242 2017-4-1更新

淡路島はなぜ兵庫県か

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 淡路島は江戸時代より阿波・蜂須賀藩の領地だったが家来の稲田氏が実質的な統治をしており島民からは慕われていた。親藩の蜂須賀家が徳島県なのになぜ兵庫県に組されたのかについて、少々長くなるが各資料から抜き書きしてみる。
理由の一つとして庚午事変(こうごじへん・稲田騒動)がある。「稲田騒動」とした方が直接的で分かりやすいので「稲田騒動」とする。
 稲田家は幕末の「蛤御門の変」で「禁門の門」の守備を任されたにもかかわらず、佐幕派の蜂須賀藩の武士に対しては頭を下げなければならなかった。これらに不満を持った稲田家は徳島藩からの独立を訴えたが、逆に徳島側の過激派が、洲本城下の稲田家とその家臣らを襲撃し、また家々を焼き討ちにした。それに反して稲田家は多くの犠牲者を出したにもかかわらず一切無抵抗でいた。しかし政府は「喧嘩両成敗」として処理、事件にかかわった徳島藩に対して当事者の斬首、切腹、終身流刑を、稲田家に対しては北海道静内(日高)と色丹島へ配地を与えると云う名目で移住を命じた。
 明治4(1871)年4月先遣隊が出発。その後も船で出発するが、船が座礁したりして多くの犠牲者も出た。静内に着いても住居があるわけもない。とりあえず、漁場の番小屋などに分散して過ごした。しかし7月末に稲田家代々に伝わる家宝ほか島民の冬物の衣類や日常の労働用具までしまい込んであった漁場倉庫が失火して、全焼してしまうという悲劇に見舞われた。
 初めて迎えようとする北海道の冬に向け、温暖な気候しか知らない淡路島民は不安だったであろう。
このような「稲田騒動」があって後、新政府から徳島県が良いか兵庫県に組するのが良いかと言われ残った島民は、当然徳島藩に対する感情的なものもあったのだろうと思われる。そして当然のごとく「淡路島」島民は兵庫県に組することを望んだ。
 「喧嘩両成敗」が生んだ元禄14(1701)年の「赤穂事件」と同じような事件が淡路島と徳島にあった。 


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