はじめに
  石燈籠は神社やお寺の境内、また参道の明り取りとして置かれていることが多い。「石燈籠」と云えば奈良「春日大社」の境内には1900基余りの石燈籠がある。
石燈籠は日本への仏教の伝来と共にもたらされた。今は埋め戻されて見ることは出来ないが、奈良・飛鳥寺を発掘されたとき、金堂前で石燈籠の基壇が1基分みつかった。
これが日本最古の石燈籠と云われている。現存する一番古い石燈籠は奈良・当麻寺金堂前の奈良時代前期のものとされている。
その後平安時代の作と推定されるものとして、春日大社の「柚の木石燈籠」が知られている。
鎌倉時代の作としては?奈良県山辺郡山添村中峰山の「神波多神社」に正和元(1312)年の六角型がある。
鎌倉後期になると今までの六角型に加えて四角型の石燈籠が奈良を中心として社寺に登場。
その中でも元亨三(1323)年の四角型は春日大社の宝物殿に「御間(おあい)型」としてある。
石燈籠は1基づつ奉納されていたが、時代が進み江戸時代に入ると2基一対としても奉納されるようになってくる。
また型の変化、装飾も色々なものが登場するようになる。
石燈籠の構造は上部より宝珠、請花、火袋、中台、竿、基礎、基壇と積み重ねられて各部には彫刻が施れたり、竿には奉納者名、願文、建立年が彫られている。
また基礎、基壇にはこの石燈籠を作製した「石大工名」が刻まれているものがあり、「峠庄次郎」「權兵衛」「佐次兵衛」などと明らかに名前であることが分かる石工名である。
 寧楽考古楽倶楽部で奈良・氷室神社の石燈籠調査に参加したとき、先の「峠庄次郎」らとは異なる人名でない「石工 嗽楽(そうらく)」と彫ってあるものを知った。
また同じ嗽楽でも二種類の落款と落款の無い石燈籠のあることが分かった。
「嗽楽」は「京都府相楽郡出身で三代にわたって主に奈良で活躍していた」と過去に調査された資料があった。嗽楽に興味を持ち「石工 嗽楽」の石燈籠を探してみた。
  
 「嗽楽」の石燈籠を探す
  氷室神社で石工名が彫られている石燈籠は15基あった。
その内9基すべてに「嗽楽」の文字があり1基を除き落款が彫られていた。春日大社の37基、東大寺・二月堂を含む15基に次いで多い。
詳細に見れば「嗽楽」の文字が横に並ぶものと縦に並ぶものもある。
また拓本採取から落款は二種類で明らかに異なる落款であることが確認できた。石大工「嗽楽」の落款は二種類だけと過去の資料にあるがそれ以外にはないのだろうか。
また「嗽楽」の落款の異なりについて、時期的関係についても調べるため氷室神社に加えて京都府木津川市、
奈良市近郊、桜井市の社寺や道端など59ヶ所にあった水盤や宝篋印塔を含む122基の嗽楽の石造物を探した。(表:地域別基数、年号別基数、型式別基数参照)


 拓本から分かったこと
    91基の落款については画像のように落款@と落款A、そして落款がないもをBそして三種類しか見つからなかった。

            
    @        A    (@祐英A祐之は森下所長説による)

 これら@ABの活動時期を見てみると次のようになる。

  落款別活動期と基数

落款別活動期と基数

石工

活動期

期間

基数

@祐英

文化131816)年〜天保4(1833)年

18

63

A祐之

天保 51834)年〜明治91876)年

42

34

Bなし

嘉永11848)年〜明治151882)年

35

25

 

 

 

 

 

   また、石工名、落款と共に「南都」 の文字が頭に彫られているものが、東大寺中門前の2基と奈良の中心部を除く社寺などから半数以上の34基が見つかった。

 採取した主な石工名拓本画像

 氷室神社40  室神社15   氷室神社34 

  木津市岡田国神社    木津川市御霊神社                                                         

       

奈良・大将軍神社    JR奈良駅前                         

            

  二月堂      東大寺             長谷山口坐神社

 

 「南都」と奈良

  奈良市内において「嗽楽」の石燈籠は氷室神社に9基、東大寺6基、二月堂8基、春日大社36基あり、氷室神社は春日大社に次いで多い。
春日大社を除く今回の探索で見つかった91基を観察してみると「南都」の文字が「石工」の前に彫られているものと、そうでないものとがある。
「南都」と彫られている物は水盤1基、宝篋印塔1基、植桜之碑1基を含めて50基あり、彫られていない石燈籠は41基あった。
「南都」は当時の奈良の中心部の呼び方なので、「南都」と彫られている石燈籠のある社寺を元治元(1864)年の「和州奈良之絵図」の上に、およその位置にマークを置いてみた。
絵図の下にある黒丸ャの皇大神宮より時計の左廻りに佐紀神社ッ、狭岡神社、東大寺Qの4社寺の位置を示したもの。
この地域を境に南は桜井市、西は生駒、北は京都府木津市のほとんどの石燈籠には「南都」が彫られていた。
東大寺Qと興福寺52石段の植桜之碑を除いては、当時の中心部から外れる社寺に石工名と共に「南都」を付け加えたと考えられる。
しかし嘉永2(1849)年「祐之」作製の東九条町・元石清水八幡宮の四角バチ型には「南都」は彫られていない。想像が許されるのなら、
この神社は「春日大社の正預に就任した者は必ず一度は頭役として勤仕する定めであった」と云われており、
現宮司(2014年)も春日大社におられた方。時期は分からないがこの石燈籠は春日大社から移されたとおもわれる。(○付数字は神社番号)

         

皇大神宮ャ(現・奈良市四条大路4)の北東方向300mにある大将軍神社(現在・奈良市四条大路3)には「南都」は彫られていない。
この神社はもともと東側の四条大路2丁目にあったものを現在の位置に移されており、この辺りが「南都」の南西の境界だったのだろうか。
ただ、東大寺中門の前と植桜之碑に「南都」が有るのは疑問が残る。
しかも東大寺の2基は参道を挟んで正面にある。もしかして参詣者の多い東大寺境内において「嗽楽」は石大工としてアピールしたかったのではとおもえば納得がゆく。

 落款@ABについて
  古くから奈良で活躍していた石大工たち、権兵衛、奥村喜三郎などは、明らかに自分の名前を彫っているのに対して、
「嗽楽」は彼らとは異なる力強い草書体文字で彫られており「嗽楽」は名前ではないように思われる。
喜多野徳俊著「春日の神の石燈籠」によると、この「嗽楽」について京都府相楽郡の石大工の出身であり、「相楽」をもじって「嗽楽」と名乗ったとされている。
春日大社の資料によると、石工名の入ったもっとも古い石燈籠は角型の享徳3(1454)年建立の「大工 彦次郎」とある。
その後1600年後半から1800年後半に掛けて多くの石燈籠が作製、奉納され始めた。
1700年を過ぎると権兵衛、佐次兵衛たちの石燈籠が多く見られるようになる。
「嗽楽」の作製した最古の石燈籠は春日大社にある文化13(1816)年と、権兵衛や佐次兵衛に遅れること約80年余り後のことになる。
氷室神社ではさらに3年後のbVの文政2年(1819)である。「嗽楽」が奈良で石燈籠を作製し始めたのはこの頃と推定される。
  すでに石大工として奈良で活躍していた石大工たちと同等の「商」をするには、彼らと異なった目立つ意匠的なデザインが必要だったのではないだろうか。
 京都・相楽郡から奈良へ出てきた石大工・嗽楽は「嗽楽」を屋号として用い、目立つ太い草書体で彫りその後ろに作製者個人として落款を付け加えたと考えることが出来る。
  91基で見つかった落款は落款画像@とA、そして落款のないものBとあり三種類しか見つからなかった。
落款@Aについては森下恵介所長により落款の文字は「祐英」と「祐之」であるとされ、これらは明らかに名前である。
どちらも「祐」が付いていることから親子か兄弟であろうと思われるが、はっきりとは分からない。
しかし「嗽楽」は少なくとも「祐英」と「祐之」の二人の石大工がいたという事の判断は出来る。
  @ABそれぞれの活動時期について落款と年号を単一化してグラフにして見ると下図のようになる。

     

      (○と基数は一致しない)

 @「祐英」の石燈籠は文化13(1816)年に春日大社、文政2(1819)年に氷室神社と東大寺境内に登場して以来、
天保4(1833)年まで18年間にわたって63基の作製を続けているが、天保5(1834)年以降は全く見つからなかった。

 A「祐之」の落款については氷室神社と天理市・春日神社に、それぞれ天保5(1834)年のものがあり、
春日大社一の鳥居の明治3(1870)年までの43年間に渡って34基作製しているがその後は見つかっていない。

 Bの落款が彫られていなものは大和郡山市・菅田神社の嘉1(1848)年から、桜井市・岸の上公園の明治15(1882)年の35年間に渡り25基作製している。
またBの菅田神社のものはA「祐之」の最初の作製から15年後に登場し、その後42年間に渡りAとBは重複して作製が続いている。
 それらのことから@は京都府相楽郡から奈良へ出てきた初代「祐英」で、天保5年にAの「祐之」が二代目を継いだ。その関係は名前に「祐」が着いていることから親子か兄弟と考えられる。

 Bにはなぜ落款が彫られなかたかについて一つの考えとして、Bが「嗽楽」の血縁者であったとするならば、
二代続いて「祐」が名前に付けられたので三代目にも当然「祐」の1文字を用いたはず。
Bに「祐」を引き継ぐ血縁関係がなかったのではと考えられる。
それらのことから三代目Bは単なる主従関係で「石大工・嗽楽」を継いだと考えられ「石屋・嗽楽」は3代にわたって存続したと推測することが出来、
落款は一代、二代の作製者個人を表すものであると言える。

 石大工名と共に彫られた居住地
  石大工名「嗽楽」と共に住居地とおもわれる文字が彫られている石燈籠は東大寺の文政2(1819)年の
「東向北町」(@)と天理市・春日神社にある3基のうち1基(@)に天保2(1831)年の「南都東向」、
そして「植桜ノ碑」(B)の嘉永3(1850)年の「南都東向北町」の計3基がある。
この間32年間に渡って「石屋・嗽楽(@〜B)」は東向町近辺で石にノミをふるっていたのだろう。

   「嗽楽」の石造物
  今回探した「嗽楽」が作製した石燈籠は59ヶ所の社寺や道端などにあった。
その多くは四角バチ型と六角円柱型であるが、二月堂には小型の四角四脚と六角四脚が1基ずつ。
また石燈籠以外では生駒郡安堵町の子守神社には水盤と猿沢池五十二段石段の西側に川路聖謨の依頼により建てられた石碑、
大阪府・高貴寺の宝篋印塔がそれぞれ1基ずつあり、これらを除くと122基中100基が六角型または神前型石燈籠である。
  別表・型式別基数の通り「嗽楽」の石燈籠は、四角型が68基あり全体の56%、六角型が32基で26%、その他が18%となる。

 火袋の彫刻一例

       

 氷室神社 東大寺   東大寺 手向山八幡      帯解寺 釣殿神社 崇道天皇社      

                      

 二月堂・四角脚付に巴・杯と瓢箪徳利   池澤春日神社   鴨山口神社  

中台彫刻の一例

    

    崇道天皇社   二月堂   池沢春日神社 笛吹神社

 竿彫刻の一例

    

別表 
  地域別基数
     
  地域別基数          型式別基数       年号別基数

        
            東  大  寺                 子守神社   春日大社  笛吹神社   高貴寺   鴨山口神社  氷室神社 植桜之碑

 嗽楽の石燈籠の型式

   

 

 石燈籠以外の作製物
 水盤、宝篋印塔、石碑

石燈籠の各部名称と竿(バチ型)、採寸位置

   

 

竿の種類

  

 六角バチ型   四角袴型    脚付型

あとがき
  今回、見つけた「嗽楽」の石造物は56ヶ所の社寺境内や道端にあったが、風化が進み文字の判読の難しいもの、
道路の整備工事で道端に一対であったとおもわれるが、残念ながら石工名のない方だけが残されていたところもあった。
一部の社寺を除いて「嗽楽」の石造物のある神社は地元の方が管理されており、管理されている方を探すことから始まり、
そのお宅が分かって拓本採取の許可を頂くために訪れるが、お留守のことも多く2回、3回と日を改めて訪問しなければならなかったこともあった。
しかしほとんどの神社では快く拓本採寸の許可を頂くことができた。  奈良にはまだまだ多くの社寺があり、
「嗽楽」がどこかで「かくれんぼ」しているかも分からないが、今回は取りあえず56か所91基をもとに「嗽楽」について考えてみた。
 探索、拓本採取などに関して、奈良市埋蔵文化調査センター・森下恵介所長のご指導を受けたのを始め、
多くの人との出会いがあり、お力を貸していただいたことに感謝。

参考文献  
    喜多野徳俊著 「春日の神の石燈籠」  
    春日大社    「春日神社石燈籠配置図」「燈籠百話」
   春日大社石燈籠平成調査委員会資料
   仲  芳 人 著 「史跡と美術」
   印南敏英著   「こんぴら暮らし」
   川勝政太郎著 「石造美術入門「歴史と鑑賞」

                                                              奈良市埋蔵文化調査センター
                                                                                                                                   寧楽考古楽倶楽部会員   
                                                                                                                                                    吉 井 忠 昭
                                                                                                                                           2016年5月(改)