第4回 ニムラサキ 映画でも小説でも、内容はろくに覚えていないくせに、昆虫が出てくる場面だけは記憶に残る。ムシ屋さんに共通した性癖らしく、レマルク原作「西部戦異状なし」では、若い独軍兵士が塹壕の縁にきた蝶に手を伸ばすシーンがある。そのチョウは何か、でずいぶん議論した、と奥本大三郎氏が書いていた。 私もこの映画見たことがあり、ストーリーは半身をのりだした若者が狙撃されるところで終わるのだが、それより、あの蝶はタテハチョウかシロチョウか、と長く疑問に思った覚えがある。 蝶好きな作家といえば、ヘルマン・ヘッセ。「少年の日の思い出」という小品では、収集熱が昂じたあまり、友達の珍重するクジャクヤママユを盗んでしまい、一生、ほろ苦い後悔に悩まされる男を描く。キシタバというきれいな蛾やコムラサキというタテハチョウも登場し、話とは別に、ヨーロッパの蝶相がわかり、興味ぶかい。 もうひとりの蝶好きはエーリッヒ・ケス トナー。原稿用紙に飛んでくるクジャクチョウにゴットフリートと命名し「やあ、元気?」、と「飛ぶ教室」の前書きにある。両者ともドイツ人だが、考えてみたら、日本をはじめ、諸外国で蝶を描いた作家は意外にすくない。「秘剣・飛蝶斬り」(伊藤桂一)などというチャンバラ小説があるが、もちろん、蝶学とは無縁である。私が高校生のころ読んだヘッセなど、ドイツ作品の翻訳には「ニムラサキ」という珍蝶(?)がよくでてきた。どんなチョウかと、不思議に思い、昆虫図鑑を調べてもでていない。あまたの蝶屋さんたちも同じ疑問を抱いたらしい。北 杜夫氏もそのひとりで、熱心に調べたところがさすがマンボウ先生。その結果、独和辞典の誤植だったことをつきとめた(串田孫一氏の発見ともいわれる)。コムラサキのことだが、翻訳者たちは誰も気づかなかったらしい。ドイツ文学には通じていても、自然に対しては無頓着だったことを図らずも示してしまった一事である。 * コムラサキならカチカチ山にも生息している。236 m ピークを下った渓流沿いの林縁を優雅に旋回していた。オスの翅表はムラサキ色の金属光沢を放ち、いかにも珍品に見えるのだが、ヤナギ類が食草なので、わりあい市街地にも飛んでいる。オオムラサキの名声に隠れて目立たないが、カチカチ山土着種として大切にしたい。 (佐野 浩) 戻る |
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