペクトルの理
論的な解析をしっかりおこなう事を特色として研究を推進した。三価の鉄にマロン酸が三個配位した
Fe(mal)33- で新規な磁気円二色性スペクトルを発見し、これを解析した論文により理学博士の学位
を取得した。
ラムゼー記念奨学生として英国に留学
学位取得後、外国で博士研究員として研修するのが適当と考え、ラムゼー記念奨学生に応募して、幸運にも採択していただい
た。選考委員長は水島三一郎先生であり、その後先生から「君の選考を最後に17年に及ぶ選考委員長を退く、しっかり期待に
応えてほしい。」とのお手紙を拝受した。
ケンブリッジ大学の A. D. Buckingham 教授 の下で研究することになった。最初の面接で「何をしたいか?」と問われ、「先
生の面白いと思われる研究テーマで研究させて下さい」と答えた。与えられた研究テーマについて、基本的なところから勉強
し努力した。しかし、暫らくすると期待はずれの結果に終わった。このことを一年程繰り返した。どの研究テーマも、非常に
基本的で重要且つ独創的なものであり、優れた研究者の視点を教わった。しかし、次第に"研究テーマは自分で決めるのが一
人前の研究者だ" と思うようになり、 A. D. Buckingham 教授 に「研究テーマは自分で模索します。困難な問題に直面し
たらご相談にのってください」と御願いし、模索を始めた。
ヨウ素分子の共鳴ラマンの論文が目に留まり勉強していたら、サセックス大学の A. J. McCaffery 教授がレーザー光を円偏光
にしてヨウ素分子を励起し、発光スペクトルを右偏光成分と左偏光成分に分けて測定する実験を開始しておられる論文を見つけ
た。この実験法を活用し、衝突により振動・回転エネルギー移動した準位からの発光の偏光度を測定すれば、エネルギー移動
による回転方向の変化に関する情報が得られることに気がついた。A. J. McCaffery 教授を訪れ、実験をさせてほしいと御願い
して快諾を得た。1975年3月にサセックス大学に移動し、帰国までの半年間、実験・解析に興奮の毎日であった。(左の写真は
当時のMcCaffery教授と私)
2原子分子のレーザー誘起発光スペクトルによる研究
1975年9月に帰国した。神戸大学にはレーザーも高分解能分光器もなかったが、高分解能レーザー分光の美しさに魅了されており、
何とかして、高分解能電子スペクトルによる研究をしたいと模索した。レーザーラマン分光器を所有する研究室を訪ねて、実験
させていただくことを試みたりしたが、当時のレーザー管の寿命は短くどの研究室でも貴重であり、思うように実験できず苦悩
の時代であった。それでも、可視領域に吸収帯のあるアルカリ金属分子を対象に選び(ヨウ素分子はA. J. McCaffery 教授らが研
究しているので回避した)、模索を続けた。
1977年加藤義文先生は、大学紛争時代激しく反発し、その後独立してしまった私を助教授に推薦してくださった。
分子科学研究所が1975年に設立されたが、1978年になると機器センターにレーザーラマン分光装置が導入され、全国の大学人が
利用させていただけることになった。Cs2分子の発光が測定できたときは、嗚呼これで思う存分研究ができると感激
した。
1980年には神戸大学の全学共同利用機器として、レーザーラマン分光装置が導入され、高分解能分光器、単一モード発振可能な
Ar+レーザー、Kr+レーザー、波長可変色素レーザーが利用可能となった。これらのレーザーを用いて種
々のアルカリ金属2原子分子を種々のエネルギー準位に選択励起し、励起準位やエネルギー移動した準位、解離原子からの発光スペ
クトルを測定した。それを解析し、分子の構造、ポテンシャルエネルギー曲線、準位間相互作用、前期解離、衝突によるエネル
ギー移動等に関して研究した。
特に、外部磁場のスペクトルへの影響を研究することにより、スピン三重項状態との混合やエネルギーシフトに関する特色ある
研究をすることが出来た。(上の写真は野田さん高橋さんと徹夜実験をしたとき)
1981年4月より二年間分子科学研究所の客員助教授にしていただいた。この間に、長倉三郎先生の主宰される"化学反応への磁場
効果"に関する研究セミナーに参加させていただくようになり、"本質的で重要なものは何か"にせまる研究態度を教えていただい
た。(右は長倉先生と当時の主要メンバー)
1984年上司である加藤義文先生が急逝された。この貴重な恩師になんら報いることの出来なかったことが悔やまれる。
ドップラーフリー高分解能レーザー分光による研究
1985年教授に昇任させていただくと共に、概算要求での特別設備費(約3200万円)が認められ、波長自動可変単一モード色素レー
ザー(国内で最初に導入)と高分解能分光器を購入することが出来た。新米の教授が特別設備費を拝受できたのは、この時代神戸
大学ならではのことであったと感謝している。
1986年には馬場正昭さんに構造化学研究室助手として赴任していただき、波長自動可変単一モード色素レーザーを活用したドッ
プラーフリー高分解能レーザー分光による研究に着手することが出来た。
この時期(1987-1989)、科学研究費 一般研究(A)(総額2430万円)を採択していただいたので、レーザー光・分子線交差型サブドッ
プラー分光装置とドップラーフリー偏光ラベル分光装置を製作することが出来た。
これらを活用して、種々のアルカリ金属2原子分子とヨウ素分子について、より正確で、詳細な研究をおこなう事が出来た。
1988年に馬場正昭さんが京都大学に転出されたので、1989年に後任として京都大学物理学科の修士課程を修了されたばかりの石川
潔さんに来ていただいた。
1993年に笠原俊二さんに自然科学研究科の期限付き助手として赴任していただき、以後理学部助手、分子フォトサイエンス研究
センター助教授として、私が定年退職するまでお世話になった。
1995年に石川潔さんは京都大学へ転出された。
1992-1996年に科学研究費 特別推進研究(総額17600万円)を拝受することができたので、レーザー光・磁場・分子線交差型サブ
ドップラー分光装置とドップラーフリー2光子励起スペクトル測定装置を製作することが出来た。神戸大学には特別の配慮をし
ていただき実験室を特設していただいた。これを期に、多原子分子の高分解能レーザー分光を開始することが出来た。
1995年1月に大きな地震に見舞われた。徹夜実験中の学生(土肥さん、太郎良さん)が光学実験台・分光器・保管庫等の倒落した中
で無事であったのは幸いであった。
1998-2002年に日本学術振興会 未来開拓学術研究特別推進事業のプロジェクトに採択していただき巨額の研究費(総額55373.3万円)
を拝受した。これを期に、光の絶対波数を精度 0.0001 cm-1 で波数校正することを可能にするスペクトル集
“Doppler-Free High Resolution Spectral Atlas of Iodine Molecule 15000 to 19000 cm-1 ”を測定・製作・出版
した。超高分解能レーザー・分子分光システムを開発・製作し、多原子分子の構造とダイナミックスに関する研究を展開した。
その結果、ナフタレン程度の大きさの分子であれば、室温でも回転構造まで分離したスペクトルが観測でき、スペクトルの同定が
可能であることを立証した。またゼーマン分裂の観測が 1 テスラ 以下の磁場で、ベンゼンやナフタレンの一重項間遷移でも観測
可能になった。
このプロジェクト発足時の神戸大学学長西塚泰美先生は、学内空き定員を活用して、学長特命助手一名を本プロジェクト推進中の
任期で配備してくださいました。これにより、御園雅俊さんに本研究推進に加わっていただきました。
2001年には分子フォトサイエンス研究センターが新設され、同センター教授となった。
ベンゼンやナフタレンが最低励起(S1)状態の低振動準位に光励起された場合、主として三重項状態に無輻射遷移
(Intersystem Crossing)するというのが定説であった。ところが、ベンゼンやナフタレンの最低励起(S1)状態の各振動
準位について、回転準位まで分離してゼーマンスペクトルを測定し解析を進めることにより、S1状態と三重項状態との
混合は無いことを立証することができた。ベンゼンやナフタレンの最低励起(S1)状態の低振動準位に光励起された場合
の無輻射遷移は、三重項状態への無輻射遷移(Intersystem Crossing)でなく、最低励起(S1)状態から基底(S0)
状態の高振動準位への無輻射遷移(Internal Conversion)であると結論した。・・・これはもう定年退職直前であり幸運であった。
最後に、上述の様な"高分解能レーザー分光"は、多大な研究費があって初めて実施可能であります。神戸大学での我々の研究室が
分解能・波数精度で"世界一"を誇るレーザー分子分光装置を築くことができたのも、多大な研究費を配分していただいた賜物であ
ります。
また、全ての研究が多くの共同研究者、大学院生、学生諸君の協力があってはじめて成し遂げられたものであります。個々の研究
に寄与してくださった方々のお名前は個々の論文に掲げてありますが、その礎として数多くの先輩の寄与があります。あらためて
深く感謝申し上げます。
研究施設の確立・整備、研究の遂行に協力いただいた事務官・教官の方々、激励し援助して下さった方々に厚く御礼申し上げます。
楽しい思い出の写真 テニスはウィンブルドンで沢松和子とアン清村が女子ダブルスで優勝した年にその一回戦を観戦し、研究室が同じだったRoger Raab に手ほどきを受けて始めた。帰国してからは岡本眞一郎さんが最初の師匠で、以後研究室に来てくださった多くの学生さんと楽しま せていただいた。このラケットは1974年にケンブリッジで買った。