257 2019-4-1更新

伝承地巡り

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 土筆が頭を出すには少し早い初春、川沿いを自転車で走る。ペダルを漕ぐ回数が少ないので川下に向かって走っていることを感じる。
15分ほど走ると昨年再発掘調査された結果、現在国内で発見されている円墳では最大で直径が109mもある4世紀後半の古墳であることが確認された。古代幹線道路が交差する近くにあり、当時の豪族の墳墓と考えられている。
 さらにそこから2.5qほど下流に向かうと、ここにも直径49mと小さいながらも6世紀後半築造の円墳がある。さらにそこから600mほど東に行くと「一の矢塚」と云うのがあり、その東には「二の矢塚」、「三の矢塚」がある。
一の矢塚は田畑の畦道に1mほどの高さに積み上げられた刈り草の前に石柱が立っており、西面に「一の矢塚」とあり、横面には「大和郡山市観光協会・昭和52年10月建立」とある。
北側は矢田丘陵から流れ出た「沖田川」の3m程の堤で、東方面には大和郡山市の市街地が遠望できる。"
一の矢塚から650mほど北西に進むと、楼門に木製のプロペラが掲げられている「矢田坐久志玉比古神社」がある。祭神である櫛玉饒速日命(にぎはやひのみこと)が天磐船に乗って空を飛んだという「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」に記されている故事により航空祖神として崇められ、境内には航空関係の安全を祈願する絵馬が多く掲げられている。
境内には石柱4本に囲まれ、占め縄で「ぐるぐる巻き」にされた磐座
があり「二の矢塚」の石柱がある。一の矢塚と同じく「大和郡山市観光協会建立・昭和52年10月建立」とある。
さらに二の矢塚から北西に600mほど進むと立派な「三の矢塚」があるが、これも田畑の中にある。自然石の前後を削り「伝承 邪馬台国想定 大和郡山市長 吉田泰一郎」、裏には「昭和59年6月吉日 大和郡山市観光協会建立」と揮毫が彫られおり、一の矢塚、二の矢塚から7年後である。
 案内板には「伝承邪馬台国想定地 三の矢塚」とあり「旧事本記によると…」から始まり、「豪族物部氏の祖神は饒速日(にぎはやひ)であり、天神の詔をうけ天磐船に乗りこの郷を駆け巡り、天神より賜った三本の矢を放ち落ちた所に宮居せんとのたまいし…ここが三番目の矢の落ちた場所。土地の人も昔からこの地を”みやどこ”と呼んでいる。…大和三山を一望できるこの要害こそ物部王朝邪馬台国説による、女王卑弥呼の宮居した伝承にふさわしいと考えられる」と結んでいる。
「旧事本記」とはwikipediaによると「平安初期に書かれたもので著者は不明だが、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されており、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。ただ、江戸時代の国学者・本居宣長らによって偽書とされている」と。
一の矢塚、二の矢塚、三の矢塚と巡ったがその間、畑作業をしている人が「ちらほら」以外、誰一人とも会うことがなかった伝承地巡りだった。


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