おはスタ感想ページ

2024/01/31(水)

出演:木村昴、ミキ(昴生、亜生)
おはガール:土方エミリ
スポンサー:小学館、タカラトミー、Cygames、BANDAI

今回の見所

 リニアとサグラダファミリアが完成しそうだと考えた点が見所でした。 今日はリニアモーターカーを特集。 リニアとサグラダファミリアは長期間完成せず、「完成するするサギ」と呼んでいましたが、いいかげん完成しそうです。 シャドバのアニメにおいて「お前も絶望するんだよ、今ここで」との事。 キルケゴールいわく、絶望できるうちは絶望ではなく、それゆえ、今ここで絶望できるなら、それは絶望ではありません。 シャドバで負けた後、家に帰って風呂に入り、「あーあ、シャドバで勝ちたいなぁ。でも勝てないしなぁ。かといって死ぬほどでもないし。」 と言っている状況が絶望です。

・リニアとサグラダファミリアが完成しそう
・絶望できるうちは絶望ではない


●リニアとサグラダファミリアが完成しそう

 リニアとサグラダファミリアが完成しそうだと考えました。今日はリニアモーターカーを特集。 リニアと言えば「完成するするサギ」・・・でした。 というのも、大昔、それこそ80年代ぐらいから「完成する」と言っておきながら、ちっとも完成しなかったからです。 それどころか、日本ではなく、上海でリニアが先に完成しました。 「リニアとサグラダファミリアは永遠に完成しない」と思っていましたが、昨今の情勢を見ると、意外に完成しそうです。 特に後者は進捗に加速がついており、リニアより先に完成しそうです。 大日本史も250年かけて結局完成しており*、リニアとサグラダファミリアも完成しそうです。

* 司馬遼太郎, 街道をゆく37 本郷界隈, 205, 大日本史は完成まで250年かかった。


●絶望できるうちは絶望ではない

 絶望できるうちは絶望ではないと考えました。シャドバのアニメにおいて「お前も絶望するんだよ、今ここで」との事。 今ここで絶望できるという事は、それは絶望ではありません。というのも、絶望とは絶望していない状況だからです*1。 絶望とは死に至る病*2なのに(肉体的に)死ぬ事はなく、「シャドバで勝ちたいなぁ」と思っていながら勝てるでもなく、 かといって死ぬほどでもなく、悶々としながら風呂に入っているような状況です*3。 死とは最後の希望であり、「負けた!もう死のう・・・」などと考えているうちはまだ絶望ではありません。 今ここで絶望できるなら、それはまだ絶望ではありません。

*1 キルケゴール, 世界の大思想24 キルケゴール おそれとおののき 哲学的断片 不安の概念 死にいたる病, 死にいたる病, 384, 人間は精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。

Ibid, 385, 人間は自己であり、精神であるからこそ、絶望する事ができるのである。(略)絶望していない事が、ただ絶望していないというだけの事で、それ以上でも以下でもないならば、それはまさしく絶望している事なのである。

*2 Ibid, 387, 絶望は「死に至る病」である。

*3 Ibid, 387, それにしても絶望は、いま一つの意味(注:肉体的な病気ではないという意味)において一層明らかに、死に至る病である。この病では人は死なない(注:普通に人が死ぬと言っている意味では)。言い換えればこの病は肉体的な死をもっては終わらない。反対に絶望の苦しみは、まさに死ぬ事ができないという点にある。絶望はいわゆる業病(ごうびょう)に取り憑かれた者の症状に似ている。彼はそこに横たわって死に苛まれていながら死ぬ事ができない。かくて「死ぬばかりに病んでいる」というのは、死ぬ事ができないという事であるが、といって、生きられる希望がまだそこにあるわけではない。否、最後の希望である死さえも来ないほどに希望が絶たれているのである。死が最大の危険であるならば、人は生を願う。一層恐るべき危険を知った時には、人は死を願う。死が希望の対象となるまでに危険が大きくなった場合の希望とは、死ぬ事ができるという希望さえも絶たれている事である。この最後の意味において、絶望は死に至る病である。



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