おはスタ感想ページ

2023/06/13(火)

出演:木村昴、NUWARA、岡崎体育、櫻井佑樹
おはガール:
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今回の見所

 人間は物自体を認識することはできないと考えた点が見所でした。 今日は保育士の仕事をレポート。それによると、保育士は実際にしゃがみ込み、子供の目線で事故を予知するとの事。 これは、同じ物でも人によって認識が異なる事を意味しており、それゆえ人間は物自体を認識することはできないと考えました。 さつきがQJWebに寄稿。 本文によると、「お笑いを見るのに知性は必要か」という論争があるとの事。 お笑いを見るのに知性は必要ないと考えます。というのも、お笑いを鑑賞する行為は知性の定義に合致せず、根拠もないからです。 他に、とにかく明るい安村という裸芸人を紹介。これを読んで、お笑いがバカにされるのはお笑いが面白いからだと考えました。 というのも、食物は食べる事ではなく、消化する事に意味があるからです。 食べると美味しくても(裸芸が面白くても)、栄養素はない(内容がない)ので、お笑いはバカにされます。

・人間は物自体を認識することはできない
・お笑いを見るのに知性は必要ない
・お笑いがバカにされるのは、お笑いが面白いから


●人間は物自体を認識することはできない

 人間は物自体を認識することはできないと考えました*。 今日は保育士の仕事をレポート。それによると、保育士は実際にしゃがみ込み、子供の目線で事故を予知するとの事。 物事を別の目線で認識する事は重要です。というのも、人間は物自体を認識できないからです。 例えば芸人はある人達にとっては尊敬すべき人ですが、ある人達にとってはバカにすべき人です。 「芸人はバカ」という共通認識がある人達の間でさえ、バカは笑うもの(デモクリトス)、バカは泣くもの(ヘラクレイトス)と、 認識が異なります。 人間は物自体を認識できず、それが先入観となり、事故につながる可能性もあります。

* 齋藤孝, 使う哲学, 121, 人間は物自体を認識することはできない(カント):裸眼で見る世界、メガネで見る世界、サングラスで見る世界は異なり、どれが正しいのかわからない。嗅覚が強く、視力が弱い犬は人間と別の世界を生きている。人間にとっての木とダニにとっての木も異なる。(ダニにとっての木は、動物が通りかかるのを待つもの。動物が来たら木から落ちる。)そこに物があるが、人間は本当にとらえることができているのか。認識は対象に依存している。これをカントはコペルニクス的転回と呼んだ。アプリオリでも対象は認識される。アプリオリとは見たことがなくても、先天的にプログラミングされている認識。「時間とはこんなもの」「物事には原因がある」。認識が対象に優先するなら、人間の見方には限界がある。人間の五感でとらえられるものには限界がある。それゆえ、物自体を人間は認識できない。何かしらの事物を見る場合、ある枠組みの限界があるのなら、意識的にその枠組みを外した上で対象物を見るように心がけるのも良い。(子供目線、犬目線。)

●お笑いを見るのに知性は必要ない

 お笑いを見るのに知性は必要ないと考えました。 なぜなら、お笑いを鑑賞する行為は知性の定義に合致しないからです。 さつきがQJWebに寄稿。 本文によると、「お笑いを見るのに知性は必要か」という論争があるとの事。 お笑いを見るのに知性は必要ないと考えます。というのも、お笑いを鑑賞する行為は知性の定義に合致しないからです。 知性の定義とは広辞苑第6版によると次のとおり。

1.頭脳の知的な働き。知覚をもととしてそれを認識にまで作りあげる心的機能。「―に欠ける」
2.[心]広義には知的な働きの総称。狭義には感覚により得られた素材を整理・統一して認識に至る心的機能。

知覚の定義とは広辞苑第6版によると次のとおり。

1.[仏]知り覚ること。分別すること。
2.[心](perception)感覚器官への刺激を通じてもたらされた情報をもとに、外界の対象の性質・形態・関係および身体内部の状態を把握するはたらき。→感覚→認知

認識の定義とは広辞苑第6版によると次のとおり。

1.[哲]cognition イギリス・Erkenntnis ドイツ)人間が物事を知る働きおよびその内容。知識とほぼ同じ意味。知識が主として知りえた成果を指すのに対して、認識は知る作用および成果の両者を指すことが多い。
2.物事を見定め、その意味を理解すること。「時局を―する」「―が足りない」

上記より、知性とは理解し(知覚)知識とする(認識)性質と考えられますが、 例えば池崎の「イエーイ」は「理解し知識とする性質」を持っていないと思われる人でも楽しんでおり、 それゆえお笑いを見るのに知性は必要ないと考えます。

 お笑いを見るのに知性が必要なら、そう主張する人が根拠を提示しなければなりません。 知性が必要ないという主張なら、根拠(理由と証拠)も不要です。なぜなら、ないものは理由も証拠もないからです。 例えば検察が有罪を主張しても、根拠を出せないのならば、被告は何もしなくても無罪です。 このように立証責任は大変重く、「高3は週4でお笑いライブを見た*1」なら、同時に根拠も出さなければなりません。 根拠がない主張は、特にネット社会では、完全な嘘だと考えられます*2。 お笑いに知性が必要という主張の根拠は本文に全く無く、それゆえ、お笑いに知性は不要です。

*1 「高3は週4でお笑いライブを見た」は2023/06/08放送の「奥森皐月の公私混同」での発言。この主張が事実なら、年200本近くのお笑いライブを見た計算になります。 しかしながら、2022/12/22放送の「奥森皐月の公私混同」では「100本」と発言しており、 Twitterにはさつきが見たライブの一覧(全100本)が掲載されています。 こちら

*2 デカルトは「根拠がなければ全て嘘*3」と言うものの、さつきは話を盛っても嘘をついてもかまいません。 なぜなら、女の嘘に騙されてやるのが男の甲斐性だからです。 「嘘をついても、いちいち騙されてあげます」と言ってくれる男は、女にとって非常に楽なはずです。

*3 デカルト, 世界の大思想 7 デカルト 知能思想の規則 方法序説 省察/哲学の原理 情念論, 知覚指導の規則, 81, 真実らしいというに過ぎないものは、全ては虚像である。


●お笑いがバカにされるのは、お笑いが面白いから

 お笑いがバカにされるのは、お笑いが面白いからだと考えました。なぜなら、食物は食べる事ではなく、消化する事に意味があるからです*。 これは「マクドナルドがバカにされるのは、マクドナルドが美味しいからだ」とも同じです。 両者ともに、食べると美味しい(楽しい話題をペラペラと出す)ものの、消化すべき栄養素はありません(ペラペラに薄い内容)。 食物の本質を美味しさだと考える人達にとってはお笑いもマクドナルドも評価すべき対象ですが、 食物の本質を栄養素だと考える人達にとってはお笑いもマクドナルドも避けるべき対象です。 お笑いは面白くても内容が薄く、それゆえバカにされます。

* 池上彰, なんのために学ぶのか, 148, 食物は食べる事ではなく、消化する事に意味がある。(ショウペンハウエル「読書について」)



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