241 2017-3-1更新

納得の真田丸跡

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 徳川家康は戦いには勝ったが秀吉の大阪城を壊して埋め、幸村が築いた出城「真田丸」は跡形もない。特に真田丸は「これでもか」と云うほどに、再現することが出来ない位に憎さも加わったのか地形まで変えてしまた。
 NHKが明星学園南側の駐車場にトレンチを入れ、奈良大・千田教授が立ち会われたが、地層に真田丸の南端らしい痕跡は見つからなかった。
 真田丸の跡とされている明星学園や一心寺周辺を歩いて、国土地理院の地図で高低差から見てみることにした。明星学園南側の標高が18bとこの辺りでは最も高く、その南側約300bの府立高津高等学校南側では標高が約12bになり6b程低くなっている。
 そこから南へ向かってはさらに標高は低くなるが、千日前筋辺りからは標高は高くなって行く。
北側は約180b先の長堀通り地点では標高は約8bと7b低くなっている。
東西方向では玉造筋が3.3b、そこから西に向かってやはり明星学園南側へと高くなり、学園南西向いにある鎌八幡より西へ行くにしたがって低くなっている。
これらから明星学園、一心寺(標高約15b)辺りを頂点として東西南北に低くなっていることがわかた。
広島市立図書館「浅野諸国古城図」等を参考に、多く人が真田丸の位置を決めておられるが、それとは別にGooglemap上に赤色で真田丸跡とおもわれる位置を描いて自分で納得をした。


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