| 2011年 10月例会のご報告 |
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| 近江 賤ヶ岳城砦群 | ||||||||||||||
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今回の例会は、「賤ヶ岳城砦群」のうち、賤ヶ岳砦・大岩山砦・岩崎山砦の3ヶ所を尾根伝いに縦走しました。 午前10時、19人が「木之本」駅に集合。 バス・リフトを乗り継いで山頂に向かった。 リフトの山上駅から「賤ヶ岳砦」までは約10分ほどの道のりだ。 左眼下に広がる琵琶湖の風景が美しい。 「賤ヶ岳砦」で再集合した後、まず砦の北西下に位置する「堀切・土橋」の見学に向かう。 観光名所化により改変された賤ヶ岳砦の中では数少ない良好な遺構だが、土橋に関しては、先への連絡の必要性が希薄なため、後世に造られたものように感じる。 さらに数百m先に位置する「大切通し(通称:大堀切)」は、見学予定外であったが、参加者の希望もあり、森田副会長に案内してもらいました。 再び賤ヶ岳砦に戻り、昼食と記念撮影の後、見学を再会した。 大きく改変されている賤ヶ岳砦は、どこまでが当時の遺構かは判明しにくい状態であるが、副郭の周囲に巡らされている土塁の一部や三郭の東虎口に関しては、ほぼ当時のものであろうと思われる。 東虎口横に一条の竪堀が認められるが、これは砦への進入路を規制して折れを生じさせ、虎口に導いたものだと思われ、羽柴系の但馬攻略期の陣城でも見られる手法だ。 東虎口を後にして大岩山砦を目指す。 途中、秀吉が佐久間盛政を攻める際に指揮を執ったといわれる「猿が馬場」や、大岩山の守将・中川清秀の首を洗ったといわれる「首洗いの池」などの伝承地を見学しながら、約30分ほどで大岩山砦の主郭に到達した。 大岩山砦は、この主郭を中心として南北300mの城域を持ち、主郭の周囲には土塁が巡らされている。 削平整備の意図も感じられるが、その他の城域にはあまり明確な遺構は確認し難い状態であり、典型的な陣城の様相を呈している。 おそらく主郭部に中川清秀以下の上級武士が陣取り、周辺に広がる平坦地に雑兵を収容していたのであろう。 砦は、東の北国街道に向けて築造され、東斜面には竪堀状の塹壕が施設されている。 この塹壕は、堂木山隘路の防衛を破った敵勢が北国街道を南下した場合、その側面に攻撃を仕掛けるための出撃路の役割を睨んだ施設はないだろうか。 天正11年4月20日、柴田方の佐久間盛政約八千の軍勢に奇襲を受けて、砦は落ち、中川清秀以下約千人は全員討ち死にしたと伝わる。 主郭に佇む中川清秀の供養塔を眺めながら、当時の様子に思いを馳せた。 約20分程の自由見学の後、最終見学先の岩崎山砦へは約15分程で到着した。 岩崎山砦は、余呉湖東岸の尾根筋の最北端に位置し、高山右近が守備に就いていた。 砦は、東西約250mの城域を持ち、土塁囲みの主郭を中心に削平の甘い郭郡が小さな支尾根3本に足を広げるような形に築造されている。 やはり典型的な陣城の様相だ。 砦の向きは、北国街道方向の堂木山隘路に向いていると思われ、賤ヶ岳の合戦が堂木山から田上山までの北国街道沿いの隘路に焦点を絞った戦いであったことが良く理解できた。 遺構の醍醐味には少し欠ける三砦であったが、今回、幹事をさせていただき、分かっているようで分かっていなかった「賤ヶ岳の合戦」について、自分なりに整理する良い機会を与えてもらったと大変感謝している。 (報告:周藤匡範) |
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